蘇芳の優しさ
よろしくお願いします。
「落ち着いたか?」
蘇芳の声が上から聞こえて、千恵はずっと抱きしめられたままだったことに気がついた。その逞しい胸板に、蘇芳が男性だと思い出した千恵は恥ずかしくなってもがく。
「うん、ごめんなさい……」
千恵が離れようとしても、蘇芳はしっかり掴んで離さない。
「ちょっと、蘇芳。離して」
「嫌だ。もうしばらくこのままでいいだろう? こうしていた方が落ち着くと聞いた」
「……反対に落ち着かないわよ。誰よ、そんなこと言ったの」
「桜花だ」
「まあ、そうでしょうね」
気持ちが大分落ち着いた千恵は淡々と頷いた。蘇芳にとって桜花は絶対だ。それ以外の人の名前を聞いたことがない。
「怒ったのか……?」
蘇芳は体を離すと、硬い表情で千恵の顔を覗き込んでくる。先程千恵が癇癪を起こしたことを気にしているのだろう。千恵は首を振って苦笑した。
「さっきのは私が悪かったわ。ごめんなさい。あれはただの八つ当たりだから気にしないで」
「いや、だが……」
「嫌われることには慣れてたつもりだったけど、やっぱり辛くて。だから蘇芳に当たっちゃった。本当にごめんなさい。さっきのことは気にしないで」
蘇芳にとって桜花がどれほど大切な存在かはわかっている。それを千恵がどうこう言える立場じゃない。
それにこうして線引きをすることで、これ以上蘇芳に千恵の心へ立ち入って欲しくなかった。
蘇芳が守りたいのは桜花の魂であって、千恵の心じゃないのだ。千恵は臆病だから、こうすることでしか自分を守れない。
笑顔を貼り付けて蘇芳を見る。すると、蘇芳は不機嫌になった。
「嘘をつくな」
「嘘じゃないもの。私は平気。今までだってこんなことはあったもの。今度だって乗り越えられる」
──そう、独りであっても。
千恵は俯いて膝の上に置いた手を握りしめる。その手に蘇芳の冷たい手が重ねられた。
「自分がどんな顔をしているか、わかっているのか? 無理をするな。俺はお前の味方だ。何でも言ってくれ」
心が弱っているから、そんな蘇芳の優しさに縋りたくなる。でも、今の千恵には蘇芳の優しさは毒だった。じわりじわりと沁みていって千恵の心を弱らせるのだ。これ以上は聞きたくない。流されそうになる心を叱咤して、千恵は声を上げて話題を変えた。
「そんなことより! 蘇芳も河邑さんがやったと思う? 私は違うと思うんだけど」
「あ? ああ……」
蘇芳は驚いて瞬きをすると、顎に手を当てて天井を見る。
「……俺も違うと思う。河邑という女は暴言を吐いたが、あの紙から感じる嫌な気配は感じなかった。あの気配は混じり合っていて判別しにくいが……」
「混じり合ってるってことは、一人じゃないのね?」
「ああ。だが、一つは前に感じたことがあるやつだな。お前の友人に憑いていて追い払ったやつだと思う」
「そうなんだ……でも、蘇芳。だからといって、人を攻撃しようとするのはやめて。私なら大丈夫だから」
千恵の言葉に蘇芳は不服そうに鼻を鳴らした。
「お前を傷つける奴をどうしてお前は許すんだ。俺は許せない」
「許す訳じゃない。蘇芳は鬼で、私はあなたがどれだけ強いのかわからない。そんなあなたが攻撃して、人が死なないって言える?」
「……言えない」
少し考える様子を見せてから蘇芳は悔しそうに答える。
千恵は嘆息した。やっぱりあの時止めてよかったのだ。
「もう絶対にやめてね。もし人に危害を加えたら、許さないから」
精一杯顔をしかめて蘇芳に注意をする。蘇芳は叱られた犬のように項垂れた。
「……もう、しない」
「それならいいわ。じゃあ、次の授業に出るから、蘇芳は好きにしてて」
「俺もついていく」
「……別に守らなくていいのよ。私は一人でも平気だから」
「……俺は、邪魔なのか?」
蘇芳の眉は悲しそうに下がっている。どうして蘇芳の方が傷ついているように見えるのか。千恵と桜花が違うとわかっていても、やっぱり桜花を選ぶくせに。そう思っても、千恵は蘇芳を拒めないのだ。
「そんなことない、けど……」
「なら俺も一緒に行く。お前一人じゃ、心配だ」
そうやって優しい言葉で千恵の心を翻弄する。
蘇芳は酷い。絶対に蘇芳に心を傾けたりなんかしないと、千恵は心の中で誓った。
その後教室に戻ると、小夜が駆け寄ってきた。
「もう大丈夫なの?」
「うん。心配してくれてありがとう」
「それにしても、酷いわね。誰があんなことを……」
小夜はちらりと成実を見る。千恵もつられて視線をやると、こちらを見ていた成実と目が合った。
千恵が作り笑いを浮かべると、成実は不快そうに眉を寄せて、思い切り視線をそらされた。
「やっぱり河邑さんなのかしら」
小夜がボソッと呟く。千恵が小夜を見ると、小夜はまだ成実を見ていた。
「……河邑さんじゃないと思う」
「何でそう思うの? 河邑さんの言葉、聞いたでしょう?」
「聞いたけど……でも、違うの。どうしてかって聞かれると、なんとなくとしか言えないんだけど」
まさか、蘇芳がそう言ったからとは言えない。千恵は曖昧に言葉を濁した。小夜は納得したのかしてないのか、そう、とだけ言って黙り込んだ。
千恵は不安だった。
良くない霊が増えていることや今回のこと。考え過ぎかもしれないが無関係だとは思えなかった。蘇芳が言った複数の悪意。それはあの一枚の紙で収まるのだろうか。
これからもっと良くないことが起こりそうな予感に、千恵は薄ら寒いものを感じていた。
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