広がる悪意
よろしくお願いします。
「おはよう、谷原さん」
「あ、おはよう」
教室に入るとクラスメイトに声をかけられ、千恵も挨拶を返す。最初は挨拶されることにも戸惑っていたが、今では挨拶は自然に交わせるようになった。それでも会話が始まったらボロが出そうなので、挨拶が終わるとすぐに自分の席に向かう。
「ふう」
鞄の中から教科書を取り出し、机の中に入れようとして引っかかり、中に何かが入っていることに気づいた。
「あれ、何だろ……」
机の中に手を入れると、封筒のようなものがある。それを引っ張って出す。よく見かける何の変哲もない茶封筒だ。
誰かが間違って入れたのかもしれないと思ったが、封筒には“谷原千恵様“と書いてある。千恵が開けようとすると、蘇芳が覗き込み、厳しい表情で叫ぶ。
「開けるな!」
「え?」
蘇芳が止める前に、千恵は封を開けた。同時に指に何かが当たり、遅れてジクジクと指先が痛みを訴える。
「痛っ、何これ……」
封筒の上部にはカミソリの刃が貼られていた。間違って混入したというには念入りに仕込まれている気がする。そして、千恵がカミソリの刃を取り除いた後に封筒を見ると、折り畳まれた一枚の紙が入っていた。
──調子にのるな!
A4の紙いっぱいに大きく書かれたそれを見て、千恵は息を呑んだ。紙を手に持ったまま呆然とする千恵に、蘇芳は声をかける。
「おい、千恵。何て書いているんだ?」
「……調子に、のるな、って……」
蘇芳が他の人に見えていないことすら、千恵の頭にはなかった。独り言のように呟く千恵の言葉を聞きつけた小夜が、慌てて寄ってくる。
「どうしたの、谷原さん。ちょっと、怪我してるじゃない!」
「何、どうしたの?」
小夜につられてまた何人かが寄ってきた。千恵の手元にある紙を覗き込んだクラスメイトが、千恵を慰める。
「こんなの、ただの嫌がらせよ。気にすることないわ」
「手の怪我は大丈夫? 絆創膏あげようか?」
そんな優しい言葉の中、小さな嗤い声が千恵の耳に入った。
「いい気味よ」
千恵が反射的に声のした方を見ると、嘲るようにクラスメイトの女子が睥睨していた。河邑成実といって、大人しいグループに属している彼女は、千恵とは挨拶を交わすくらいの間柄だった。
小夜や周囲のクラスメイトにも聞こえたのか、数人の女子が千恵を守るように前へ立つ。
「谷原さん、気にすることないわよ」
「そうよ。それとも、もしかしたら河邑さんがやったんじゃない?」
「あ、そうかも! 自分が目立たないからって人を妬むなんて最低ね」
皆が思い思いに成実を非難する。だが、成実がやったという証拠はない。千恵は皆を止めようと口を開いたが、千恵が言葉を発する前に成実が怒鳴った。
「私じゃないわよ!」
「どうだかね」
「さっきの言葉、聞いてたんだから」
小夜たちだけでなく、遠巻きに見ていた男子たちも成実を疑わしげに見始める。そうしてクラス中の視線が成実に集中する。
「どうして、そんな目で見るのよ。私じゃないって言ってるじゃない!」
「でもねえ……」
「怪しいわよね」
何やら雲行きが怪しくなってきた。千恵はこのままではまずいと声を上げた。
「ちょっと待って! ごめんなさい、大事にしちゃって。こんなの大したことじゃないから、気にしないで。それに、河邑さんは違うって言ってるし、もうやめよう?」
「谷原さんはそれでいいの?」
小夜が心配そうに聞いてきて、千恵は頷いた。
正直に言って、ショックだった。
幼い頃は人外が見えることで、嘘つき呼ばわりされたり、仲間外れにされた。それでも見えることを隠してからは大きな問題は起きなかったのだ。
「わかった。谷原さんがそう言うなら……」
小夜や女子たちは渋々折れた。だが、意外にも成実が折れなかった。千恵を睨みつけて吐き捨てる。
「それで私を庇ったつもり? 私はあなたなんかに同情される覚えはないわ。私は他人に興味ありませんみたいな顔して。そういうところがムカつくのよ」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
「ちょっと! 庇ってもらってなんなのよ、その態度」
「庇ってくれなんて言ってないじゃない。これも谷原さんの手なんじゃないの。自分で手紙を仕込んで心配してもらおうって。案の定みんな騙されてるし。よかったわね、心配してもらって」
成実の辛辣な言葉に、千恵は立ち竦む。やっぱり自分は人を不快にしてしまうのだ。俯いて強く拳を握りしめた。
だが、次の瞬間、千恵の背後からドスのきいた重低音が響いてきた。
「……言いたいのはそれだけか、人間風情が。千恵の体だけでなく、心も傷つけた。その罪を思い知れ!」
「蘇芳、駄目!」
蘇芳から放たれる威圧に圧倒されそうになるが、このままでは蘇芳が人を傷つけてしまう。千恵は蘇芳の前に立ちはだかった。
蘇芳は千恵を睨んで唸るように命令する。
「どけ」
威圧のせいで声が出ないが、代わりに小さく首を振る。蘇芳の顔は更に険しくなる。その時だった。
始業を告げるチャイムが鳴り、その音にはっとした蘇芳から威圧が消えた。
気が抜けた千恵はその場に崩れ落ちた。
「谷原さん、大丈夫?」
「千恵、大丈夫か?!」
小夜と蘇芳が同時に声をかけてくれる。千恵は力無く笑った。
「ごめんなさい、気が抜けちゃって」
「ううん。もうすぐ授業始まるけど、受けられそう……?」
小夜が手を出して立たせてくれたが、千恵の足の震えは止まらない。
「……少し目眩がしちゃって。ちょっと、保健室に行ってくるね……」
「付いて行こうか?」
「ううん。もう授業も始まるし、一人で大丈夫。騒がせてごめんなさい……」
千恵は皆に頭を下げると、のろのろと教室を後にした。授業が始まって静かな廊下をひたすら保健室を目指して進む。
「おい、千恵。大丈夫か?」
蘇芳も心配して声をかけてくれるが、千恵には答えられなかった。口を開いたら泣いてしまいそうだったのだ。唇を噛み締めて、俯いたまま保健室に入った。
保健医はおらず、“職員室にいます”とだけメモがあった。呼びに行く気も起きず、千恵はベッドに腰掛けた。ぼうっと床を見つめる千恵に、蘇芳が気遣わしげに声をかけてくる。
「おい、千恵?」
「……やっぱり私は駄目ね。いつも人を不快にさせる。どうして嫌われるのかもわからない……」
気持ちを吐露すると、千恵の目から涙がぽろっと落ちた。蘇芳が慌てて千恵の涙を拭う。その手は冷たいのに優しくて、千恵の目から更に涙が溢れた。
「俺はお前が好きだぞ。だから泣くな」
「……違う。蘇芳が好きなのは桜花さんで、私じゃない」
「何を言ってるんだ? 桜花の魂は千恵だろう」
「違うって言ってるでしょう!」
泣きながら声を荒げる千恵に、蘇芳は目を見開いている。それでも千恵は止まらなかった。
「蘇芳が好きなのは桜花さんの魂じゃない! だったら私じゃなくてもいいのよ。私が死んだってまた生まれ変われば桜花さんの魂は残る。そういうことでしょう?」
「死ぬなんて言うな!」
「蘇芳がわかってくれないからでしょう! 人には嫌われて、蘇芳だって桜花さんのことばかりで私自身を見てくれない。私ってなんなの? そんなにいらない人間なの……?」
こんなことを言って、蘇芳を困らせたい訳じゃない。これでは子どもの癇癪だ。やめたいのに、千恵の心が悲鳴を上げて止まらない。言えば言うほど自分も傷つくだけなのに。
蘇芳は両手を広げてふわりと千恵を優しく包み込む。そして子どもをあやすようにぽんぽんと背中を叩く。
「……千恵、悪かった。お前を追い詰めるつもりはなかった。俺は桜花と千恵は魂は同じでも違う存在だとわかってはいるんだ。だが、一緒だと思わないと自分を許せなくなる。俺は桜花を忘れてはいけないんだ。俺自身の罪を忘れないためにも」
「蘇芳の罪って……?」
「それは……そのうち、話す」
蘇芳は目を逸らす。
千恵はそのまま黙って蘇芳の腕の中にいた。なかなか泣き止まない千恵を、蘇芳はずっと抱きしめてくれていた。
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