第7話 「ハリボテの覚悟」
今回は六千五百字程度となっています。
太陽の光が入らない魔樹海にも夕方や夜は存在する。魔樹海を淡く照らす草木。朝や昼は白色のそれらは夕方には暖色、夜には白銀に光の色を変える。
その柔らかいオレンジ色の光に照らされた長尾族の集落北部。そこはベンチが一つ置いてあるだけの小さな広場だった。
ベンチに座る一人の古種。その人物はキセルをふかしながら、目の前に歩いてきた彼女を見る。
「おお、ソフィア。わざわざ探しに来てくれたのかのう?」
彼女はそれには返事をせず、手に持っていた背嚢を彼に向かって乱暴に放り投げた。
「おっと。――いつもすまんのう」
彼、ザザムはそれを受け取ると中身を確認し、年相応の笑みを浮かべて礼を言う。
しかし彼女の表情は優れない。
「どうかしたのかのう?」
「どうもこうもない。あれはどういうことだ?」
「何のこと……」
「とぼけるな! ハルのことだ!!」
空気が痺れる様な怒号。
しかしその怒鳴り声にもザザムは優しい笑みを崩さず、口からゆっくりとキセルの煙を吐き出す。
「珍しいのう。お前がそこまで肩入れするとは。――まぁ分からんでもないが……」
「…………」
「さてと……」
ザザムはキセルを逆さまにして灰を落とすと、それをローブの中にしまって立ち上がる。
そして、
「一つ忠告しておこう。――あの子、あれには深入りするでない。このまま関わっても、お前が傷つくだけじゃ」
「……」
それだけを言い残すと、ザザムはゆっくりとその広場を後にする。
柔らかい光に照らされた広場。
そこに一人残されたソフィアは、彼の放った言葉の意味を理解できず、ただただその場所に立ち尽くすことしかできなかった。
「…………」
ぼんやりと、優しいランプの光で照らされた壁を体育座りしてじっと見つめる。
ヤコさんに案内されて連れてこられたこの部屋はお客さんを泊めるためのものらしく、ベッドと戸棚付きの台、そして飲み水を入れておく小さな水瓶とコップしか置いていない。
僕は何もないこの部屋で、ザザムさんの言葉の意味をずっと考えていた。
『自分にとって最も大切なものは何なのか』
そんなの決まっている。
強さだ。
強くなることだ。
そうすれば、もう二度と失わなくて済む。
かけがえのない人を守ることが出来る。
だから強くなりたいのだ。
だから呪術師になると決めたのだ。
それなのに……。
「師匠を殺すなんて、僕には出来ないよ……」
僕は自分の膝の間に顔を埋める。
呪術師になるためには、師匠を殺さなければならない。
そんなこと僕に出来るのだろうか。
見ず知らずの僕を助けてくれた師匠。
お茶目で悪戯好きだけど、本当は誰よりも優しくて頼りになる師匠。
そんな人を僕は殺すことが出来るのか。
断言できる。絶対に出来ない。いや、絶対にしたくない。
まだ出会って一日しか経ってないけど、僕の師匠はソフィアさんしかいない。
他の人ではダメなのだ。
だからこそ。
――僕はどうするべきなんだろう……。
呪術師になり強くなりたいという想いと、師匠を殺したくないという願いが交錯する。
一向に結論が出ない問いに、逃げ出したくなってしまった時、その人は来てくれた。
「ハル、大丈夫か?」
お椀を載せたお盆を持って入り口に立っていた彼女、深海のような青い髪に黄昏時の真紅の瞳を有した、他の誰でもない師匠その人だった。
「し、師匠……」
「ヤコさんが心配していたぞ? 昼食を作って持って行ってみたらザザムも私もいなくて、残されていたハルは昼食を食べないどころか話もしないって」
確かにそうだったような気がする。あの時はザザムさんに言われたことが衝撃的過ぎて、そればかり考えていた。正直、ヤコさんが昼食を持ってきてくれたこと自体、あまり覚えていない。でも、せっかく作ってくれた昼食を無駄にさせてしまったとは、本当に申し訳ないと思う。
「気にするな。誰でもあんなことを言われれば驚くさ」
師匠はそう言うと、手に持っていたお椀を僕の前に置いてくれる。
「ほれ、ヤコさん特製の栄養満点スープだ。昼抜きってことで大サービスしてくれたぞ」
確かにお椀の中のスープには、大きく切られた野菜や肉が大量に入れられていた。スープは具材から出汁が出ているのか、湯気と共に漂ってくる香りは嗅いだことがないほど複雑で、いつもの僕なら一も二もなく飛びついていただろう。
ただ、その美味しそうなスープでも、今は食べる気になれない。
「……すいません。まだ食べられそうになくて……」
「そうか……。まぁ、無理はしなくていい。食べたくなったら、食べればいいさ」
師匠は優しく微笑んでお椀をそこら辺に置くと、お盆を持って部屋を出て行ってしまう。
また一人になった僕。
さっきまでは平気だったのに、突然寂しさが襲ってくる。
それは今までに感じたことのない寂しさで、僕はそれが嫌でまた膝に顔を埋める。
――そりゃそうだよね。師匠だって忙しいだろうし、僕ばっかりに構ってるわけにはいかないよね……。
そう自分を納得させようとしていると、僕の体に暖かい何かが触れる。
優しいぬくもりに横を見ると、そこには僕と同じように体育座りをした師匠がいた。
「あ、あれ? 師匠!? 戻ったんじゃなかったんですか?」
「ん? ああ、あれはお盆をヤコさんに返しに行っただけだよ。あれがないと、料理が運べないらしい」
師匠は「もう一つ作ればいいのにな」と屈託なく笑い、その笑顔に僕は何故かほっとする。
静かに寄り添ってくれる師匠。
彼女のその優しさに、僕は瞳から溢れそうになるそれを半ば無理やり抑え込む。
「「…………」」
小さな部屋に、師匠と僕の二人だけ。
沈黙がこの場を支配する。
でもその沈黙は気まずいようなものではなく、逆に安心する。
そんな優しい沈黙が数分続いたのち、おもむろに師匠が口を開いた。
「……済まなかったな、ハル」
「えっ?」
突然の謝罪に僕は驚きの声を上げる。
「ど、どうしたんですか? 急に……」
「いやな。強くなりたいと言っていたとはいえ、こんなことに巻き込んでしまって、申し訳ないと思ってな」
「と、とんでもないです! 僕は師匠に出会えてよかったって思ってます!!」
僕の必死のそれに師匠は小さく笑うと、僕の瞳を覗き込んでくる。
「ありがとう。私も、ハルに出会えてよかったと思っているよ」
思わぬ反撃。
その返答に、僕は恥ずかしくて師匠から顔を背けてしまう。
きっと今の僕は顔が真っ赤だ。
ランプの明かりに助けられた。
しかしそんな僕の心情を知る由もない師匠は、頬を膨らませる。
「むうぅ。どうして顔を背けるんだ」
「い、いえ別に。なんでもありません」
「本当か?」
「本当ですよ」
「本当の本当か?」
「本当の本当ですよ」
そんな押し問答が何回か続いたあと、僕と師匠は我慢できず同時に笑い出す。
暖かな時間。
師匠に出会わなければ、絶対に過ごすことが出来なかった時間。
その時間に、僕は小さな幸せを感じる。
――師匠に出会えて、師匠の弟子になれて、本当に良かった。
心の底から、そう思えた。
そして、そんな師匠だからこそ、聞いてみたいと思った。
「師匠。呪術師の覚悟って、なんだと思いますか?」
「どうしたんだ、突然」
「いえ、ザザムさんの話を聞いて、思ったんです。僕の覚悟はハリボテだったなって」
強くなると口では言っておきながら、魔獣を殺さず、人を傷つけず、自分が傷つかないことだけをやっていく。
そんな都合のいい覚悟は、ただのハリボテだ。
だから、師匠の考えを聞きたくなった。
「難しいな。覚悟か……」
師匠は少しの間天井を見上げて考えると、おもむろに口を開く。
「正直、私にも分からない。ただ全てを背負う決意、それを私は覚悟だと思う。――ハルは呪いとは何だと思う?」
「呪い?」
彼女は静かに頷く。
「呪いとは、想いだよ。古種の想い、魔獣の想い、それらが形を成したものが呪いだ。だから呪いには、古種や魔獣の特徴がそのまま反映される。その想いを背負う決意、それが呪術師の覚悟だと私は思っている」
出会った古種の想い、殺した魔獣の想い、傷つけた人の想い、それら全てを背負うこと。それら全ての責任を負うこと。
それが覚悟。
「まぁ、これはただの自己満足なんだろうけどな」
そう彼女は自傷気味に笑う。
でも、確かに師匠の言う通りだと思った。
どんな理由だろうと、自分のやったことに責任を持ち、その全てを背負う。
それが呪術師の覚悟。
僕はそれを聞いて納得する。
僕に足りないものはこれだ。
どんな結末になろうとも、全てを背負う決意。
僕にはこれがない。
誰も傷つけない呪術師になる。
そんなものは都合の悪いことに目を瞑った、甘えた覚悟だ。
罪のない魔獣を殺したくない、人を傷つけたくないと言いつつ、本当は自分の行いに責任を持ちなくなかっただけなのだ。
そう思えたとき、僕の顔には自然と笑みが浮かぶ。
「どうしたんだ? 突然笑ったりして」
「いえ。師匠の話を聞いて、今まで自分が逃げてただけだったんだって気づいたんです。そしたら、なんだか気持ちが楽になって」
「そうか……。それはよかった」
師匠は静かに笑ってそれだけ言うと、真っ直ぐに前を見つめる。
そして、
「ハル、君は呪術師になりたいか?」
突然の問い。
それは僕の覚悟を問うようなものではなく、純粋に僕がどう思っているのかを知りたいというそれ。
その言葉は優しくて、僕に気を使ってくれていることが分かる。
だからこそ、僕も嘘はやめようと思った。
「……正直に言うと、なりたいです。僕は強くなりたい。強くならないといけないんです。大切な人を守るために。もう二度と、自分の弱さで大切な人を失わないように」
僕の覚悟が偽物でも、この想いだけは本物。
僕に優しくしてくれた人、僕の周りに居てくれた人、その人たちを守りたい。守れるだけの強さが欲しい。
だから僕は、呪術師になりたい。
僕の言葉に、師匠は数舜黙る。
そして、
「……ハル、私を殺せ」
師匠はそう言った。
「えっ……」
「ハルが強くなるためには、呪術の力が必要だ。だから、私を殺して呪術師になれ」
師匠は前を向いたままそう言う。
僕を想っての言葉。でも、僕はその言葉に、気づいたら叫んでいた。
「で、出来ません! 師匠を殺すなんて、僕に出来るわけないじゃないですか!! 師匠は僕を助けてくれました! それだけじゃない。僕の夢を馬鹿にもせず、応援してくれた。一緒に歩もうとしてくれた。そんな人を殺すなんて……」
僕のそれに、師匠は優しい笑みを浮かべ、僕の方を見る。
綺麗な真紅の瞳。
その瞳に、僕は息を呑む。
「大丈夫だ、ハル。私は死なない。…………いや、死ねない」
「えっ……」
今日二度目の驚き。
死なない?
それはどういう意味なのか。
困惑する僕に、師匠は自傷気味なあの笑顔を浮かべる。
「じいさんから紡呪の話を聞いただろ? 私の紡呪は、不老不死になること。私は老いもしなければ、死にもしない。そういう呪いを背負っているんだ」
僕は先ほどとは違う意味で息を呑む。
老いもせず、死にもしない。
不老不死。
「ナイフで殺されたとしても、すぐに傷は塞がり、血も止まる。心臓は再び動き出し、何事もなかったかのように、私はものの数秒で生き返る。だから、大丈夫だ。――私を殺して呪術師になれ、ハル」
これが……。
これが本当なら、師匠を失わず、呪術師になることが出来る。
師匠と共に強くなることが出来る。
――これで……。これでやっと、僕も誰かを守ることが出来るんだ!
目の前の希望に震える僕を見て、師匠は優しく笑う。
「これでハルを呪術師にしてやれる。――よかったよ。私が死なない体で」
その言葉に、僕は師匠の方を見る。
でも、師匠はすでに立ち上がっていて、下から見上げる僕に彼女の表情を窺うことは出来ない。
「さて、明日も早い。あまり長居しても悪いし、私は行くよ」
「……師匠?」
「おやすみ。また明日な、ハル」
彼女はそう小さく呟き、ゆっくりとした足取りで部屋から出て行った。
一人になり、静かになる部屋。
でも、もう寂しくはなかった。
師匠となら、僕はどんなことだってできる。
そう思えた。
「僕が呪術師に……。これで、これでやっと強くなれるんだ!」
あまりの嬉しさに、僕は勢いよく立ち上がって拳を突き上げる。
もう何も失わない。
奪わせない。
強くなって、全て守ってみせる。
そう決意を新たにしたとき、僕の足に何か当たる。
「これって……」
それは、ザザムさんから預かっていたナイフだった。
僕はそれを拾い上げると、何となくランプの明かりに照らしてみる。
少し長めの刀身は錆びついていて、元々何の素材で作られた物なのかすら判別できない。
――こんなんで本当に殺せるのかな……。
そう思った時、突然僕に一つの疑問が浮かぶ。
もう何も失わないため、大切な人を守るため、僕は強くなりたい。
だからこそ、一時的とはいえ師匠を殺すのだ。
呪術師になり、大切なその人たちを守るために。
では、僕にとって大切な人とは、いったい誰のことだろう?
僕は誰を守りたいのだろう?
両親も友達も、僕にはいない。
唯一の親友である、カムルも死んでしまった。
一体、僕は誰を守るために強くなるのか。
もう僕の周りには誰もいないというのに……。
将来出会うかもしれない人のためか。
それとも僕を馬鹿にしていたあいつらのためか。
はたまた見ず知らずの赤の他人のためか。
きっと、これら全てを含めて、守りたいのだろう。
もう誰も僕の目の前で死なせたくないのだ。
でも、本当にこれだけか?
僕の周りには、この人たちしかいないのか?
もっと守りたい人がいるのではないか?
何かを忘れている気がする。
もっと大切な誰かを。
答えの出ないその問いに、僕は手に握っている錆びついたナイフを静かに見下ろした。
誰もが寝静まった深夜。
白銀の光に淡く照らされた長尾族の集落。その集落で、ただ一軒明りを灯す家があった。
集落の長が住む家。
その家の居間に、彼らはいた。
「あなた、どうするつもりなんですか?」
ヤコはお茶を湯のみに注ぐと、それをザザムの前に置く。
「何のことじゃ?」
「はぐらかさないで下さい。ソフィアちゃんとハル君のことですよ」
「うむ……」
ザザムは小さく唸ると、ヤコの淹れたお茶を一口飲む。
「……まだ決めとらん」
そうボソッと答えるザザムに、隣りに座るヤコは優しく微笑む。
「嘘が下手なのは昔からですね。本当はもう決めているんでしょ?」
「わしは……」
言葉に詰まったザザムは、お茶をもう一口。
そして、
「わしは、もしハル君がソフィアを殺したら……。その時はわしがあの子を…………」
ザザムは静かにそう言った。
「そう……ですか。やっぱり、そうなってしまうんですね」
「ああ……」
ザザムはお茶に視線を落とす。
その色は綺麗な深緑。
ソフィアとハルが持ってきてくれた薬草を使って淹れたお茶だ。
使われている薬草は腰痛や関節痛に効果のあるもので、ソフィアが自分のことを考えて持ってきてくれたものだとザザムはすぐに分かった。
ソフィアはザザムに対しても本当は優しい。
食料を盗っていくのも、会う口実が見つからないからそうしていると、ザザムは知っていた。
なんせ、食料を盗まなくてもソフィアは十分に魔樹海で生活していける。
そして何より、必ずと言っていいほど、盗む前には顔を見せに来る。
本当に盗もうとしている人間が、わざわざ顔を見せるはずがなかった。
会いたいが、会いたいと素直に言えない。
そんなどうしようもなく不器用で、優しいソフィアをザザムも何だかんだ言って可愛がっていた。
そしてだからこそ、このままにしておくわけにはいかなかった。
例え、これでソフィアに殺されることになったとしても。
「ソフィアは、怒るじゃろうな」
「怒るでしょうね」
「悲しむじゃろうな」
「悲しむでしょうね」
「恨むじゃろうな」
「恨むでしょうね」
「それでも……」
「分かってますよ」
二人は真っ直ぐに窓の外を見る。
「それでもいざとなったら、わしはあの子を殺す」
誰もが寝静まった深夜。
魔樹海の中にひっそりと寄り添うように建ち並ぶ家々。
そこは白銀の光に淡く照らされ、幻想的な風景を浮かべる。
夜にだけ現れる美しき光景。
しかしそれも、もうじき終わる。
静寂はなりを潜め、白銀の輝きは夢へと戻る。
それぞれが覚悟を抱いた夜は終わり、新たな一日の朝が来る。