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極楽おじさんの地獄湯巡り




 温かい水の中に入るだけ。

 本当に、ただそれだけ。

 だけど、侮ってはいけない。

 温泉には、疲れや病気を回復させる効能があるのだから。


 わざわざ遠方まで足を運び、ゆっくりと温泉に浸るのは、滋養のため。

 それ以外の目的は無いし、もしあったとしても認めたくない。

 寒いからとか、暇潰しとか、野生動物を眺めるためとか、そんなものは他でやればいい。

 ろくに疲れていないのに、無駄に湯を楽しみ、あまつさえ温泉の中で酒を飲むだなんて以ての外。


 少なくとも、古くから営業している温泉宿の若女将である少女にとって、度し難い冒涜であった。


「はぁ~~~、ごくらくごくらくぅ~~~」

「…………」


 そんな非難交じりの視線なんてどこ吹く風で、「ごくらくごくらく」が口癖の極楽おじさんは、他の誰よりも温泉を満喫していた。

 頭の上には、白いタオルを。

 湯の上には、酒とツマミを乗せた丸い桶を。

 空の上には、極上の晴天を。

 音のずれた鼻歌交じりで、これ見よがしに全身全霊で温泉を楽しんでいる。


 あまりの愉悦っぷりに羨ましく感じるほど、極楽おじさんは温泉に馴染んでいた。

 まるで、それが本当の、温泉の在り方だと言うように。


「……お客さん。温泉の中での飲食は禁止だって、何度も言ってますよね?」

「大丈夫大丈夫、ちゃんと女将さんから許可をもらっているから。他に客がいないとき限定だけどさ」


 山の麓に構える温泉宿。

 僻地にあって、客も常連ばかりなので、特に名前は無い。

 百年を超える長い歴史と、広い敷地に設置された複数の露天風呂が売り。

 客の大半は、近隣の農村に住む農民ばかり。

 農閑期にこぞって訪れ、湯に身を浸し、日頃の疲れを癒す。

 温泉の効能は、疲労を癒すばかりではない。

 体の不調、流行りの病、精神的な疲労といった命に関わる懸念さえも温かく包み込んで癒してくれる。


 ――と、魔物がドロップする魔法薬に頼りっぱなしで、医学が進んでいないこの世界では、そう信じられている。

 女将の娘であり、次代の女将である15歳の少女もまた、そう信じて疑わない一人であった。


「その飲食の許可って、お客さんが女将である私のお母さんに賄賂を渡して無理やりもらったものですよね?」

「この温泉の湯みたいに、濁っていても効能は十分。むしろ不純物こそが、世界を味わい深くしている。修行中の若女将ちゃんも、清濁併せ呑む度量を持たないとやっていけないぞ」


 屁理屈が得意で、裏工作も抜かりない極楽おじさんに抗議しても、軽くあしらわれるばかり。

 彼は、数か月前にふらりと現れ、以降、頻繁に顔を出すようになった。

 いつも一人で訪れ、奇妙な格好と日焼けしていない肌から、付近の農民でないのは明らか。

 くすんだ緑色の髪と来客頻度、そして毎回必ず女性の従業員にだけ差し入れを欠かさないので、悪目立ちしている。

 いつも日帰りで、宿泊しようとしないところも珍しい。

 客が多い時間帯を避けるように訪れ、多少の粗相は見逃してくれよと従業員へプレゼントを配り、我が物顔で湯船での飲食を楽しみ、一時間ほど堪能した後は、あっさりと帰っていく。

 滋養が目的ではなく、単なる娯楽目的であることは疑いようがない。

 だから、従業員から「極楽おじさん」と呼ばれている。


「女将が見逃したとしても、大人だったらもっと慎みがあるべきだと思うんですっ。大人だったらっ」

「子供に温泉の良さは理解できないからな。だからこうして、湯を存分に楽しんでいることこそが大人の証拠なのさ」


 いつもチップと称して多めに支払い、短時間で撤退し、飲み食いしても湯は汚さないので、客商売として文句を付けるのは間違っているのだろう。

 実際に少女の母親である女将は、金払いがよく、王都から購入していると思われる高級なお菓子やアクセサリーをもらえるから、上客として歓迎している。

 他の女性従業員も同じ認識で、プレゼントをもらえない男性従業員にとっても害はないので、温泉宿の中で歓迎していないのは少女一人。

 次代を担う若女将として、従業員の一人として、もしかしたら同じ人類としても、大人げないのは自分の方かもしれない。

 でも、そんな社会通念や理性を以てしても、温泉のように湧き上がる不快感は如何ともし難い。

 端的に言うと、とにかく癪に障る客なのだ。


「ごくらくごくらく~。温泉の中で飲む酒は最高だわ~。ろくに味なんて分からんけど~」

「…………」


「あ~、癒されるわ~、日頃の疲れが洗い流されるわ~。ろくに働いていないけど~」

「…………」


「秘境にいると面倒な人間関係から解放されるわ~。嫁や恋人はおろかろくに友達もいないけど~」

「…………」


 独り言を繰り返す極楽おじさんの背中――――怠惰な割には案外逞しい背中を眺めながら、少女は深い溜息をつく。


 温泉は、気持ちいい。

 全身を包み込む温かさに安心する。

 それは、認める。

 だけど、温泉は興味本位で体験するものではない。

 この温泉宿は、付近の農民の健康のために建てられ、ろくに儲けも無いのに長い期間頑張って運営してきた。

 温泉に入らなくても支障のない者が、軽率に娯楽目的で楽しむ姿には怒りを覚える。

 みんな、必死に頑張っているのに。

 へらへらと緩み切った顔を見ていると、どうしても怒気が噴き出してしまうのだ。


 明け透けな自分の態度は、このお客さんにも伝わっているだろう。

 それなのに、極楽目的の極楽おじさんは、少しもめげない。

 逆に、冷たい目を向ける自分を嬉しそうに見てくる。

 やはり、変な性癖を持った変な客なのだろう。

 なるべく関わりたくないが、要注意人物を他の従業員に任せるわけにはいかない

 女将の娘として、自分が監視すべきなのだ。


「だいたいさぁ、若女将ちゃんだって俺からのプレゼントを受け取っているんだから、少しくらい大目に見てくれてもいいだろう?」

「だからこうして、お背中を流しているじゃないですか」


「これは他の客にもやっている普通のサービスだろう?」

「誰にでもじゃありません。身体が上手く動かせない高齢者だけです」


「俺もアラフォーで四十肩だから、最近腕が上がらなくて困っているんだよなぁ」

「いつも湯船で元気に泳いでいるくせに、嘘つかないでください」


「あっ、そこそこ、そこが痒いから重点的にっ」

「そんな要望は受けつけていません」


「次もまた、若女将ちゃんが大好きなお菓子の国のケーキをいっぱい持ってくるからさ」

「……今日だけ、特別ですよ?」


 賄賂に屈したわけではない。

 伝統ある温泉宿だが、湯の湧き出る山村地域にあるため、都会で売られているハイカラなお菓子とは縁が無い。

 過酷な肉体労働に加え、厄介な客の相手もしなければならない若女将の立場として、甘い食べ物で疲れを癒やしコンディションを整えるのは大切なことなのだ。

 うん、そう、これも全て温泉宿を継続するためなのだ。   


「はぁ~、ごくらくごくらく~。湯に浸りながら酒を嗜み、更には若い娘さんに体の隅々まで洗ってもらえるだなんて、ほんとこれ以上の極楽はないよな~」

「……変な言い方は止めてください。その言い方だと、この温泉宿が変な店みたいに聞こえるじゃないですか」


「ふう~~~、これでまた、次の休みが来るまで頑張れそうだ。毎日が日曜日のほぼ無職だけどな」

「……もっと真面目に働いてください。ここは労働の疲れを癒やすための場所ですから」


「次もまた、背中を洗ってくれるかな?」

「……偶々手が空いていたら、善処します」


「うんうん、分かってる分かってる。次もまた、選りすぐりの手土産を持参するよ」

「またのお越しを心よりお待ちしております」


 こうして、一時の極楽に満足し、極楽おじさんはあっさりと去っていく。

 たまには泊まっていかれてはと女将が進めても、枕が変わると眠れないからと、長く居着こうとしない。

 遠慮するようなタイプじゃないので、実は忙しい身なのかもしれない。 

 

「まさかね、あんなに日に焼けてない肌の大人が、忙しいわけないもんね」


 面倒な客の相手をして、心が疲れてしまったから、ケーキを食べながら休憩しよう。


「ものすごく美味しい。……癪だけど、あのお客さんからもらったお菓子を食べている時は、本当に極楽かもしれない」


 こんな極上のお菓子をいつでも入手できる都会人を羨ましく思う。

 だけど、この農山村地帯から大きな都市までは、どんなに速く馬を走らせても二日間はかかるはず。

 それなのにあの極楽おじさんは、早い時では一日置きの間隔でやってくる。

 いったいどこからお菓子を仕入れているのだろうか?

 そもそも、どこの街から、どうやって訪れているのだろうか?


「だめだめっ! 特定の客にばかり構ってちゃいけないって、お母さんが言ってたもんね」


 特に厄介な客が相手では、考えるだけ損。

 どんな客にも笑顔で対応できるようになって初めて、一人前として認められるのだ。

 それが、極楽おじさんが言っていた、清濁併せ呑む、ということだろうか。

 違う気もするけど、何かと常識外れな彼の言葉は、濁っている温泉のように染み込んで切る。

 ほんと、癪だけど。




 ◇ ◇ ◇




「――お客さん、そんなに暇だったら、他の場所で遊んだらどうですか?」


 もう何度目かも覚えていない、極楽おじさんとの監視を兼ねた談話。

 来店頻度が高く、危険度も高いので、おのずと会話が多くなり、明け透けな話題も自然に出てくる。


「大人になって金が増えたら、出来る遊びも増えるって思うだろう? だけど実際は、大人向けの遊びはそう多くなくて、特にこの世界では娯楽が少ないから、温泉が一番なんだよ」

「……」


 珍しく本当に疲れた顔をした極楽おじさんが、大げさに肩をすくめて説明してくる。

 都市に住んでいると思われる彼の話が本当であれば、田舎娘にとっては夢も希望も無い話だ。


「それに、真面目に働いていた時には、忙しさにかまけて割と近くにあったはずの温泉巡りさえできていなかったから、なおさら憧れがあるんだろうなぁ」

「……お客さんは、他の温泉にも行ったことがあるんですか?」


「まあ、親族や会社の行事とかでそれなりに。だけど、その中でもここの温泉はピカイチだと思うぞ」

「私はここ以外を知りませんけど、温泉ってのはどこも似てるんじゃないんですか?」


「けっこう違うんだよ、これが。宿の造りは似ているかもしれないけど、温泉の雰囲気や泉質は色んな個性に溢れていて面白いぞ」

「泉質って、温泉の効能のことですよね。それって結局、疲れを癒やす力が大きいか小さいかの違いですよね?」


「違うんだな、それが。温泉の効能を一纏めにすると『身体に良い』になるのかもしれないが、その中でも多様な泉質に区分できるんだぞ」


 少女はこの温泉宿に誇りを持っているが、それは温泉そのものが特別であって、数ある温泉宿の中で我こそが一番だと自惚れているわけではなかった。

 だけど、実際に他の温泉も体験している彼の認識では、違ってくるらしい。


「いま入っている泥湯は、その名の通り泥が纏わり付く感触を楽しめるだけでなく、血流を良くして特に関節リウマチに効果を発揮する。一説によると、土と水と空気の三つが結ばれる泥湯とは、宇宙そのものらしい」

「り、りうまち?」


「あっちの血のように赤い湯は、酸化マグネシウムを含んでいて、湿疹や火傷などの皮膚の治療によく効くぞ」

「皮膚が良くなる……」


「そっちの海のように青い湯は、硫酸鉄が溶解しているからで、飲泉による消化器系への効能が高い」

「温泉を飲む……」


 極楽おじさんが説明した三つの湯は、この温泉宿の中で最も不人気な露天風呂であった。

 その理由は、見た目がおどろおどろしいから。

 療養を目的とする温泉には浄化がイメージされるため、透明な湯が人気なのだ。


「通常、温泉宿の泉質は一種類だから、効能も限られる場合が多い。でもこの温泉宿では、複数の泉質が一度に楽しめる。これはとても珍しくて、誇るべきことだと思うぞ」

「…………」


「そう、まるで温泉のデパートやで!」

「…………?」


 とても貴重で大切な話を聞いたはずなのに、素っ裸で立ち上がりドヤ顔する極楽おじさんを見ていると、茶化されたように感じてしまう。

 実際に彼がよく口にする冗談は、意味が分からなくて首を傾げてしまう。


「もしかしてお客さんには、温泉別の効能の違いが分かるんですかっ?」

「ああ、俺の白くてモチモチした肌は繊細だからな! と、言いたいところだが、実際は上級の鑑定アイテムを装着していて、ウィンドウに表示され文章を読んでいるだけなんだ。温泉の効能まで鑑定できるとは、さすが魔王様だな!」


「……その話が本当なら、後で詳しく教えてもらっていいですか?」

「いいともいいとも、布団が敷かれた個室で二人っきりで話そうじゃないか。もちろん、お礼なんて要らないから!」


「お礼は、セクハラした罪に対する出入禁止の保留でどうでしょうか?」

「是非それでお願いします! だから出禁は勘弁してください!!」


 人は裸になると、ついついセクハラしてしまう生き物なのだろうか。

 温泉にマイナスの効能があるとすれば、それであろう。


「まあ、それは冗談として、お世話になっている温泉宿だから協力は惜しまないぞ」

「ありがとうございます。ついでにマナー違反も慎んでもらえると更に有り難いです」


「まあ、それはそれとして。ここは名前が無い温泉宿で宣伝もしていないから、知る人ぞ知る隠れ湯路線だと思っていたけど、どうやら違ったようだな」

「温泉の効能がはっきりしたら、農村から来客も喜ぶでしょうし。それに、まだまだ客数が少ないので、もっと広い範囲から来客してもらえるようにしたいんですっ」


「うんうん、若女将ちゃんはやる気に満ち溢れているねぇ。ふむ、だったら記憶に残りやすくするため、温泉宿の名前や客を惹き付けるうたい文句を決めたらどうだろう?」

「温泉宿の名前は私もあった方がいいと思ってましたが、うたい文句ってどんなのがいいんですか?」


「やっぱインパクトだよインパクト。たとえばほら、魔物が棲まう山中にあって、至る所から不気味な湯気が噴き出し、有毒な刺激臭も漂い、更に真っ赤な血のような熱湯もあるから、『現世で地獄が体験できる温泉』なんて面白いじゃないかな」

「じごく、って何ですか?」


「悪い事をした人が死んだ後、強制的に連れていかれて、熱湯で焼かれたり剣で刺されたりして罰を受ける場所だよ」

「どうしてそんな縁起が悪い場所をイメージさせるんですかっ!? 絶対に嫌ですよっ!」


「人は良い印象よりも悪い印象の方が脳裏に焼き付くから、あえてマイナスのイメージでアピールする戦略さ」

「それにしたって、酷すぎますよっ!」


「だったら、少し意味合いを変えればいい。死んで地獄に行った時、突然熱すぎる湯に入ると耐えられないから、生きているうちにたくさん温泉に入って慣れておけば、死後の苦しさを和らげることができる、みたいな?」

「とんだ屁理屈じゃないですかっ。それに、死んだら地獄に行くのが当然みたいで嫌ですよっ」


「人が罪を犯さず生きていくなんて無理な話だから、全人類が地獄行きなのは決定事項なのさ」

「わっ、私は悪い事なんてしてませんっ」


「朝寝坊したり、つまみ食いしたり、ママに隠れて男と乳繰り合ったりと、一切の悪事をしたことがないと本当に断言できるのかな?」

「…………最後のは、してません」


 暴論のように思えたが、どんな些細な罪でも対象になるのであれば、確かに地獄送りが免除される人類なんて一人もいないのかもしれない。

 そうなると、人として生きていくことと、死後に地獄で罰を受けることとは繋がっているので、嫌っても逃げてもどうしようもない。

 だから彼は、どうせ結末は決まっているのだからと割り切って、お気楽極楽に生きているのだろうか。

 ……もしも、そうだとしたら、全てを楽しもうとする姿勢には、見習うべき点もあるのかもしれない。


「まあ、例え話だから、参考程度にしてくれればいいさ」

「はい、確かにインパクトはありました。……でもっ、私は次の女将として、もっと素敵なうたい文句を考えてみせます!」


 そう高らかに宣言しつつも、少女の頭の中には、まるで成功した実例があるかのように説得力あふれる地獄温泉のイメージがくっついて離れてくれなかった。




 ◇ ◇ ◇




「よしっ、今日も頑張るぞっ」


 歴史ある温泉宿の若女将の仕事は、広い敷地に点在する露天風呂の見回りから始まる。

 まだ開店前なので、客は入っていない。

 だから見回る相手は、客ではなく、魔物だ。


 宿自体は、魔物が出現しない安全地帯に建っているが、少し離れた場所にある露天風呂は、魔物が出現するエリア内にあるため、偶にだが実際に魔物が侵入してくる。

 それに備えて、営業中は宿の一番上に設置した見張台から常に監視していて、付近に魔物の姿を確認した場合には、鐘を鳴らして客の避難を促している。

 露天風呂の外周には頑丈な柵を立てており、魔物が破壊して入ってきても移動速度が遅いので、警鐘を聞いてすぐに逃げ出せば、歩く速度でも宿まで避難できる仕組みなのだ。

 実際に、設立当初から被害者を出していないことが誇りである。


 しかし、退避可能な人的被害は避けられても、動かせない物的被害はどうしようもない。

 魔物の中には無差別に建造物を壊すタイプもいて、その乱暴者が侵入してきたら被害は免れない。

 数年に一度の頻度で露天風呂の一部が破壊され、その度に復旧を余儀なくされている。

 命の危険がある大変な仕事だが、それでも続けてきたのは、温泉を必要とする人たちがいると信じているから。

 農民の健康のため、ひいては農産物を多くの人に届けるためにも、温泉を守らなくてはならない。


「やあやあ、若女将ちゃん。今日も今日とて厄介おじさんがやってきたよ」

「いらっしゃいませ。どうぞごゆるりとお楽しみください」


「うんうん、あったかい温泉の中で浴びる冷たい視線は心地いいねぇ」

「では、私は別の仕事がありますので」


「お客様のお背中をお流しするお仕事もお忘れないでおくれよ」

「もしも手が空いたら伺います」


「あっ、これ、今日のお土産だよ」

「後で必ず伺います」


 その日は、いつもと同じ始まり方だった。

 いつも通り、一番風呂を狙ってきた、一番厄介な客。

 いつも通りの、やり取り。


 そして、しばらくして鳴り響いた、いつもと違う、鐘の音。


 ――――カン!カン!カン!カン!カン!

 ――――カン!カン!カン!カン!カン!


「魔物が出たんだっ! しかも五つの鐘は、凶暴なヤツ!!」


 宿内を掃除していた少女の耳に、警鐘が響き渡る。

 これまで何度も聞いてきた、だけど決して慣れない音。

 大きな鐘の音は、客にも届いているから、避難に問題はないはず。

 しかし、今回の魔物は凶暴なタイプなので、露天風呂が壊される可能性が高い。

 

「まずは、お客様の安全を確認しないとっ」


 周知の事実とはいえ、魔物の出現エリア内にある露天風呂を見回りしない訳にはいかない。

 極稀に、寝ていたり耳が遠かったりして、鐘の音に気づかない高齢者もいるからだ。

 少女は走って外に出て、複数ある露天風呂を確認して回る。

 魔物との距離はまだあるはずだが、あまり余裕は残されていない。


「おっ、お客さんっ!? 何してるのっ!?」

「御覧の通り、お湯とお酒を楽しんでいる最中だが?」


 まさか、とは思っていたが、悪い予感が的中。

 露天風呂の中で、いつも通り堕落した姿を晒している中年男を発見した少女は、大声で叫んだ。


「魔物が近づいてきてるんですよっ!! 鐘の音が聞こえなかったんですか!?」

「ああそうか、静寂を破る無粋な音は、それだったのか」


「何度も何度も忠告してきたのに、どうして覚えてないんですかっ!」

「ははっ、おっさんになると物覚えが悪くなって困るよな」


「笑っている場合ですかっ。いいから早く宿まで逃げてくださいっ」

「大丈夫大丈夫、こっちには来ないから」


「どうしてそう言い切れるんですかっ! 魔物の動きなんて誰も予想できないんですよっ!」

「そういう意味じゃなくて――」


「私は他の風呂を見に行くので、すぐに逃げてくださいよ! 絶対ですからね! 絶対ですからねっ!!」

「お、おう」


 緊張感に欠けた客だと思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。

 本当は首輪を付けてでも引っ張っていきたいが、まだ巡回の途中なので、一人だけに構っていられない。

 一度魔物に襲われれば良い薬になるだろうと思わなくもないが、怪我人が出て温泉宿の評判が落ちるのは困る。

 あれほど強く注意したのだから、どれほどお気楽極楽なおじさんでも、危険を感じて逃げ出すはず。



「はあっ、はあっ、これでっ、全部っ、確認できたっ…………」


 全ての露天風呂を走って回り終えた少女は、息も切れ切れに宿の中へと戻ってきた。

 結局、逃げ遅れていた客は、あの極楽おじさんだけだった。

 思い出すだけで腹立たしい。

 彼も宿の中に避難しているはずだから、改めて文句を言ってやろうと探そうとした矢先。


 ――――カ~~~ン! カ~~~ン! カ~~~ン!

 ――――カ~~~ン! カ~~~ン! カ~~~ン!


 再び、鐘の音が響き渡った。

 最初との違いは、鐘の回数と、その間隔と、周りのお客様や従業員が安堵している様子。


「えっ、もう出ていっちゃったのっ!?」


 そう、二度目の間延びした鐘の音は、魔物の撤退を知らせる音だったのだ。

 一度目の襲来を知らせる音とセットではあるが、いつもに比べ、撤退するのが早すぎる。

 特に今回の魔物は、周囲の物体を壊して回る凶暴なタイプだから、もっと長い時間居座るはずなのに。


「もしかして、魔物のタイプを見間違ったのかな?」


 そう思った少女は、宿の階段を駆け上がり、見張台に立つ従業員へ声をかける。


「ねえっ、魔物が出ていくのが早かったけど、どうしたのっ?」

「あっ、お嬢さん、そっ、それが――――」


 その見張り係の話では、凶暴な魔物が敷地内に入ってきたのは、間違いないと言う。

 実際に遠目からではあるが、外周に設置していた分厚い木の柵が無残に破壊されている様子が見える。

 しかし、一度目の鐘を鳴らした後、魔物の動きを注視していたら、突然消えてしまったそうなのだ。


「どこか別の場所に移動したわけじゃなくて? 魔物の動きは遅いから、そう簡単には見失わないはずだよね?」

「大きな図体で目立つ色だったので、見逃すはずがありません。消えた後もずっと周囲を見ていたんですが、どこにも見当たらないし、柵以外に破壊された跡も残ってないので、敷地内にいないのは間違いありません」


「それじゃあ本当に、何の理由も無く急に消えちゃったの?」

「……それが、遠くだったので確実じゃありませんが、魔物がいなくなる瞬間、バラバラに光って消えたように見えたので、誰かに倒されたのかもしれません」


「あの凶暴な魔物がっ!? すっごく強い上級の魔物だったよね?」

「はい、姿形を見るに、以前にも現れた上級魔物に間違いないと思います」


「そんな魔物をどうやって倒したのっ? それも一瞬でっ? ……それ以前に、いったい誰が?」

「魔物の近くに人影なんて無かったので、いったいもう何が何やら……」


 詳しく聞いても不可解な状況であったが、とにかく魔物がいなくなったのは間違いないようだ。

 となれば、次の仕事は、お客様が全員無事に逃げているか点呼確認。

 だがそれは、他の従業員が済ませているはずだから、問題ない。

 ……はず、だったのに。


「まだ避難してないお客様がいるのっ!?」


 点呼を終えた従業員の話では、まだ一人、露天風呂から宿へ戻っていない客がいるらしい。

 その一人とは、言わずもがなで。


「もうっ、あれだけ言ったのにっ!」


 少女は、湯気をも圧倒する怒気を噴出しながら、逃げ遅れた客がいる露天風呂へと、再び駆けていく。



「おっ、お客さんっ!」

「やあやあ、若女将ちゃん。ちょうどこれから身体を洗うところだから、いつものようにねっとりじっくりと背中流しを頼むよ」


「そんな場合ですかっ! どうして逃げなかったんですかっ!」

「んん……? ああ、魔物のことか。だって魔物は、もういないじゃないか」


「それはたまたま運良く、ここに来なかっただけですよねっ」

「若い娘さんが裸の男を前にタマタマ言うのは、はしたないと思うぞ」


「温泉宿の女将の娘を舐めないでくださいっ。そんなお粗末なモノなんて見慣れてますからっ」

「そっちこそ、侮ってもらっては困る。俺の息子は変身をするたびにパワーがはるかに増す。その変身を後2回も残している。その意味が分かるな?」

 

「ガチのセクハラは、ガチで出禁にしますからね!」

「ごめんなさい。もうしませんから、『粗チン』の二つ名だけは勘弁してください」


 反省の欠片も感じられないやり取りに、少女は心配して損したと心の底から後悔する。

 やっぱり、こんな遊び目的のふざけた客は、この温泉宿に相応しくない。

 若女将の名にかけて、いつか絶対に矯正してみせる!


「次は絶対に、鐘が鳴ったら逃げてくださいよ! 絶対ですからね!!」

「了解了解、ダンディな紳士の名にかけて約束するよ。もしも、鐘が鳴ったら、な」


 気になる言い方だったが、言質は取ったので良いとしよう。

 何事も、改善の道は一歩から、である。


「とにもかくにも若女将ちゃんよ、邪魔者は去ったのだから、約束していたように背中を流しておくれ」

「はぁ……。お客さんにとっては、上級の魔物よりも、温泉の方が大切なんですね」


「当然さ、古より温泉は、霊湯として信仰される神聖な場所だからな」

「この前は、地獄って言ってましたよね?」


「地獄を管理しているのは閻魔大王っていう神様だからな。つまり、神聖な場所も地獄も同じってことだよ」

「……お客さんが死んだら、地獄行きってのは間違いないと思います」


「ははっ、よく言われるよ」


 苦労の絶えない温泉宿の若女将である少女は。

 軽快に笑う極楽おじさんの背中を洗いながら。

 徹底してお気楽極楽に生きている彼であれば。

 本物の地獄の湯も楽しんでしまうのだろうな、と思うのであった。




◆ ◆ ◆




―――― ?日後 ――――




 とある山の麓に、人気の温泉宿があった。


 都市から離れた場所なのに、高い人気を誇るのは、明確な効能と多様な泉質ばかりが理由ではない。

 魔物が棲まう山中にありながら、何故か魔物が一切出現しないのだ。

 以前は定期的に出現し、露天風呂に損害が出ていたそうだが、ある時期を境にピタリと消えてしまったという。

 四季折々に変化する美しい景色と、白い湯気や熱湯が噴き出る幻想の地にあって、安全性まで確保されていれば、人気が出て当然だ。


 加えて、「いずれ誰もが辿り着く地獄に備えて生きているうちから慣れておこう!」という、身も蓋もないキャッチフレーズが逆に好奇心を刺激し、湯治だけでなく観光目的の都市住民まで来訪するようになった。

 併せて、周辺の開発が一気に進み、最も有名な観光地の一つとして不動の地位を得る。

 今では、遠方の都市からの馬車ツアーまで組まれるようになり、拡張し続ける温泉宿は連日満員御礼である。


 誰にとっても良いこと尽くめのように思えたが、増え続ける来客数と反比例するかのように、「極楽おじさん」と呼ばれる常連客の来客頻度は段々と減っていき、そのことに気づく従業員も極少数であった。

 地獄と化した地から、極楽が淘汰されるのは、世の常であったのかもしれない。

 

 その温泉――――「地獄温泉」には、今日もたくさんのお客様が訪れている。




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― 新着の感想 ―
昨今のツマラン異世界物よりコッチをアニメ化して欲しい。
効能は兎も角、湯に浸かりながらの飲食が出来ない程度に客が多くなったんやろなー 客がいないとき限定の飲食だった訳だし
素晴らしきかな、温泉。 客のいない時に独占なんて。 美少女?に背中を流してもらえるなんて。 しかもさりげなくセクハラトークぶっ込んで、いつの時代のおっさんだよ、とツッコミを入れたくなりました。 更…
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