秘密のピアノレッスン 4/4
「本日のおやつはピアノ型のチョコレートケーキですよ、のだめ先生」
ピアノのレッスンは、気力、集中力に加え、体力も消耗する。
このため、合間合間にお茶を楽しみながら体を休めるのが定番になっていた。
「グリン君が毎回持ってきてくれるお菓子は、本当に美味しいわね」
「恐縮です。疲れを癒やすには甘い物が一番ですからね」
「他の街にはこんなに素敵な食べ物があるのね。この街でも売っていればよかったのに」
「ピアノマニアな先生が毎日買いあさって散財する姿が目に浮かびますね」
「……グリン君、先生はちょっと抜けているところがあるかもしれないけど、そこまでお馬鹿じゃないのよ?」
「ははっ、真性の人は自覚できないそうですよ、のだめ先生?」
野暮ったい服を着ている中年男は、手慣れた様子でテーブルを整え、デザートを並べ、華麗に茶を注ぐ。
ピアノの見真似だけでなく、気味が悪いまでに色々と器用な男であった。
これで皮肉屋でなかったら、なおよかったのだが。
「さあ、先生、こちらの紅茶もどうぞ」
「いつもありがとうね、グリン君。本当は私がお客様をもてなす方なのに……」
「お気になさらず。先生に敬意を払うのは生徒として当然ですから」
「グリン君は本当に口が上手いわね」
「それに、ピアノ以外は雑で苦手で駄目なところが先生らしさですから」
「グリン君は本当に口が悪いわね」
人の欠点を嬉しそうに語る男を見て、スノゥダメッツは溜息を零す。
ぐうの音も出ないほど事実なので言い返せない。
「ところでグリン君、素敵なお菓子とお茶を楽しむには、やっぱり部屋を片づけた方がいいと思うのだけど……?」
「何度も言っているじゃないですか、のだめ先生。美しい風景の中にピアノが置いてあっても、それはただ普通に綺麗なだけです。混沌の中にあってこそ一際輝くんですよ!」
紳士を自称する男は、教師役であるスノゥダメッツの世話を嬉々として行っていたが、部屋の片付けだけは頑なに拒否していた。
よく分からない理由でピアノを習っているだけあって、よく分からない拘りがあるのだろう。
「先生はピアノのことだけを考えていればいいんです。他の雑事なんて気にしてはいけませんよ」
「確かに音楽家にはそんなタイプも多いけど、その、人として駄目だと思うの……」
「本物の芸術家ってのは、きっとそういうものですよ。自分が好きな事と得意な事が一緒で、それだけに没頭してしまう一途さがある。他人からは滑稽に見えたとしても、とても素晴らしい生き方だと思います」
「……私も、そうだったら、良かったんだけどね」
まだ付き合いが短く、音楽への理解も浅い不肖の教え子は、どうしてだか新米教師に全幅の信頼を寄せていた。
お菓子の差し入れをはじめ、鍵盤を模したバッグや音譜が刺繍されたドレスなど、ピアノの存在そのものが大好きな彼女が好むグッズを甲斐甲斐しく貢ぐ姿は、求愛しているようにも見える。
性欲も多少混じっているだろうが、ピアノの腕に惚れ込んでいるのは間違いない。
彼女には、それが重くのしかかっていた。
「おやおや? そのご様子では、本業の方が上手くいっていないのですか?」
「……そうよ。教わっているグリン君には申し訳ないけど、私はピアニストとして落ちこぼれなのよ」
教師役として至らなさを知られるのは怖かったが、いつまでも誤解されたままでは駄目なので、素直に告白する。
しかし、年上の教え子は、驚きもせず、悲しみもせず、ただ不思議そうな顔をした。
「それは意外ですね。先生ほどの腕前なら、評価されて然るべきだと思うのですが」
「私はね、グリン君が思っているほど技能に優れているわけじゃないのよ。むしろ、同業者のうちでは下の方だわ」
「そうなんですか?」
「速く弾くのが苦手でね。せっかくの大きな手も、宝の持ち腐れと言われているわ」
スノゥダメッツは、うつむきながら、自分の両手をじっと見つめる。
プロとして名を連ねているものの、こうして興味本位の輩に教えて小金を稼ぐ現実こそが、世間一般の彼女に対する評価であった。
「ふーむ…………」
「…………」
反射的な言動を得意とする男は、腕を組んで珍しく考え込んでいる。
本人から過酷な真実を告げられても、まだ納得できないようで、反論できる材料を探しているのだろう。
教師冥利に尽きるが、どれほど慰められようと、現実は変わらない。
素人だからこそ気づけることもあると言うが、そのほとんどは素人の淺知恵に過ぎない。
もし本当に、偶然でもプロを越える素人がいるとしたら、それはただの素人ではない。
そして男は、音楽に関してはずぶの素人でも、いくつかの分野では特異な能力を持つ異常者であった。
「あー、もしかして先生は、練習中だけでなく、本番もあのタンスのようなピアノを使っているのですか?」
何かに気づいたらしい男が指差したのは、持参したピアノではなく、スノゥダメッツが元より持っていたピアノ。
男のピアノは唯一無二だから、答えは決まっている。
「……ええ、もちろんそうよ。大抵の同業者は私と同じピアノを使っているわ。値段によって装飾が豪華だったり少々の音色の違いはあるけど、基本構造は全部同じよ。グリン君からもらったピアノは、きっとこの街でただ一つでしょうね」
「まだ譲ってないんですが……。まあそれは置いといて、だったら先生が評価されないのも仕方ないでしょうね」
長らく眉を顰めていた男は、一転してうんうんと頷いた。
「えっ、それって……?」
「だって、先生のピアノと、先生の弾き方では、相性が悪いじゃないですか」
「あ、相性?」
「はい。先生が使っている従来のピアノでは、強弱をはっきり表現できないから、一つ一つの音に拘る先生の良さが出ないんですよ」
「――――っ!?」
才能も情熱も持っていない男の適当な意見のはずなのに、心が激しく揺れ動く。
「先生よりも速く弾ける人は、従来のピアノに合わせて強弱を重視せず、速度に特化させているからだと思います。だから決して、先生の技能が劣っているわけじゃない」
彼女のピアノは、強弱のニュアンスを細かく伝えることができない構造だった。
しかしそれは、製造過程における技術上の問題だったので、奏者の中で問題視している者はいなかった。
少なくとも、表面上は。
「音の、強弱……」
プロの奏者とはいえ、楽器で設定された音そのものを変えることはできない。
音を奏でる技術と、楽器を作る技術は別物だからだ。
現状の楽器に対して、最高の音を出すことに力を注ぐ。
それが、当然。
そもそも。
現実世界でまだ出せていない音を――。
誰も聞いたことがないはずの音を――。
想像するだけに留まらず、実際にその音を発する弾き方をしている彼女が異常なのだ。
「音感の無い俺の言葉では信じられないでしょうが、強弱の響きくらいは聞き取れる耳はあると思います。ここに通うようになって、二つのピアノを何度も聞き比べているから尚更ですね。先生のピアノを使う場合は、ずっと同じ感じで、リズムがトテトテになるんですよ」
「…………」
「きっと、先生は感性が強すぎるんでしょうね。強弱をつけて弾いても伝わらないって、出てくる音で重々承知しているはずなのに、それでも本能が妥協を許さない。自分にとって、それが一番素晴らしい弾き方だって信じているから」
「…………」
「いやー、さすがのだめ先生っ! マジぱねぇっす!!」
「…………」
たった一つの、掛け違い。
だけど彼女は、これまでずっと抱いていた違和感が流れて消えていくのを感じていた。
まるで、雪解けのように……。
「ねえ、グリン君」
「はい、先生」
「私は、私のピアノだと、上手く弾けないの?」
「そうなりますね」
「私は、グリン君のピアノだったら、上手く弾けるの?」
「少なくとも現時点では、先生以外に使いこなせるヤツはいないでしょうね」
教え子の言葉を聞きながら、スノゥダメッツはもう一つのピアノに指を這わせる。
そんな教師の姿を見ながら、男は感慨深げに口を開く。
「この世の全てのモノに役目があるとしたら、俺が持っていたピアノは、先生と出会うために存在したのかもしれません」
「…………」
「そうなると、俺の役目は先生とピアノを引き合わせるキューピッド役になるのかな?」
「…………」
「ははっ、おっさんには出来すぎた役どころですね」
「…………」
最後に笑った男は、ほんの少し寂しそうな顔をしていた。
「――――私、まだ、やれるかな?」
「……」
「グリン君のピアノと一緒だったら、いっぱいお客さんを呼べるかな?」
「……ええ、もちろんですよ、先生」
男が初めて見せた表情に気づかず、スノゥダメッツはやる気に満ちていた。
大きく開かれた瞳は、ピアノのことしか見ていない。
そんな教師の姿を、教え子は羨ましそうに見る。
「やっちゃいます、先生? 無名のピアニストが大ホールを貸し切って、からかい半分にやってきた客をビックリさせちゃいます?」
「……できるの、グリン君?」
「全てお任せください。先生は思いっきり好きなように弾くだけでいいんですよ?」
「ふひっ……、それって、とっても最高だわっ」
「ええ、最高に輝いていますよ、先生?」
「ありがとう、グリン君は本当にいい子だわ」
「もちろんです、何しろ先生の教え子ですからね?」
「ふひひっ!」
この日の夜、狂喜じみたピアノの音と、二つの不気味な笑い声は、近所から通報を受けた衛兵が突入するまで響いていた。
◆ ◆ ◆
―――― ?日後 ――――
世界一と謳われる音楽の街。
その街で最も長い歴史を持つコンサートホールは、やはり世界一。
ならば、そこで演奏される音楽もまた、世界に恥じぬ一級品であろう。
そんな期待から、客は十分に集まった。
奏者も楽器も不明な名前の無いコンサートであるにもかかわらず。
謎の黒子が極上の菓子と一緒にチラシを配りまくったことも貢献しているだろう。
期待と不安が混じり合うなか。
入場した客が目にしたのは、大きな舞台に置かれた、たった一台のピアノ。
壮大なオーケストラを期待し、眉をひそめる者もいれば。
見たことがない造形のピアノに興味を惹かれる者もいる。
魔法に詳しい者は、場内の温度に驚く。
日差しの強い真昼なのに、ひんやりとした空気が流れている。
温度を調整する手段は魔法に限られ、これ程の大ホールを網羅するには大勢の手練れが必要となる。
確かに、涼しい方が弾き手にとっても聞き手にとっても過ごしやすい。
それに、ピアノのコンディションも、音の広がり具合も、低温の方が良いと聞く。
だとしても、一時の音楽に費やすべき技術と資金ではない。
異様な雰囲気をまるで気にせず、舞台袖から登場したのは妙齢の女性。
鍵盤柄のスカートが特徴的な白と黒のドレスに身を包み、お遊戯会を彷彿とさせる。
それ以前に、音に聞く名ピアニストではなかった事実が、早くも失望の声を広げていた。
残された望みは、彼女が前座であること。
勝手な期待と失望を胸に、観客はとりあえず耳を傾ける。
――懸念は、一瞬で打ち砕かれた。
冷たい空気から伝わってくる、深く響き渡る音程差。
音楽の街に住む耳が肥えた聴衆は、音の違いを明確に感じ取る。
これまでのピアノでは表現できなかった奥深き振動。
最上の機能を余すことなく使いこなす技能。
たたみかけるような速さは無いのに、ずしんと沈み込んで後に残る響きが、鼓膜だけでなく心臓も揺らし続ける。
定番の曲なのに、意志を持った指力が重量感と鋭いアクセントを生み出し、強弱のバランスを整えることで、全く違った音色に変化させている。
軽快な音の連続だけがピアノの魅力ではなかったのだと気づかされる。
横の広さではなく、縦の深さ。
歌うような音の伸びが、これほど心を揺り動かすとは知らなかった。
自分の唾を飲み込む音さえ煩わしい。
息をする行為にさえ雑音が混じるように感じる。
ピアノという楽器は、今日初めて完成されたのだ。
奇抜な格好で楽しげに大きな手を操る彼女――――スノゥダメッツという演奏者のもとで。
……この日を境に、音楽の街で彼女の名を知らぬ者はいなくなった。
最高のピアノを弾きこなす最高のピアニストとして。
そして、出所の知れぬピアノを職人に提供し、業界の発展に寄与した音楽愛好家として。
惜しむらくは、生涯、彼女が取った弟子が、たった一人であったこと。
その一人も、最後まで表舞台に顔を出さなかったこと。
ピアノを誰よりも愛した彼女は、他には何も愛せなかったのだと、悲劇とも、美談としても噂されている。
そんな彼女が住む部屋からは、時折、不思議な旋律の連弾が聞こえてくるのだが――――――それはまた、別のお話。