秘密のピアノレッスン 3/4
「グリン君っ、昨日はごめんなさいっ! 私、新しいピアノに夢中になって、あんな時間になっていたとは気づかなくてっ」
「いえいえ、それがのだめ先生の魅力だから気にする必要はないんですよ」
「あ、あれが、私の魅力なの……?」
「そうですともそうですともっ」
運命の悪戯で出会ってしまった二人の記念すべき初日、は。
まともなレッスンは行われず、新しいピアノに魅入られ暴走した教師が深夜のクレーム処理を終えた後、精根尽きて気を失ってしまい。
紳士を気取る中年男がベッドに運び、そのまま何もせず帰宅するだけで終了してしまった。
「それに、ちょうどいい子守歌だったのでお気になさらず。人前であんなに熟睡できたのは久々でしたよ」
「は、はあ……」
楽器の演奏者にとって観客席で眠る客は厄介者であると同時に自分の未熟さの顕れでもあるが、これでもフォローしているつもりらしい。
音楽の素質以上にデリカシーに欠ける男である。
「それでは、のだめ先生、本日のレッスンをはじめましょう!」
翌朝、当然のように再びやって来た男は、昨日以上に意気揚々としている。
スノゥダメッツの駄目な所を知り、嬉しくて仕方ないらしい。
「そ、そうよね、昨日の分までレッスンしなくちゃね。……でも、その、そんなに急がなくてもいいと先生は思うわよ?」
「おや、それはなぜです?」
「ほら、あまり詰め込みすぎると身に付かないというか、逆効果というか、何というか……」
「その心は?」
「レッスンが早く終わっちゃうとグリン君はともかく一緒に最高のピアノまで無くなってすっごく困るというか……」
「清々しいまでにピアノ第一主義らしい台詞ですねっ。さすがのだめ先生です!」
「はっ、つ、つい本音がっ!?」
既存品とはまるで違うピアノの登場に、スノゥダメッツの優先度はすっかり書き換わっていた。
蔑ろにされたはずの男は、むしろ嬉しそうにしている。
「のだめ先生、ご安心くださいっ。秘密のレッスンが無事に終了した暁には、ミッションクリアボーナスとしてこのピアノを進呈しますから!」
「ほっ、本当にっ? えっ、うそっ、本当の本当にっ!?」
「紳士を自称するおっさんに二言はありませんよ。どうせ俺が持っていても、馬の耳に念仏ですから。……と言えば格好いいのでしょうが、実はまだたくさん持ってるので、遠慮せずにどうぞ」
「こんな異国の貴重品をいっぱい持っているなんて、やっぱりグリン君は凄い商人だったのねっ!」
「何がやっぱりなのかさっぱりですが、まあ似たようなものですよ」
「そういった事情なら遠慮なく頂戴するわねっ、ふひひっ!」
スノゥダメッツはそう言うと同時にピアノに飛び付き、すべすべした感触に存分に味わっている。
そのピアノは、彼女の中ではもう既に自分の物になっていた。
「あのー、レッスンが終わるまでは一応俺の所有物なので、程々にお願いしますよ?」
「分かっているわっ、ええっ、すっごく分かっているわよっ。だからレッスンなんてちゃっちゃと終わらせましょう!」
「は、ははは……。手抜きだけは勘弁してくださいよ、先生」
こうしてピアノのお稽古は、二日目にしてようやく開始された。
「先生、俺が弾きたい曲はこれです」
変わり者の二人のレッスンは、男が懐から取り出した謎アイテムより聞こえてくる不思議な曲をベースに、それを楽譜に落としたスノゥダメッツが教える、といった流れで進められた。
「グリン君が持っている曲は、初めて聞くような音の使い方ばかりで、とても新鮮だわっ」
「ははっ、プロの奏者が演奏するような曲とは、コンセプトが違うからでしょうね」
「いったいどんなジャンルの曲なの?」
「うーん、色々混ざってますが、強引にまとめるのなら、アニソン、でしょうかね」
「あに、そん?」
「愉快な曲って意味ですよ、のだめ先生」
男が希望する曲は変わった音が多く、慣れるまで少し手間取ったが、コツさえ掴めばそう難しくはなかった。
同じ旋律の繰り返しが多く、演奏時間も短い。
それでも、まったくの素人が短時間でマスターできるほど、ピアノは甘くない。
しかも練習者は、感性と鋭さを失っている年男。
加えて、音楽の才能が皆無という徹底ぶり。
レッスンは長期戦を余儀なくされ――――るはずだった。
「…………驚いたわ。グリン君は見かけによらず凄いのね」
「だから言ったじゃないですか先生、俺は褒めて伸びるタイプだって」
そのような精神的な問題ではない。
男の記憶力と指の素早さは、明らかに異常だった。
「どんな曲でも、私が弾いている様子を一度見ただけで、自分も弾けるようになるなんて本当に凄いわっ」
「恐縮です!」
「音楽家には天才も少なくないし、一度聞いただけで再現できる人もいるけど、音を理解せず指の動きだけを真似てしまうグリン君の方が凄いかもしれないわ」
「俺は普通よりレベルが高めですから、身体能力が強化されているお蔭ですよ」
謙遜ではなく純然たる事実だったが、男のレベルが優に100を越えると知らない彼女は、今一つ納得できない。
「何だったら、鍵盤の上に立って足の指先で『猫踏んじゃった』を弾いてみましょうか?」
「そんなことしたら、ピアノが重さで壊れちゃうでしょう、グリン君? そんなことしたら、足の指で鍵盤が汚れちゃうでしょう、グリン君? そんなことしたら、引っぱたいて蹴っ飛ばして追い出すからね、グリン君?」
「や、やだなー、冗談ですよ先生。そんなことしませんよー、昭和じゃあるまいしー」
「私への冗談はいいけど、ピアノに悪さしたら許さないからね、グリン君?」
「はいっ、肝に銘じます! のだめ先生のピアノ愛、マジぱねぇっす!!」
「……もう、本当に反省してよね」
怒られて嬉しそうにしている教え子を眺めながら、教師は深々と溜息をついた。
「でも、いくらレベルが上がっても限界があると思うけど……。それに、ピアノとは別のことで指の使い方に慣れている感じがするわね」
「あー、それは現代社会が生み出した闇ってヤツですよ。ピアノと同じように十本の指を酷使するパソコンなる道具がありましてね。手書きからパソコンに変わって効率性は向上しているのに、要求される物も比例して難易度を増すから平行線が続くんですよ。ほんと、世の中って上手くできてますよね、もちろん悪い意味で」
「ぱそこん?」
「つまり、俺には音楽の才能が無いから、力業でどうにかするしかないんですよ」
男には確かに、音楽の才能は、無い。
音楽系統のスキルはもとより、理解だけでなくセンスさえ皆無。
だから作曲はもちろん、アレンジさえできない。
ただ単に、見て覚えた指の動きを順番どおりに再現しているだけ。
情緒もへったくれも無く、本当の意味での見様見真似。
リズム音痴だから、その筋の者が聞くと微妙にテンポがズレている。
……しかしそれは、素人にはそれなりの音に聞こえるという意味でもあった。
「こう言っては何だけど、グリン君の才能……、いえ技巧はシンプルな曲よりも複雑な曲の方が際立つと思うわよ?」
「別に大会入賞やコンサートを目指しているわけじゃないんで、好きな曲だけを弾ければそれで十分ですよ、先生」
「そう……。でもやっぱり勿体ないわね」
「ふむ。それでは逆に聞きますが、俺が真剣にピアノに取り組んだ結果、ピアニストとして成功すると思いますか?」
「えっと…………。た、大会だったらいいところまでいくと思うわよ?」
「大会は素人の延長戦ですからね。では、ソロコンサートを開催するとしたら、先生は見にきてくれますか?」
「せ、先生はその、貧乏だから……」
「ははっ、のだめ先生は優しいのに、ピアノに関してはシビアですよね」
スノゥダメッツも説明されて理解したが、そういうことなのだろう。
いくら超絶技巧を駆使して高難度の曲を完璧に弾きこなせても、お金を出してまで聞こうとは思えない。
魂が入っていない、ただの音の連続を耳にしても面白くないからだ。
「だから、俺なんかが真面目に取り組んでも時間を無駄にするだけなんですよ。むしろ、音楽に対する冒涜になります」
「……だったら、グリン君はどうしてピアノの練習をするの?」
「俺の目的は三つです。一つめは、最初に言ったように道楽の一環として。淑女の嗜みと同様に、ダンディな紳士を目指す中年男の嗜みなんですよ」
「うん、その、そうかもね」
「二つめは、若い女性に受けるから。ピアノが弾けない女の子の前でちょっと奏でるだけでモテモテなんですよ、モテモテ」
「そ、それは随分と、その、率直な目的ね」
「ははっ、音楽が出来る奴は魅力に補正がかかるんですよ。先生だっておっさんの心を鷲掴みにしてきたんでしょう?」
「うっ……。で、でもっ、年の離れた既婚者に妾目的で声をかけられても嬉しくないわよ」
「大人になる過程で汚れてしまったおっさんは、美しいモノを穢すのが大好きですからね。許してやってくださいよ先生」
「それを聞いてむしろ許せない気持ちが増した気がするわ。……それで、最後の三つめは?」
「うーん、生粋のピアニストである先生の前で言うのは気が引けるのですが」
「大丈夫よ、グリン君。何もかも今更だから」
「実は、一般ピープルにとってピアノの音は、単体で聞くよりも、歌とセットで聞く方が馴染み深いんです」
「えっ、そうなのっ!?」
実際のところ、この世界の一般人はピアノの音を聞くことさえ珍しく、歌とのセットが普通なのは男が元いた世界での話だったが。
ソロを基本に活動しているスノゥダメッツにとっては驚くべき事実であった。
「だから、俺が弾くピアノは主役になっちゃ駄目なんです。無駄に目立つと歌との調和を崩しちゃいますからね」
「ピアノが主役じゃないなんて…………」
「ははっ、プロのピアノ奏者である先生にはピンとこないでしょうね。ピアノは世界一完成された楽器だと言っても過言じゃないと思うし。要はまあ、そんな大衆音楽もあるってことですよ」
「そ、それで本当に、曲が成立するのっ?」
「歌と一緒に演奏するピアノはそれ専用に作られていますからね。むしろ歌と一緒だからこそ、ピアノの音も際立つんです」
「そんな曲があるなんて……」
「俺が持ってきた曲は、全てそんな感じですよ。いい曲だけど、何か物足りない気がしていませんでしたか?」
「い、言われてみると確かにっ」
「当然ですよね、歌専用のピアノ曲は歌詞が付いている部分では控えめに、反対に付いていない部分で目立つ構成ですから」
「そうだったのね…………」
正しいような、それでいて決定的に間違っているかのような……。
どこまでも素人目線で語る男は、けっきょく三つめの目的を明言しなかった。
文脈から察するに、自分のピアノに合わせて歌ってほしい人物がいるのかもしれない。
「そんなわけでして、先生にとっては不甲斐ない教え子との不本意なレッスンになるでしょうが、ビジネスだと割り切ってもらえると助かります」
「そ、そんなことないわよ。先生はグリン君とレッスンできて、その、とっても刺激的よっ」
「ははっ、不甲斐なくて不本意な教え子と不祥事を起こすのも悪くないですよ、先生?」
「……グリン君は、余計なことを言わないと気が済まないタチなのね」
「恐縮です!」
「…………」
この日のレッスンは、日が暮れる前に終わった。