秘密のピアノレッスン 2/4
「いやー、期待どおり汚い……、失礼、整理されていない部屋ですね、のだめ先生っ」
「…………」
「皆まで言わずとも分かっていますよ。のだめ先生は、ピアノ以外は苦手なんですよねっ」
「…………」
「だから仕方ない。むしろ、これでこそピアノの先生に相応しい。ああっ、俺の先生があなたのような女性で本当に嬉しいですよ、のだめ先生っ」
「…………」
まだ混乱しているスノゥダメッツを置き去りにし、強引に生徒になってしまった男は、ずかずかと部屋に上がり込むと率直な感想を述べた。
失礼極まりない物言いだが、前金を受け取ってしまった手前、追い出すわけにもいかない。
部屋が散らかっているのは間違いないし。
それにどうやら、男は茶化しているつもりはなく、本気で褒めているようであった。
「その、部屋については言い訳しようもないのですが、本当にお父さん自身がピアノを習われるのですか?」
「やだなー、俺は独身貴族なのでお父さんじゃありませんってばー」
「しっ、失礼しましたっ。……ですが、その、本当に?」
「ええ、本当にレッスンを希望しているのは俺自身です。それとも、音楽で有名なこの街では、冴えないおっさんがピアノを弾くと罰を受けるんですか?」
「いいえっ、そのようなことはないのですがっ……。その、ピアノを習うのは将来音楽の道を目指す子供か、教養を身に付けるための女性ばかりでして…………」
「なるほどなるほど、その前例だと俺は当て嵌まらないですね。しかしご心配無用ですよ、のだめ先生。あなたの愛すべき生徒は、この俺こと36歳独身中年男で間違いありませんから!」
やたらとテンションが高い男が、またもや胸を張って断言する。
何かの間違いであってほしいと切に願っていたスノゥダメッツは、ショックで目の前が真っ暗になってしまった。
「あっ、もしかしてレッスン対象者には年齢制限があるんですか? 自分の後継者になるような若くて可愛くてちょっと変わった少女に限るとか?」
「い、いいえ、そのような制限はありませんっ。……ですがその、どのような目的でレッスンを希望されるのか、お聞きしてもいいでしょうか。……その、後学のために?」
「道楽です」
「え?」
「暇を持て余す中年男の高尚な道楽です!」
「……え?」
「だって中年男が今更ピアノを嗜むなんて余程の勘違い野郎か気障な紳士だけじゃないですか。ほんと場違いも甚だしいのですが、だからこそ素晴らしいと思うのです。仕事には一切関係しない音楽に興じる時間の無駄遣い。溢れんばかりの心の余裕。馬鹿にならない出費。――――そう、これこそが道楽。中年男にとってピアノは最高の道楽なんですよ!!」
「――――」
この瞬間、彼女は諦めてしまった。
この男にまともな回答を求めても無駄だと。
幸いなことに、音楽業界は奇人変人の比率が高いため、多少の耐性は備わっている。
変人ほど才能に恵まれる傾向にあると言ってもいい。
だとすれば、記念すべき最初の教え子は実に音楽向きの性格ではないか。
教師となる自分は、ただ請われるがまま教えるだけでいい。
たとえ、音楽が全く似合わない中年男が相手だとしても。
「そんなわけで、俺はやる気満々ですよ、のだめ先生っ。ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いしますね!」
「……はい、こちらも引き受けた以上、精一杯頑張らせていただきます」
「あっ、鞭撻ってのは方便でして、俺は褒められて伸びるタイプなので、優しく教えてくださいね、のだめ先生!」
「……はい、了解しました。……それはそうと、その変な呼び方は何なのですか?」
「先生の名前が長くて呼びにくかったので愛称を付けてみましたっ。もしかして、お気に召しませんか?」
「いえ、そうではないのですが、どうしてかその、茶化されている感じがして……。私のニックネームだったら普通に、スノゥと短くするだけで良さそうですが」
「そんな穢れない真っ白な雪のようなイメージは先生に相応しくありませんよっ」
「………」
「大丈夫です、すぐに慣れますよっ。だって人は慣れる生き物ですからね、のだめ先生!」
「…………もう、それでいいです」
うん、慣れよう。
全部お客様である男の言うとおりにしよう。
そうすれば楽になれると、スノゥダメッツは考えるのを止めた。
「――では、気を取り直して早速レッスンを始めましょうか」
「はいっ。ですが先生、その前に一つお願いがあるのですが」
「お願い?」
「俺は先生よりも年上ですが、ここでは教え子になるのでもっと親しげに話してくださいっ。それと俺のことは『グリン君』と愛情を込めて呼んでくださいっ。そう、やんちゃな男の子に言い聞かせるエロいお姉さんみたいにっ!」
可愛い子ぶる中年男ほど気持ち悪いモノはない。
それでも達観しつつある彼女は、教え子の全てを受け入れる。
「……それじゃあ、グリン君はどれくらいピアノが弾けるのかな?」
「はいっ、妹に教えてもらった『猫踏んじゃった』が弾けます!」
「な、なんですか、その物騒な名前の曲は?」
「たぶん、尻尾が二つある化け猫を踏んで退治するお話だったと思いますっ」
「……大切なのは曲の内容より腕前だから、まずは弾いてみましょうねっ」
「了解です!」
男は、雑然とした部屋の中央に置かれているピアノを感慨深く眺め。
しかし、実際に鍵盤に触れると首を傾げ。
人差し指で何度か音を確かめ、ようやく弾きはじめたかと思うと。
――――ジャカジャジャジャッ! ジャカジャジャジャッ! ジャカジャジャジャッ!
ごく短い音符を何度も繰り返すだけであった。
「どうですかっ、のだめ先生っ!?」
「…………」
渾身の出来だと疑わぬ純粋な瞳を向けられ、スノゥダメッツはとっさに返事することができなかった。
「え、ええ、ちゃんとした音になっている、と思うわよ?」
「ですよね! ちゃんと『猫踏んじゃった!』って感じですよね!」
褒められていると勘違いした男は喜色満面な様子だ。
褒めて伸びるタイプというのは本当かもしれない。
「それで、他にはどんな曲が弾けるのかな、グリン君?」
「弾けません、これだけです!」
「…………」
「これだけです!!」
長く根気がいる作業になるな、と彼女は思った。
同時に、長く続いた方が収入になるな、とも思った。
◇ ◇ ◇
「グリン君は、その、クセが独特というか、ちょっと変わった覚え方をしているので、基本からやっていきましょうね?」
「はいっ、優しくテクニカルに、時々ちょっとエロティカルにお願いします!」
男が身につけている技術は、椅子に座って両手で鍵盤を弾く程度。
とどのつまり素人同然だったので、基礎の基礎からはじめることとなった。
「念のために聞いておくけど、グリン君は楽譜の読み方くらいはできるよね?」
「学生時代に音楽の授業で習いましたっ」
「あら、学校で教わるなんて凄いわね」
「でも全く覚えていませんっ」
「……全く凄くないわね」
「あんなオタマジャクシがいっぱい並んでいる暗号を覚える自信は全くありません!」
何のためにここに来たのかと、スノゥダメッツは憤りを覚える。
こんなふざけた相手を追い出せない貧乏な自分にも憤りを覚える。
「のだめ先生っ、俺はピアノの全てを覚えるつもりはないんです」
「……それじゃあ、いったい何を習いたいの?」
「弾きたい曲がいくつかあるんですっ。それだけをそれなりに弾ければ、それでいいんですっ」
「そ、そうだったの……」
堂々と手抜き宣言する不肖の教え子を前に、スノゥダメッツは妙に感心してしまった。
そうだ、自分も最初は道すがら聞こえてきた曲に感銘し、もう一度その曲が聞きたくて、そして段々と自ら弾きたくなって何度も何度も通い詰め、ようやく弟子にしてもらったのだ。
きっかけとは、そんなもの。
ピアニストになったのも、その延長に過ぎない。
「――グリン君の思いはよーく分かったわっ。大丈夫っ、完璧に弾けるようになるまでビシバシ鍛えるからね!」
「はいっ! でもできるだけ優しくお願いします!」
才能や考え方は違っていたが、二人の相性は案外良かった。
二人とも少し変わった感性を持っていたからだろう。
「そんなわけで先生、申し訳ありませんが俺はピアニストになるつもりは無いんですっ」
「それはよかった……、じゃなくて、よく理解したわ」
「そこで相談ですが、先生のピアノは俺が知っている物と違う感じがするので、できれば自分のピアノを使いたいのですが?」
「もちろんいいわよ、地域によって構造が違ってくるでしょうしね。……なるほど、グリン君が最初に困惑していたのはそういうことだったのね」
「はいっ、実はそうだったんですっ。でへへ」
「別に褒めてないけど……。グリン君のピアノを使うのはいいけど、近くにあるの?」
「はいっ、ここにあります!」
「――――っ!?」
そう言った男は、懐に手を入れると、ソレを取り出した。
スノゥダメッツが驚いたのは、男の懐から巨大なピアノが飛び出てきたから、ではない。
造形そのものに心底驚いたのだ。
「なっ、なにっ、このピアノはっ!?」
それは、彼女が知るピアノとは違っていた。
音域を広くするため、複雑な仕掛けを積み重ねたような、大袈裟な姿ではない。
多彩で荘厳な音色を奏でるピアノとしては、不釣り合いなほど小さくまとまっている。
それでいて、流線的で滑らかなフォルムが目を惹き付ける。
「こんなにも洗練されたピアノがあるなんて……」
一切の無駄を省いた白と黒だけの配色。
完璧に並べられた美を見ているような感動がある。
「美しい――――」
「先生のピアノは、木造丸出しで角張っているから、タンスみたいな見た目ですからね」
「ぐ、グリン君っ、この素敵なピアノは、どこで買ったのっ?」
「俺の地元で一般向けに売ってあるピアノですよ」
「こ、これ程のピアノが、一般向けっっ!?」
「俺の地元は模倣して小型化かつ高品質化するのが得意ですからね」
そんなわけがない。
これほど完成されたピアノがそこら辺にゴロゴロ転がっていてたまるものか。
だが、素人同然のこの男が所有しているのも事実。
彼女の常識は、今日一日で何度も崩されてしまった。
「ああっ、極限まで研いだ石のようにすべすべで輝く外郭! 無駄を全て削ぎ落とした機能美! 全てを内包する白と黒の世界! 完璧っ、全部が全部完璧だわっ! ふひっ、ふひひっ――――」
これまでの教師然としした姿は見る影も無く、スノゥダメッツはハァハァと息を荒らげながら、ピアノの回りをグルグルと徘徊し、大きな手でベタベタと触りまくっている。
その変態じみた行為を見て男は、「さすがのだめ先生だなぁ」と感心していた。
「あのっ、その、グリン君? このピアノ、先生が弾いてもいい?」
「はい?」
「あっ、違うのよっ、けっしてピアノを奪おうとかそんなつもりじゃなくてね、先生も初めて見るタイプのピアノだからしっかり確認しないと、グリン君に上手く教えることができないからね、それだけだからね?」
「ははっ、そんな心配はしていませんよ、のだめ先生。どうぞ気が済むまで存分に確かめてください」
「ほっ、本当にいいのっ? このピアノをめちゃくちゃ弾いちゃっていいのっ!?」
「どうぞどうぞ。音楽は聞くのも勉強なので、俺は後ろで大人しく見学していますよ」
「ふひっ――」
常識人に見えて、実は天才型の変人である彼女。
変人に見えても、本物の変人には成り切れない中年男。
そういった意味でも二人は、相性が良い師弟であった。
――――――♪♪♪
「うんうん、さすがは本業。初めて触るピアノでも完璧に弾きこなしているな」
――――――♪♪♪
「初めてピアノに触れた子供のように弾きまくっている……。鬼気迫るとはこのことか」
――――――♪♪♪
「……あの、のだめ先生? そろそろ日が暮れてきましたけど?」
――――――♪♪♪
「……あの、のだめ先生? そろそろ晩飯の時間ですけど?」
――――――♪♪♪
「……あの、のだめ先生? そろそろ寝る時間ですけど?」
――――――♪♪♪
「…………ぐがぁー」
若きピアニストの弾奏と、中年男のいびき声が混ざり合った二重奏は、夜遅く、近所から苦情が来るまで続けられた。