秘密のピアノレッスン 1/4
好きな事を仕事にするのは、難しい。
才能が無ければ諦めもつくが、半端な才能に恵まれていると、傷口が深くなる。
本当に難しいのは、「好きなもの」を「好きな形」のまま、仕事として昇華できるか否か。
仕事をして金を得るためには、金を出す者の要求に合わせた変化が強いられる。
変化した後の姿が原型を留めていればまだいいのだが、どうしようもないくらい歪んでしまった時。
「好きな事」は、「好きだった事」になり、最後には「嫌いな事」へと変貌しているだろう。
誰もが分かっている。
好きな事は、趣味に留めておく方が利口だと。
誰もが思っている。
それができたら、苦労しないと。
◇ ◇ ◇
『ピアノ、教えます。レッスン料は月金貨5枚(応相談)。記 スノゥダメッツ』
彼女がそう書いた紙を玄関口に貼ったのは、金に困っているからに他ならない。
得てして、音楽とは金がかかるもの。
超一流の腕があれば、個人でコンサートを開催したり、ゲストに呼ばれたりと食い扶持に困らない。
だが、一流程度の腕前では、バイトをしつつ食いつなぐのがやっと。
加えて彼女は、ピアノの才能以外はからっきしで、生来の不器用さもあり、雇ってくれる店がなかった。
音楽の道を諦め、金食い虫であるピアノを売り払ってしまえばそれなりの金になるから、当分の暮らしには困らない。
その間に若い男でも引っ掛けて家庭に入るのが、一番堅実な生き方だろう。
幸いなことに、彼女の容姿は整っていた。
ピアニストが持つ華奢でスマートなイメージとは異なり、ダークブロンドのショートボブに肉付きがよく身長も高かったが、美人の類いには違いない。
飾り気の無いワンピースドレスばかり着ているが、それは金次第でどうとでもなる。
繊細な楽器を扱っている割には大雑把でお気楽な性格だが、それは隠せばいい。
年齢もまだ21と若い方。
それなりの資産家から見初められる素質は十分にある。
だけど、その道は選べない。
彼女の生き甲斐は、ピアノとともにあるのだから。
大好きなピアノを失っては、生きる意味などないのだから。
「ごめんくださーい。表の張り紙を見たのですがー」
ピアノのレッスンを応募したのは、苦肉の策であった。
関係者以外に高価な楽器に触れることができるのは、貴族や一握りの金持ちだけ。
物好きから認められ弟子になった彼女のような者はほんの僅か。
興味はあっても、将来の保証が無い音楽に金と時間を費やす一般人は、まずいないのが現状だ。
「――――は、はいっ、いま出まーすっ」
だから、彼女自身も本当にレッスン希望者がやって来るとは思っていなかった。
可能性があるとすれば、娘に教養を身につけさせて価値を高めようとする商人くらいか。
何にせよ、幸運である。
降って湧いたような上客を逃すわけにはいかない。
「お待たせしましたっ。私がピアノのレッスンを担当するスノゥダメッツですっ」
「これはこれはご丁寧に。俺の名前はグリンです。どうぞよしなに」
玄関に立っていた相手は、彼女――――スノゥダメッツの予想と違っていた。
レッスンを希望する本人ではなく、娘を持つ父親なのだろう。
だとしても、教養を求める高貴さや、高いレッスン料を払えるような格好には見えない。
何かの間違いだろうかと、不安になる。
「あ、あの……、本日はどのようなご用で?」
「実は前々からピアノを習いたいと思ってまして、ちょうど張り紙を見たのでお願いできれば、と」
「レッスンを希望されるのですねっ。ありがとうございます!」
「いえいえ、こちらが教わる側ですから。それで、定員はまだ余裕があるのでしょうか? できればすぐにでもお願いしたいのですが……」
「大丈夫ですっ。その、ちょうど空きが出たところなので、十分に時間が取れますからっ!」
「それは良かった。では早速、今からでもお願いできますか?」
「はいっ、もちろんですっ!!」
来客は、間違いなくピアノのレッスンを望んでいた。
しかも、随分とやる気に満ちている。
よほど教育熱心な親なのだろう。
改めて観察すると、くすんだ緑色の変わった服を着ていてるので商人かもしれない。
見かけによらず喋り方もまともである。
(助かったっ、これで今月の家賃が払える!)
近日中にバイトが決まらなければ、部屋を追い出されるところだった。
その前に餓死していたかもしれない。
スノゥダメッツには、目の前の男が神に見えた。
「それで、あの、お子さんは近くにいらっしゃるのでしょうか?」
「いいえ、俺に子供はいませんよ。毎日毎晩、花の独身生活を堪能しているので」
「へっ? ……それでは、その、妹さんとか?」
「妹はいますが、今頃実家で育児に頑張っていると思いますよ」
「…………だったら、その、私は誰に教えればいいのでしょうか?」
男の隣には誰もおらず、外で待たせているわけでもないと言う。
記念すべき第一号となる弟子の姿を探すスノゥダメッツに向かって、中年男は笑顔でこう言った。
「俺です」
「え?」
「俺ですっ」
「……え?」
「俺ですっ!」
「………………」
疑問符を投げかけられても、めげずに何度も肯定する男。
スノゥダメッツには、目の前の男が疫病神に見えた。
「これからよろしくお願いしますね、のだめ先生っ!!」
「……………………」
――――こうして、後に希代のピアニストと呼ばれることになるスノゥダメッツと。
最後まで表舞台に出ることなく消える幻の弟子との、秘密のレッスンが始まったのである。