お嬢様とメイドの奮闘記⑨/婚約騒動の後遺症
「よ、よう…………」
「んふっ」
俺の挨拶に対して、ニンマリとした笑顔を返す女。
信じがたいが、この街で一番偉い領主家の貴族令嬢。
その名は、ソマリお嬢様。
率直に言って、むかつく。
「んふふっ」
彼女は、いつも通りに笑っているつもりかもしれないが。
俺には、ねっちっこい含み笑いにしか見えない。
「んふふふっ」
「……おいおい、お嬢様よぉ。誰かに挨拶されたら、ちゃんと挨拶を返しなさいってパパから習わなかったのか?」
「あら、そうだったわね。どんなに親しき仲でも礼儀を欠いてはいけないわね。――――こんにちは、私の婚約者さん?」
「…………」
「あらあら、ちょっとだけ間違ってしまったわ。元、婚約者さん、の方が正しかったわね?」
「…………」
俺は、肯定しない。
肯定してしまうと、ほんの一時であったにせよ婚約者だった事実を認めた事になるからだ。
「……もう一度確認するが、俺とお嬢様の婚約者話は誤解だったとして、綺麗さっぱり処理されたんだよなぁ? 領主様は完全無欠に納得したんだよなぁ? そうだよなぁっ!?」
「もちろんよ。何度もそう言っているじゃない。そんな怖い顔で迫っているところを誰かに見られたら、それこそ誤解されるわよ?」
「だったら、元婚約者という呼び方は完璧に間違っているよなぁ? なあっ!?」
「そうねぇ、そう言われてみれば、そうかもしれないわねぇ。ごめんなさい、今度から気をつけるわね、元婚約者さん……、じゃなかった、旅人さん?」
「…………」
もう、あれだよな。
明らかに、わざとだよな。
完全に、ツッコミ待ちだよな。
「んふふふふふっ――――」
何故だ。
何故こんな状態になった。
婚約者騒動は、単なる誤解だったはずなのに。
お互いに黒歴史なはずなのに。
何故俺は、お嬢様と向かい合うと少しばかり気まずい思いをするのだろうか。
何故お嬢様は、まるで俺の弱みを握ったかのように余裕たっぷりなのだろうか。
「なあ、普通は逆だろう? 乙女な箱入り娘が恥ずかしがる場面だろう? スキャンダルを避けるべき貴族様の方が困る場面だろう? それともアレか? 生娘じゃないのか? びちびちのビッチなのか? やっぱり偽物のお嬢様なのか?」
「んふふっ、正真正銘の乙女な令嬢に向かって失礼な物言いは止めてよね、もと……、旅人さん?」
くそっ、何なんだその余裕は。
もう我慢できない。
目の前のむかつく笑顔を消し去るには、物理的に顔面を潰すしかないっ!
「……グリン様。どうか手を上げるのだけは勘弁してやってください」
今までずっと、隣から無言でお嬢様を睨んでいたメイドさんが、しぶしぶ待ったをかける。
……そうだよな、こんなんでも一応良家のお嬢様だから、誰だか認識できなくなるまで顔面を捻り潰すのは少し不味いよな。
ちっ、命拾いしたな、お嬢様め。
「なあなあ、メイドさんよぁ。お宅のポンコツお嬢様の躾がなっていないと思うんだがねぇ?」
「エレレとお呼びください。……申し訳ありません。折檻して正気を取り戻したはずなのですが、元の性格が狂っていてはどうしようもありません」
やさぐれた俺が突っかかると、メイドさんは諦めたように首を横に振った。
「……うん、そうだよなぁ。エレレ嬢も苦労しているんだよなぁ」
「はい……」
本当に疲れたように目を伏せるメイドさんの頭をなでなでしてみる。
役得というか、これくらいのセクハラは許されるだろう。
今更だしな。
「――――それで、お嬢様、俺に何かご用かな? 先に言っておくが、俺からの用事は皆無だぞ」
「あらあら、そんなに無下にしなくてもいいでしょう。仮にも婚約者疑惑があった相手に、ね?」
しつこい女は嫌われるぞ、おい。
「旅人さんは立派な大人なんだから、そんなに婚約者って言葉に照れないでよ」
「照れてないっ! 断じて!!」
「もう、だったら言い方を変えるけど、そんなに気にしなくてもいいじゃない。婚約者なんて、ただの形だけの関係でしょう?」
「……三十路を越えた独身男性ってのは、とてもデリケートな生き物なんだ。面の皮の厚いデリカシーゼロなお嬢様と一緒にしないでくれ」
「それなら、婚期を超えつつある女性をいじめるのも非難されるべきよね?」
「……それについては猛省するが、お嬢様が言っても説得力ないぞ」
人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものである。
ごめんな、メイドさん。
今度から控えるよ、程々に。
「――――――」
俺とお嬢様に向けられる、メイドさんからのじとっとした眼差しは置いとくとして。
お嬢様は好奇心が旺盛すぎるといった最悪の欠点を除けば、それなりに普通の感性を持つ少女だと思っていたのに、結婚についてはやたらと耐性があるらしい。
完全に予想外だ。
「私は正真正銘の貴族の生まれなのよ。貴族にとって政略結婚なんて当たり前だし、この街や家のためにならいつでも嫁ぐ覚悟はできているわ」
「……それは大変立派な心がけですね、お嬢様。若ければ誰でもいい変態貴族と早く政略結婚してワタシを安心させてください」
「そうよねぇ、エレレがいつまで経っても片付かないから、まだ十代の私の方が先に嫁入りするかもしれないわよねぇ」
「…………」
「んふふっ」
駄目だ、俺だけじゃなくメイドさんまであしらわれているぞ。
認めるのはしゃくだが、結婚する覚悟についてはお嬢様の方が一枚上手のようだ。
お嬢様のくせに生意気な!
「――――まったく、旅人さんの結婚嫌いには困ったものよねぇ」
婚約者の次は母親気取りかよ。
その台詞は、本当の両親を思い出すから止めてくれよ。
「婚約者なんてしょせん口約束だし、結婚しても相性が悪かったら別れるなり増やすなりすればいいだけでしょう?」
「……そんな簡単に割り切れるほど、大人の男女の仲は簡単じゃないんだぞ」
「愛人は作るくせに?」
「……愛人は別口だ」
だって法律上、何の関係もない赤の他人だからな。
まあ、嫁さんだって、正式に結婚しても子供ができなければ、書類上で繋がっているだけの赤の他人かもしれんが。
「――んん? ちょっと待ってくれ。『別れる』はともかく、『増やす』ってのは何だ?」
「何って、たとえ一人目の妻を嫌いになっても、二人目、三人目と増やしていけば問題ないって話でしょう?」
妻を「増やす」だと?
少なくとも日本では聞かない表現だ。
「いやいやまてまて…………。も、もしかして、この地域は一夫多妻制なのか?」
「えっ、まさか知らなかったの? 大半の地域と種族では一夫多妻制が当たり前なのよ?」
「お、俺の地元では一対一が基本だ……」
「ふーん、そうなのね。随分と珍しいわ」
文化が違えば、こういう認識の違いもあり得るだろう。
地球の多くは一夫一妻制だったし。
そもそも結婚について考えたくないから、これまで俺の耳に入っていなかったようだ。
そもそも、俺にとって結婚なんて無縁の文化だから、制度がどうであれ全く気にする必要はないのだが。
「………………」
何だろう。
この胸のつっかえが無くなったような。
逆に小骨が喉に挟まったような…………。
なんとも表現しにくいもやもやした感情は、何だろう。
「――――――」
そして何故、先程までお嬢様を睨んでいたはずのメイドさんの視線が、こちらに向けられているのだろうか。
真っ直ぐにじーっと見られると困るのだが。
独り身は人と目を合わせるのが苦手なんだから止めてくれ。
「そうだわっ、旅人さんの結婚嫌いは、旅人さんの故郷の常識からきたものでしょう。だから、この地域の常識と照らし合わせてみたら、苦手な部分が無くなるんじゃないかしらっ!」
「……お嬢様にしては、とても素晴らしい提案です」
野菜が嫌いな子供みたいに言わんでくれ。
まあ、嫌いなんだけどさ、野菜。
だって、苦いし。
メイドさんはメイドさんで、急に方向転換してお嬢様の味方をするしさ、メイドさん。
いいさいいさ、俺には一人が似合っているんだよ!
「苦手って訳じゃない。ただ、結婚するメリットよりもデメリットの方が遙かに多いと客観的に判断しているだけだ」
「それなら、旅人さんが主張するデメリットって何かしら?」
ふん、よく聞くがいい。
そしてお嬢様も残酷な真実を知るがいいさ。
「まず、結婚すると全財産を嫁に管理され、夫は月五千円――――銀貨五枚程度の小遣い制に成り下がること!」
「そんな事ありえないでしょう? 奥さんには生活費だけを渡すのが普通よ」
「離婚した時は、慰謝料という名目のもとに財産の大半が嫁に奪われるんだっ!」
「それって、法律として間違っているのじゃないの? この地域ではそんな馬鹿な決まりはないわよ」
「お、お金だけの問題じゃないぞっ。毎日休みなく体をぼろぼろにして家族のために頑張っているのに、稼ぎが悪いって罵倒されたり、構ってくれないのが悪いって浮気されたり、唯一の趣味だった鉄道模型を勝手に捨てられたりするんだぞっ!?」
「テツドウモケイってのが何なのか分からないけど、それって、悪い女に騙されているだけじゃないの?」
独身男性の主張は、あっさりと否定されていく。
「あら、もうお終いなの?」
「い、いやいや、まだまだ他にもいっぱいあるからっ! ほらっ、アレとかソレとかっ」
「…………旅人さんの故郷って、話に聞く限りだと平和で裕福な感じがしていたけど、結婚には酷い環境だったのね。特に男の人にとっては。……流石に同情するわ」
お嬢様の声色が、呆れ声から同情に満ちた慈愛の声に変わっていく。
傷心の時に優しくされると涙が出そうになるから止めてくれ!
「グリン様が心配されるような事態は、少なくともこの辺の地域ではありえない非常識なのでご安心ください」
メイドさんも優しく慰めてくれる。
でもその瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く、「だから早く結婚した方がいいですよ」って言われている気がして怖い。
「そ、そうだったのか……。食文化が違うように、結婚に対する常識も世界が異なれば違ってくるのか…………」
「文化の違い以前に、旅人さんの故郷が酷すぎるだけな気がするのだけどね」
うん、俺もそんな気がしてきた。
そうか、日本人男性は社会的地位に恵まれている分、家庭内だとヒエラルキーの底辺になるんだな。
まったく、上手くバランスをとっているものだ。
ほんと、勘弁してくれよ。
「でも良かったわ。これで旅人さんも、結婚するメリットの方が多いって考え直してくれるわよね? ねっ?」
「いやっ、まだだ、まだ終わらんぞっ、俺は負けてないぞ!」
「……いったい何と戦っているのよ?」
お嬢様の呆れ声は置いておくとして。
そう、まだ最大の難所が残っているはずなんだ!
「こ、子供が――――」
「こども?」
「……っ」
「どうしたの、旅人さん?」
「…………あっ、その……」
だけど、それを口に出すのは、はばかられた。
もしも、本当にもしもの話だが……。
その究極の問題にまで解決方法が示されてしまったら、俺にはもう、逃げ道がなくなってしまう気がしたからだ。
「どうかしたのですか、グリン様?」
「い、いや、何でもない…………」
大量の汗を流し始めた俺をメイドさんが心配してくれる。
でも――――。
「……つまり、これまでの話をまとめると、結婚なんてものは、結局やりたい奴がやればいい趣味の一つって事だよな?」
「どうしてそんな結論になるのよっ。……やっぱりただ、結婚って言葉が嫌いなだけじゃないの? 結婚して後継を残すのは力を有する者の義務みたいなものなのよ?」
「この地域の結婚観が俺の地元と多少違っているのは認めるが、結婚が義務ってのは断固認められんぞっ」
「ワタシも同意見です、お嬢様」
その義務っていう強迫観念が、他人から命令されるのを嫌がる自尊心の敵なのだ。
特に、俺のような捻くれ者にはな。
……もう、これ以上の議論は避けるべきだろう。
そもそも、俺には所帯を持つ甲斐性も覚悟もないのだから、多少条件が変わったとしても関係ない。
そんな単純な話ではないはずなのだ。
少なくとも、俺の中では――――。
「…………」
俺は懐に手を入れて、複製魔法でとある赤い物体を創り出す。
「ところでエレレ嬢、イチゴはお好きかな?」
「はい、甘い果物なので大好きです」
「そうか……。だったら、ほら」
懐から取り出したるは、真っ赤なイチゴ。
もちろん日本で魔改造された甘い甘い品種だ。
「はい、あーん」
「――――あむ! ……あむあむ」
手に持ったまま、冗談でメイドさんの口元にイチゴを近づけたら、速攻で食いつかれてしまった。
反応速度がもう少し遅かったら、間違いなく俺の指までその可憐な口の中に捕らえられていただろう。
相変わらず甘党なのか肉食系なのか、よく分からないメイドさんである。
「ご馳走様でした。大変美味しかったです」
「それは何より」
メイドさんは礼を言いながらも、まだ物欲しそうにしているが、お預け。
意地悪をしている訳ではなく、別の目的があるからだ。
そう、意地悪するのは、この後なのだ。
「ねえねえ、旅人さん。私の分も、もちろんあるわよね?」
ほら、食いついてきたぞ、食いしん坊ならぬ構ってちゃんが。
「もちろんだとも。珍しい物が大好きなお嬢様には、特別に特別なイチゴを進呈しよう」
「あらっ、やっぱり元婚約者ともなると扱いが違うわね!」
ふん、その減らず口もこれでお終いだ。
俺は不審がられないように、表情を変えずもう一つの赤い物体を取り出す。
「つるつるしていて変わった形のイチゴね?」
「特注品だからな。ブランド名はハバネロだ」
「随分と強そうな名前ね」
「味も特別に強いぞ。……ほら、あーん?」
「あーん、……ぱくっ!」
「……」
「もぐもぐ……」
「…………」
「もぐもぐもぐ…………もごっ!?」
ご機嫌で食べていたお嬢様は、突然口を押さえて顔を真っ赤にした。
――――愚か者め!
イチゴとトウガラシの区別もつかぬとはっ。
「やーい、ばーか、ばーか」
のたうち回って苦しむお嬢様が回復する前に、捨て台詞を残して逃げ出そう。
ふう、少しは溜飲が下がったかな。
こんなせこい嫌がらせしかできない自分が情けないが、お嬢様が相手ならお似合いだろうさ。
「ひょ、ひょっとまっへよっ、まだはなひはおわってなひでしょ!?」
「………………」
慌てて引き留めようとするお嬢様と、しずしずと頭を下げるメイドさんを尻目に、俺は全力疾走でその場を去った。
……何だか、頭がぼーっとする。
結婚なんて、今まで真面目に考えた事がなかったから、熱が出たのかもしれない。
早く宿に帰って寝てしまおう。
布団に潜って今日の出来事は忘れてしまおう。
寝る前にアレコレ考えてしまうとよく眠れないのだ。
そうだ、だから、早く忘れてしまおう。
――――そして、俺はまた、考えるのを止める。