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 すっかりと興奮も冷めて姉の茶化しを淡々とやり過ごし、眠りに落ちる前、色々と考えて分かったことが一つだけある。

 僕が透明人間になったのは姉の栄養ドリンクのせいだ。

 冷静に振り返れば自明の理で、あの栄養ドリンクを飲んだ以外、透明になるような、何か特別な行いや前兆じみたものはなかった。もちろん栄養ドリンクのせいで透明になってしまうのも甚だ不明瞭な事柄ながら、考えられる可能性が一つなら、きっと正解だ。

 そんなこんなで夢から醒めた日。

 夢でざんばらが炎を吐きながら追っ掛けてきたのは速やかに忘れるとして、休日ならではの自堕落な洗面や歯磨きを済ませれば、足は自然と冷蔵庫に向かった。

 冷蔵庫を開けて並んでいる栄養ドリンクを見つめる。

 ふうん……特段に変わったパッケージにも見えない。とはいえスーパーやらコンビニで見た覚えは無く、ただ何となく、常に一定数が冷蔵庫に並んでいるので見慣れたものにしか思えない。

 これが原因で透明になってしまう?

 そんな馬鹿なとやっぱり思わないでもないが、一つを手に取る。冷蔵庫の力でひんやりとしたパックをためつすがめつ、ストローを突き刺す。

 開け口に鼻を寄せると微かに柑橘系の匂いが得られる。炭酸ではないようで、しゅわしゅわといった音は聞こえてこない。

「……これで透明人間かあ」

 と、ついつい口に出してしまい、手で塞ぐ。

 恐る恐る視界を漂わせるも姉の姿は見つからない。耳を澄ましても総じて小うるさい姉の発する音は聞こえてこない。

 もしや外出しているのかと玄関を確認するも姉の靴はきちんと揃えられていた。

 となれば、まだ寝ているのか。

 静かに自室に戻り、机の横にある姿見の前に立つ。姿見には見慣れた自分が映っていて、ちょっと怪訝そうに片手のパックを見ている。

 さて、実験の開始だ。

 ストローに口をつけ、ゆるゆると飲み下す。味は……アセロラ? いや、明確にアセロラの味を思い返せないのであやふやだけど、同じくらいに記憶とは合致しない味がする。

 初めて得た味、そんな感じか。

 まあ、味はどうだっていい。昨日飲んだ時だって気にもしていなかったし、例え吐き出すくらいに不味かろうと、効能が確かなら苦汁だって飲み干す。

 パックを机に置き、じいっと姿見を見据える。

 自分を真剣に、ひたすらに見据えるってのは意外と歯痒いというか、おもはゆいというか、何だか焦れてそわそわとしてしまう。

 と、そんな自分の滑稽さが徐々に消え始めたのは数分の後。

 気持ち云々ではなく、僕自身が鏡に映らなくなっていく。

 安心したのは表面から透明になっていかなかったことだ。まず皮膚が消えたかと思えば筋肉やら血管やら内臓やらが露出して、それが消え始めたら次は内臓の中身とか骨とか、順々に透明になっていたら数日間は何も食べられなかった。

 とまれ僕という存在が徐々に希薄さを増していき、終いには鏡に映っていなかった。

 昨日と同じ、服だけが浮いているような格好、見下ろせば素肌をしっかりと確認できるのに、鏡にはまるで映っていない。

 透明人間の出来上がりだ。

 実験はほぼ完了、残すはどのくらいで元に戻るのかだけど、せっかく透明になったのに、ただ漫然と元に戻るのを待つだけってのは味気ない。

 同時に果てぬ興味もある。

 夢にまで出て来た、ざんばらについて。

 余りに釈然としないので考えないようにはしていたけど、どうしたって疎かに出来ないのは、ざんばらが炎を吐いたって点だ。

 くしゃみの後、ばふぉっと炎を吐いた。

 一体全体、あのざんばらは何だ?

 それを解明できるとしたら、透明になっている間だけだ。

 姿見の前で衣服を脱ぎ、鏡には何も映っていないことと目視での全裸を確認し、颯爽と外の世界に飛び出す。

 際立つ寒さは根性で耐え忍ぶとして、ふと閉じた玄関の戸に目を向ける。

 あれ? 今、出る時に鍵を開けたっけ? いや……開いたままだった。ということは姉も僕も熟睡している夜間、鍵は開け放しだったのか。

 おおう、危ない、たまにやってしまう不注意が出てしまった。

 施錠はしっかりと。

 まあ、今は何も持ち出せないので致し方なし、家には姉も(寝ているみたいだけど)いるので良しとしよう。

 凍えそうな足元をあえて意識せずに小走りで進む。

 透明な時間は有限、寒さに耐えられるのも限界がある。向かう先は銭湯で、生憎と他の、ざんばらに至りそうな手掛かりは有していない。

 いるかな?

 いませんでした。

 そりゃそうだ、二日も連続でたまたま僕が来た際に二人、或いはざんばらが銭湯の前にいる可能性はきっと低い。

 さあて、ではどうするか。

 闇雲に歩き回って探すのであれば透明である必要はないし、というより衣服を着込んでいた方が絶対にいいし、透明状態の今だからこそ出来ることってのを実施したい。

 ………………女湯か。

 そうなると女湯しかない。いや、そもそもの始まりが女湯なのだから、ざんばらの謎を突き止められないのなら女湯に向かうしかない。

 いざ、夢の果てへ。

 赤地に白文字で女湯とある暖簾を超えるべく些細ながら偉大なる一歩を踏み出さんとしたところ、聞き慣れた声が届いた。

「どうしたって姉弟ってことかな。弟のことなら何でも分かっちゃうお姉ちゃんとしての性が恐ろしいよ」

 心臓が飛び退いたのは言うまでもない。

 振り返ればそこには直視したくない現実が威風堂々と立っていた。

 要約すれば全裸の姉が腕を組んで立っていた。

「…………ね、姉ちゃん?」

 声に出してしまい、はっと口を押さえる。

 けれども全裸の姉はにやりと笑い、明らかに僕の反応を楽しんでいる。

 姉には僕が見えている。

 僕にも姉が見えている。

 姉と僕は全裸で向き合っている。

 いやはや、何だ、この構図は。

「取り分けて弟、透明になったからって女湯を目指すのは短絡的だぞ。欲望に真っ直ぐすぎて、お姉ちゃんは赤面しちゃいそうだぞ」

「……いや……いや、いや……全裸なのに頑なに腕を組んで隠そうとしない姿には流石に赤面しちゃいそうだけど、いや、そうじゃなくて…………」

 どうなってるんだ? 僕って透明人間になってるんじゃないのか? まだ透明化が解けるほど時間は経っていないはず……まさか時間は不規則なのか、いや、それ以前に何で姉まで全裸なのか。

 そうだ、何で姉は自宅の如く全裸で堂々としているのか。そこまで羞恥心や常識から逸脱してはいなかった……と思う。

「ふっふっふ」

 姉は含み笑いめいたものを披露した。

「驚いているようだな、弟よ」

「……え、いや、そりゃ色んな意味で驚きは隠せないし、むしろ驚きを最大限に表しているつもりだけど……ちょっと待って、そんな問答はさておき、何で姉ちゃんは全裸なのさ」

「おいおい、全裸の弟に聞かれたくない質問で上位に食い込む問いだぞ」

「わ、分かってるよ、痛々しいほど自覚はしてるよ。僕が全裸なのもさておき、まずは姉ちゃんの事情を聞かせてよ」

「仕方が無いな。たまには弟に甘えさせてやろう、私はお姉ちゃんだからな」

「…………うん、激しい葛藤はさておき、今はぐっと堪えるよ」

 何故か自信満々に頷いた姉は至極簡単に続ける。

「お姉ちゃんが全裸なのは、透明人間だからだぞ」

「……………………」

 いつもなら数多くの言葉を駆使して反論めいたものを散布しただろうが、どうにも納得せざるを得なかった。

 僕が全裸なのも、透明人間だからだ。

 お互いに透明人間だから全裸である。重たく一つ頷き、もう一つ尋ねる。

「それで、その……透明人間なのに、何で姉ちゃんは見えてるのさ」

「それは弟も透明人間だからだよ、当たり前じゃないか」

「何が当たり前なのか、雲すら掴むようだけど……えっと、僕も姉ちゃんも、今は透明人間ってことなの?」

「そうじゃなければ、いくらお姉ちゃんでも全裸ではいられないぞ」

「……………………」

 一瞬、疑問が浮かんでしまったものの頷いて肯定を示す。

 いくらなんでも姉ちゃんが全裸で外出するはずない。それは僕にしたって同様で、透明人間にでもならなければ、全裸で外出なんてしない。

「じゃあ、僕も姉ちゃんも透明人間で、透明人間同士だから、お互いが見えてるの?」

「ザッツライト」

「いかにも片仮名な発言で英語を使うのはやめようよ。そもそも姉ちゃん、今までそんな受け答えしたことないじゃん」

 姉はやれやれとばかりに首を振る。

「お姉ちゃんだって受けのいいキャラを模索したりもするんだぞ」

「うん、間違いなく場違いなのを認識してくれればいいんだけど……いや、え、それ以前に、え、透明人間って、そういうものなの?」

「ん? そうだぞ、常識だぞ」

「…………姉ちゃんの常識はもはやどうしようもないとして、そうなんだ……透明人間って透明人間には見えるものなんだ……」

 そう断言されてみれば、さもありなんなのかもしれないと思わないでもない。

 例えば透明人間が一つの種であったなら、透明人間たちは同種のお互いさえ見えずに生活してるって考えはどこかおかしい。せめて同じ種、交配を重ねて子孫を増やしていくことを仮定したならば、透明人間に透明人間が見えるってのはおかしなことじゃない。

 なるほどなあと内心であれやこれやを経ていると、不意に姉が腕を解き、僕に示すみたく人差し指を立てた手を突き出した。

「そして透明人間は悪と戦わないといけない」

「……………………」

 そういえば今日は天気がいいなと空の青さを仰ぎ、姉に視線を戻す。

「え、ごめん、姉ちゃん、良く聞こえなかった。そして透明人間はほにゃらららって聞こえた」

「そんなわけないだろ。そんなわけないだろ」

 全裸の姉にしれっと繰り返されれば、悔しくも認めるしかない。

「……いや、うん、そんなわけはないよ。ちゃんと聞こえたんだけどさ。でもさ、姉ちゃんの言葉が余りにも荒唐無稽で、受け流す必要性を強く感じたんだよ」

「あのな、お姉ちゃんの言葉はいつだって真摯に聞くものだぞ」

「時と場合によるよ」

「今はその時と場合だぞ」

「お互い全裸で、透明人間なんだよ?」

 姉は不可思議とばかりに首を傾けた。疑問符さえ浮かびそうで「…………?」みたいな。

「ごめん、悪かったよ。まさか疑問を浮かばせるなんて夢にも思わなかったよ。で、どういうことなのさ。透明人間が悪と戦うってのは?」

「目は口ほどに物を言うって言葉があってな?」

「……まあ、うん。え、いくら姉ちゃんの目を覗き込んだって、それで伝わったりしないからね? はじめに言葉ありきって大切な一般常識だよ?」

「いやいや、違うくてな。そんな暖簾の傍に立ってるから分からないんであって、ちょっとお姉ちゃんに寄ってみな」

「……お互いに素っ裸って事実を重要視してるよね?」

「そこはそれだぞ、ついこの前まで一緒にお風呂に入ってたじゃないか」

「…………時の流れに対しての価値観の相違はともかく、ついこの前にしては、僕の記憶には何一つ思い出として残ってないけど……まあ、うん、今更だけどさ」

 歩み寄る際にぶつぶつと呟かざるを得ない理由は明確だろう。

 なにぶん、僕も姉も素っ裸、全裸なのだ。

 姉は知る由もないが、僕には極々標準的な羞恥心がある。

 流石に正面に立つのは躊躇われて姉の横に並ぶと、姉はくいと顎で指し示した。そちらには古びたアパート、アパートのやや開けた空間は駐車場に使われているようだけど今は車の姿はなく、小学生と思しき三人の男女が跳ね回っていた。

 ははあ、僕からは銭湯の塀で見えなかったけど、周囲に人がいたのか。

 道の真ん中に立つ僕と姉は三人から丸見えだろうに、三人は一つのボールを追い掛け回すばかりで僕らには目もくれない。

「……ええと。子供が遊んでるね」

「おいおい、弟、その目が節穴である可能性を否定できないぞ」

「むしろ肯定しようとする姉ちゃんに驚きを禁じ得ないけど……え、何さ。どこか変なところがあるの?」

 姉は一本立てていた指先をすっと子供たちの近く、アパートの向かいにある一軒の小さな家、その玄関戸辺りに向けた。

「…………ええっと?」

 小さな家はアパートと同様に古びたもので、玄関戸といっても僕の家とは違い、磨りガラスで左右に動かして開け閉めするタイプらしい。あんまり見掛けないものではあるが、殊更に珍しいものじゃないだろう。

 いやいや、というか、そういう話はしていない。

「えっと、姉ちゃん。透明でいられる時間は限られているんだし、もうちょっと明瞭に教えて欲しいんだけど」

「むう、仕方が無いな。不明瞭なものが見えると、お姉ちゃんはそう言いたいんだぞ」

「……不明瞭って……見える……?」

 やや前屈みになって尚も目を凝らせば、ほんの微かに何か……不明瞭が見えた。

「…………んん?」

 戸の磨りガラスが何だか微妙に、ほんの微かに滲んでいるように見えなくもない。注視すれば色も磨りガラスとは異なっており、灰色っぽいうねりのような歪みのような、鮮明ではない不明瞭さが磨りガラスと交わっているように見えなくもない。

「……いや、あの、姉ちゃん。たぶん何を指し示しているのかは分かったんだけど、あの妙なうねり? 歪み? みたいなのが、どうかしたの?」

「あれが透明人間の敵だぞ」

 ちらと隣を見れば姉は相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。

「…………ええと、姉ちゃん、丸きり伝わっていない事実って大切だよ? そろそろ寒さに耐えるのも限界だし、いつ透明化が解けるかも分からないし、一目散に自宅へ向かう準備を始めたいんだけど…………」

「あのな、お姉ちゃんだって死ぬほど寒くて凍えそうなのに、透明人間の先輩として必死に威厳を示してるんだぞ?」

「ああ、やっぱり姉ちゃんも寒かったんだ」

「当たり前だろ。当たり前だろ」

「分かったよ、繰り返さなくていいよ。それで? あれが一体、何なのさ」

 よっぽど目を凝らさなければ定かでない微妙な何か、あれがどうして透明人間の敵なのか、今一つ何一つ判然としない。

 姉はうんうんと頷き、あれを指し続ける。

「あれはな、よくないものなんだ」

「……………………」

「……………………」

「えっと、生来の心配性だから聞いちゃうんだけど、それで終わりじゃないよね?」

「え?」

「え?」

 二秒ほど姉と見詰め合ってから上体を屈める。走り始めるには十分な準備が必要で、それが裸足で一目散なら準備だって容易じゃない。

 小石やガラス、空き缶だって目に留めておかなければならない。

「おいおい、弟、ちょっと待て。何で一目散に走り去る準備を? お姉ちゃんは今、透明人間にとって非常に大切な話をしてるんだぞ?」

「うん、分かったよ。とりあえず一目散に自宅へ戻ってから、ゆっくりと聞くよ」

「いやいや、そうじゃなくてだな。あれは透明人間の今しか見えないんだぞ?」

「………………ええっと」

 駆け足直前の体勢を解き、改めて姉の指す先、あやふやな何かを見据える。

「……え、あれって、透明人間じゃないと見えないの?」

「そうだぞ、だから透明人間の敵なんだぞ」

「いや、だったら最初から説明してよ。姉ちゃんの言葉足らずは時間の限られた今だともどかしくて仕方がないよ」

「あのな、姉ちゃんが好きで言葉足らずだと思ってるのか?」

「……………………」

 そういえば今日は空が青かったなと検めれば、隣の姉がぐずりと鼻を鳴らした。姉の泣く直前の仕草は驚くほど分かりやすい。

「ごめん、ごめんよ、悪かったよ。姉ちゃんが言葉足らずなのは今更で、そこを責めるつもりは毛頭ないよ。ただ透明人間でいられる時間も残り僅かかもしれないし、全裸をこの場で披瀝するのは法律的にも問題があるし、とにかく焦ってるんだよ」

「お姉ちゃんだっておんなじ気持ちだぞ。何時だって気持ちは一緒だぞ」

「ああ、うん、言い回しの気持ち悪さは堪えるから、とにかくあれが何で透明人間の敵なのかを速やかに説明してよ」

 家で全裸を見られようと平然としている姉が実は小心者なのは良く知っている。口喧嘩にも至らない上からの物言いを繰り返すだけで段々と弱腰になるのも親しんだもので、眉を八の字にした姉は頻りに視線を右往左往、さ迷わせた。

「いや、だからな、あれが見えるのは透明人間だけで、且つあれは、とっても悪い現象を引き起こすんだ。今だって、見えてるってことは悪い結果に繋がるってことなんだぞ」

「悪い結果? あれが……?」

 じいっと不明瞭な何か、あれに目を凝らす。

 うねりとも歪みとも取れない何かは変わらず磨りガラスと混ざり合っている。それが悪い現象、悪い結果と結びつかずに焦れていれば、唐突に変化が起こった。

 わあ! とか、きゃあ! って悲鳴が聞こえたかと思えば、今まで子供たちの追い回していたボールが吸い込まれるように磨りガラスへ飛んだ。

 果たしてボールが固いのか柔らかいのか、二秒後には分かった。

 ばりん、と軋むような音がして、磨りガラスには満遍なく、くもの巣に似た罅が入った。

 瞬間、時が停止したように感じられたのは僕だけじゃなかったろう。

 夢中に遊んでいただろう小学生と思しき三人も悲鳴の後、黙りこくって一切の動きを見せなかった。

 何となく気持ちは分かる。

 大変なことをしてしまった、それは子供心にも分かるものだ。きっと忘れているだけで、僕も子供の頃、同じような場面に出くわしているんだろう。だから今の停止している子供たちの気持ちが何となく分かるんだろう。

 もどかしさと居た堪れなさを抱えて隣を窺えば、姉はいつの間にやら八の字になっていた眉を戻し、きつめな視線を何かに向けていた。

 何に?

 視線を追えば、それが何かは鮮明で不明瞭だった。

 さっきまで磨りガラスと交わっていた不明瞭が、今は子供の一人、男の子の顔辺りに交わっている。

 男の子の頬はそれのせいで歪んでいた。

「…………ああっと。姉ちゃん、あれ――」

 言葉が終わる前に姉は駆け出した。

 いきなり飛び出すみたく駆け出した姉は驚くほどの速さで僕を取り残し、気付けば既に棒立ちの男の子の傍で、やおらつま先を蹴り上げた。

 姉のつま先が男の子の頬を掠める。

 いくら姉が透明人間だろうと、蹴り上げる勢いは伝わったのだろう、男の子はびくりと体を震わせて身を引いた。

 姉のつま先が捉えたのは、あの何かだ。

 跳ね上げられた何かは中空でぐるぐると回転し、歪みを一層激しくして風景を捻じ曲げ、姉を突き刺すみたく降った。

「あ――」

 力の篭もった姉の声が鮮明に響く。

 姉は片足で器用に一歩背後へ跳ぶと、浮かした右足を思い切り背後へと伸ばし、軸足をぎゅるりと回転させながら体全体を右から左に捻じった。

「――まい!」

 伸ばされた右足は目にも留まらぬ速さで右から左へ、足の甲が空気と一緒に歪んだ何かをひっぱたく。

 ばしん!

 と、音は高らかに鳴り、何かは散り散りになって消えた。

 雲散霧消ってな具合に。

 呆然としているのは僕だけで、子供たち、取り分け頬の先を蹴られた男の子はあたふたといわんばかりに首を振っている。

 何が起こったのか、見えていないからだろう。

 はてさて見えているからこそ呆然としていたのだけど、そんな僕をやっぱり取り残して磨りガラスの戸が横に動いて開く。

 現れたのは中年の、がっしりとした体格の男性だった。サンダル履きの男性は外に出るや罅だらけの磨りガラスをためつすがめつ、それから再度硬直した子供たちに向き直る。

 三人の中の最も姉に近い一人が潔い勢いで頭を下げた。

「ご、ご、ごめんなさい! あ、遊んでたら、ボールが、当たっちゃって! 僕がやりました!」

 果たして、その子がボールを当てたのか、僕は知らない。

 そこまで注意深くボールを追っていなかったし、気付いた時にはボールは吸い込まれるように磨りガラスへ向かっていた。

 されど重要なのは、そういうことじゃなかったらしい。

 中年の男性は困り顔を見せたものの後頭部に手をやり、子供たちを許した。あれやこれやと注意の言葉を発したものの終始穏やかで、子供たちはしゅんと縮こまりながらも、反省を経て解放された。

 距離のせいで一言一句は聞き取れなかったけど、まあ優しさとは切り離した場面で弁償やそれぞれの親の登場もこの先控えてはいるのだろうけど、ともあれ至極静かに、突発的な出来事は一応の終焉を迎えた。

 そして未だ呆然としている僕に姉が歩み寄ってくる。

 もちろん全裸で、なのにどこを隠すでもなく自然な足取りで寄ってきた姉は、相変わらずの皮肉っぽい笑みを携えていた。

「弟、分かったか? これが透明人間の使命だぞ」

 全然分からない。それを口に出来ないでいると、姉が続ける。

「透明人間は悪と戦わなければならない」

 宣伝文句のように、姉はそう言った。


 さて二秒後、三人の小学生と思しき子供たちの目と中年男性の目があからさまなほど僕らに向けられて、それを察した僕と姉の行動は早かった。

 互いに頷き合い、一目散に全力で、自宅へ駆けた。

 姉の方が早く、道中、姉の裸を決死の思いで追っているような格好となり、しばらく立ち直れなかったことは誰にも言えない。

 透明人間ってのは奥が深い。

 僕が想像していたよりも、ずっと。

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