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 物事には順序がある。

 例えば僕が女湯に入りたいと神に祈るような敬虔さで真摯に頭を垂れて祈っても行動には移さない。

 何故なら僕は男だし男が女湯に入ろうとする、その行動にどれだけの障害と困難が待ち受けているかは容易に、まっさらの絵日記に記載する今日の出来事を思い起こすほど簡単に想像ができたからだ。

 では何故、今、長年の夢とも呼ぶべき悪行、しかして絶対に実践できない行動に移ろうとしているのか?

 しかも全裸で。

 いやはや全裸で。

 始まりは先ほどだった。

 冬休みという福音にて自由気ままな起床を迎えた僕は高校生らしく、いやはや年甲斐もなく、やや伸びた髪の寝癖を貪るように掻きながら部屋を出た。

 で、リビングで素っ裸の姉と出くわした。

 一つ上の姉の全裸というのは夢と希望の詰まったマンガならばそれはもう盛り上がる場面かもしれないが、昔から常に一つ上の姉として存在し、一緒に生活をしてきた対象ならば、もはや込み上げるのは怒りしかない。

「……姉ちゃん、いや、姉ちゃん」

 団欒となるテーブルやテレビやソファー、やや雑然としていながらも大きな窓から差し込む日の光が好ましいリビングの真ん中で、全裸の姉は何をするでもない様子、強いて言うならカーテンでも開けた後みたいな平凡さで突っ立っていた。

「ん? どうした、弟」

 姉は平然としたもので、こちらの万感に小首を傾げている。

 さて、ここで一つ回答するならば、僕の万感が怒りの理由は決して美醜にこだわったものではない。いやはや僕はなかなかに平凡で、目の前に美しい裸体と醜い裸体があればもちろん醜い裸体に怒りを覚えるだろうが、姉は決して醜くはなかった。

 むしろ両極端、美醜に分ければ姉は美に含まれるだろう。

 僕より高い背ですらりとしているし、肌は真っ白ってこともないが帰宅部の僕より淡いし、全裸でなくとも凹凸はめりはりを持っているし、何より短めに切り揃えられた髪が似合うってだけで僕にとっては美に属する。

 けれども、だ。

 実の姉が、一緒に生活している姉が、もはや何度遭遇して注意したか分からない全裸を朝っぱらから披瀝すれば、怒りだって万感になるものだ。

「……いやいや、どうした、じゃないよ。姉ちゃんさ、お願いだから全裸はやめてくれないかな。朝から姉ちゃんの全裸に遭遇する弟の気持ちを少しは考えてよ」

「おいおい、弟。いつだって考えるべきは女心だぞ。私だって例外じゃない。むざむざ弟の気持ちなんて考えないぞ」

「自慢げに言い捨てないでよ。そもそも姉ちゃんは例外であるべきだと思うし……って、そこら辺は突き詰めると不安になりそうだから置いておくとして、何か着てよ」

「ふう、仕方がないな」

「妥協したみたいな態度に怒りが込み上げて仕方ないよ」

 こちらの怒りと辟易さに微塵も動じることなく、姉は堂々と自室に消えた。

 出て来た暁には部屋着を披露してくれるんだろうけど、積み重なった怒りでおとなしく待つ気にもなれず冷蔵庫を開ける。冷蔵庫には飲み慣れた牛乳があってすかさず手を伸ばそうとするも、ふと脇の、卵ポケットの隣の姉が占領している置き場に目が届く。

 そこには姉が愛飲している栄養ドリンクが十本ばかし並んでいた。

 長方形でストローが付属している栄養ドリンクはピンクの下地に白文字で彩られており、内容量やら原材料やら、お決まりの文面の他に独自の促進文が付加されている。

『お肌つるつる、体の中から綺麗に!』

 果たして姉の美にこの栄養ドリンクが影響を与えているのかは定かでないものの、何時からか冷蔵庫からこの栄養ドリンクの姿がなくならないくらいに、姉はこのドリンクを愛飲していた。

 ならば飲むしかなかろう。

 小躍りしたい冬休みの朝から姉の全裸と出くわした怒りを発散させる為、並ぶ十本ほどから無造作に一本を手に取り、ストローを引き抜き、銀色の差込口に突き刺し、一気に啜り上げる。

 冷たいという印象しか浮かばない液体はあっという間に喉を通り、栄養ドリンクのパックはぺこりと凹み、ストローの先からはずずっと罅割れた音が鳴った。

 無残な空っぽとなったパックをこれ見よがしにテーブルへと放る。

 これは怒りの発露だ。

 くっくっく、姉の愛飲している栄養ドリンクを飲み干してやったぞ。

 それを伝える為だけに味すら堪能せず、量すら鑑みず、値段すら慮らずに飲み干してしまった。

 ふう、時に生まれる自分の嗜虐性が怖い。

 雨雲が晴れるように怒りを発散させた後の穏やかさは心地良く、さて休日の素晴らしさを謳歌しよう、堪能しよう、昼寝をしておやつを貪って無闇に高額なアイスを食べて一時間くらい風呂に入って寝てやろう。

 即座に生まれた素晴らしい計画は、果たして頓挫した。

 いや、頓挫せざるを得なかった。或いは好んで棄却した。

 何故なら顔を洗いに洗面所へと向かい、目の前の鏡で愛嬌の欠片もない顔を何とはなしに見ようと思ったら、何も映っていなかったのだから。

「……………………」

 驚愕ってのは沈黙に値する。

 鏡はパジャマを鮮明に、同時に僕を不鮮明にしていた。

 あからさまにパジャマがあり、それを着込んでいる人物がいるはずなのに、僕という存在が丸きり映っていない。

 透明人間。

 ふと親しみのない単語が思い浮かび狼狽するも、思わず見下ろせば、両手があった。

「………………ん?」

 両手は確かに見えている。

 見慣れた手がそこにあって安心するも、改めて鏡を見れば、そこに僕はいない。試しに右手で鏡に触れれば、僕の目に右手は見えるも、鏡には映っていない。鏡の質感は得られれど、鏡には映っていない。

 そういえば吸血鬼ってのは鏡に映らないらしいけど、ならば僕は吸血鬼だったろうか。

 いやいや、そんな奇想天外は有り得ない。何故なら今まで僕は何度となく鏡で自身の姿を確認していたし、年相応、生え際を気にして頂を覗いたこともある。

 ならば一体?

 急速に押し寄せてくる不安の正体さえ掴めず殊更に衣服を脱いだのは焦りからだろう。鏡に映らない? その加減を、真実を知りたいが為に、焦って脱いだに違いない。

 そして全裸となった僕は生まれて初めて、早鐘のような心臓で自身を見下ろした。

「……………………」

 うん、まあ、もどかしくも歯痒い体が見下ろせた。

 のぺっとした体というか、特段に筋肉の類を見出せない、小中高と帰宅部を募らせればこうなるよなって体がそこにあって安心した。

 その安心も束の間、鏡に僕は映っていなかった。

 目の前に鏡があり、その鏡には僕以外の全てが反射されている。僕の背後にある風呂の戸さえ、僕を透かして見えている。

 いやはや一体全体、何がどうなっているのか。

 僕は何時から鏡に映らない体質になったのか。もしくは鏡ってのは何時から人体を映さないようになったのか。

 やたらと重たくなった頭に姉の声が届いた。

「弟、要望通りに服を着たぞ」

 その宣言は人としてどうなんだろうという疑問符が浮かびながらも声を発せられなかったのは、一つの可能性を示唆したからに違いない。

 息すら呑まず、足音さえ控え、洗面所を脱した。

 リビングでは姉が灰色のジャージという女子高生の幻想を打ち砕く格好で鎮座していた。

 姉はきょろきょろと、僕を視界に入れながらもきょろきょろと首を回した。

「……んん? おーい、弟。お姉ちゃん、ちゃんと服を着たぞ? この雄姿を認めてもらいたいと切に願ってるぞ?」

 まさか衣服をまとうことに雄姿が顕在するとは夢にも思わなかった。

 いや、いやいや、それどころではない圧倒的な現実を直視しなければならない。

 姉は僕が見えていない。

 見下ろせばあっけらかんとした裸体があるのに、姉には見えていない。

 透明人間?

 不鮮明な単語が明瞭さを帯びれば、一つの夢が浮上する。

 女湯に入ろう!

 僕は女湯に入れない。それは承知しているし、無理を通せば道理が覆るはずもなく、如何ともし難い事態に発展するのは目に見えている。

 されど僕が透明人間であれば、どうだろう?

 もはや姉に僕が見えていないのは自明の理で、姉は変わらずきょろきょろし、僕の部屋を勝手に覗くという暴挙に出て、挙句に僕という存在を探して歩き回っている。

 僕は見えていない。

 姉が僕の脇を通り過ぎる際、僕の感嘆の吐息に反応したのは息さえ止まったが、密やかに壁に張り付けば僕を見つけることは出来なかった。

 さて……これが姉の仕掛けている冗談、或いは悪ふざけという可能性を考慮しないでもないが、いくら姉でも鏡に映らなくする手品めいた手法は持っていないだろう。念の為、こっそりと自室に戻って部屋の姿見、手鏡でも確認するけど僕の姿は映らない。

 いける! これは夢叶う!

 渾身のガッツポーズ(全裸)が鏡に映らなくて本当に良かったと思う反面、僕の目にはしっかりと裸の僕自身が見下ろせてしまうので悲しくなった。

 とまれ、行こう。

 夢を叶える第一歩、未だ執念深く目を皿にして僕を探す姉を素通りし、姉が自室にまで探索を広めた瞬間、そそくさと玄関の戸を開けて外に出る。

 本来なら鍵や財布やカメラやビデオやスケッチブックやICレコーダーや、ありとあらゆる準備を整えてから踏み出したかったが、如何せん、透明なのは僕だけだ。衣服はきっちりと鏡に映っていたし、手鏡を持って姿見の前に立てば手鏡が浮いているように見えた。

 何も持ってはいけない。

 靴すら履けない。

 さて、クリスマスが程近い外の世界は薄暗く、果たして彼女という存在を概念でしか知らない僕の心模様みたいではあったのだけど、そういった心象風景じみた感慨が吹っ飛ぶほどに寒かった。

 明け方に雨でも降ったのか、アスファルトには溶けた霙みたいなものが散乱しているし、普段ならスカートへの期待感が高まる風は素肌に突き刺さるようだし、数秒でかたかたと歯が鳴り始めるし、人生において挫折と妥協も必要だよなと思わせる冬の塩梅をしこたまに痛感させられた。

 されど束の間、向かいの家の戸が開いて見たことだけはあるおばさん、もとい恰幅の良い中年女性が現れ、真向かいに突っ立つ素っ裸の僕をちらりとも気にせず歩いて消えたことで情熱の炎が灯る。

 今、僕は明らかに透明人間になっている。

 どうしてとか何でとか、そういった疑問符は一先ず封じ込めて小走りに向かう。

 どこへ? 無論、女湯へ。

 僕の住む町は何でも寄せ集めてみましたといった具合に雑然としていて、スーパーやらコンビニはもちろん、図書館やデパートやスポーツジムや学校や、とにもかくにも寄せ集められており、当然のように銭湯さえ団地の近くに建っている。

 まあ、銭湯といったところで古びたアパートより小さな建物で、その古びたアパートより低いんじゃないかと思われる煙突と出入り口の暖簾のみが銭湯っぽい、子供の頃しか利用したことのない、いつ閉店したっておかしくない所なのだけど、まさか高校生になって心さえ躍らせながら小走りに向かうことになるとは夢にも思わなかった。

 車の通行も出来ない小道を曲がりに曲がって何度か歩いている人を密やかにやり過ごし、何事も無く、それはつまり夢の達成が間近という証明なのだけど、ともあれ驚くほど平然と銭湯に到着した。

 古びたアパートの隣に建つ小さな銭湯は二メートルくらいの塀でコの字に囲まれていて、空いた一辺は出入り口、青い暖簾と赤い暖簾に隠された二つの出入り口があり、出入り口の傍には朽ちて崩れそうな長方形にくりぬいただけみたいな木の腰掛けと、その隣には微かな営業努力らしき自動販売機が設置されている。

 もはや足の裏の感触が失われて久しいものの、銭湯の前に立つと俄然奮えた。

 長年の夢が赤い暖簾の向こうの戸を開けることで叶う。

 それももちろんながら、二人の女の子が傍らの腰掛けでジュースを飲んでおり、その二人がこれから銭湯に入るのではないかという期待感で何より奮えた。

 二人の女の子。

 二人とも僕と同い年くらいだろう。私服なので親近感はないものの、制服だったら同じクラスにいても不思議でないと胸をときめかせたに違いない。

 で、その二人がこれから銭湯に入るのか否か。

 肌の具合や髪の質感などで判断がつくかと思ったが、痛感する寒さのせいか、耳や頬はやや赤らんでいるし、髪の毛は女子の特権なのかしっとりと濡れているようだし、果たして何とも言えない。

 仕方無しに通り過ぎて夢の戸を開けに行かなかったのは、二人が共に可愛かったせいだ。

 もし二人がこれから銭湯に入るのなら是が非でも一緒に入りたいと強く思わせる程に、とても可愛かったせいだろう。

 一人は黒髪ロングの清楚系、両手で紅茶の缶を包んでいるのが絶妙に可愛らしい。

 もう一人は黒髪のざんばら、ややきつめの面立ちながら黒縁眼鏡にジーンズ、片手でブラックの缶コーヒーを持っている姿が被虐心をそそられるくらいに可愛らしい。

 この二人が揃って赤色の暖簾を超えて番台に料金を支払い、カゴの中に纏っているものを積み重ねていくのなら、寒波さえ耐え忍び、暫し息を潜めて二人の傍に立つくらい、取り立てて努力さえ要らない。

 これからなのか、出た後なのか。

 それとも単にベンチとも呼び難い腰掛けで休憩しているだけなのか、おもむろに銭湯にでも入ろうかという提案が出てくるのか。

 二人は並んで座り、視線は僕を透かして向かいの家の塀の上辺りに固定されている。

 何を話すのか、固唾を呑んで見守っていたら黒髪ロングが一つ息を吐いた。

「そういえばUMAって何の略か知ってる?」

「……………………」

 ざんばらは数秒ほど置いて黒々とした瞳だけを隣に向けた。

「いや、知らん。世の女子高生のおよそ九割が知らないと信じたいが……」

「略についてはそうかもね。まあ、簡単に言っちゃえば未確認動物、存在しているのか確証が持てない動物のことなんだよ」

「……ああ、うん。そうか。世の女子高生のおよそ一割に入ってしまったのが残念で仕方ないが……この寒空の下、一時の休憩に級友が何を言い始めたのか不安で仕方が無いが……そうか、未確認動物をUMAと呼ぶのか」

「ネス湖のネッシーとかね。知ってる? ネッシー」

「…………聞いたことはあるような気がしないでもない。何しろ一般的な一女子高生に過ぎないので、たゆたっている聞きかじりの知識しか持ち及んでいないのだ」

 黒髪ロングが口元に笑みを浮かべ、紅茶を一口飲み下す。吐いた息は寒さだけではない白さでけぶった。

「そっかそっか、聞いたことがあるようなないような、知っているような知らないような、さながら性的知識みたいなあやふやさってわけね」

 と、唐突な性的知識に反応したのか、ざんばらがやたらときつめな表情で僕を透かした虚空を見据え、慎重そうに息を吐く。

「…………ふむ、あながち間違いではない。私も一女子高生、学校にて様々な性的知識を聞き及んではいるが、果たして全てが事実なのか、或いは全てが虚偽なのか、考えに考えても不鮮明さは揺るがない」

 そ、そういうものなんだ。そういうものなんだ……! などと無性に胸が高鳴るのはさておき、黒髪ロングはうんうんと頷いている。

「だよねー、そうだよねー。聞き及ぶ話の何もかもがあやふやだよねー。UMAもそうなんだよ。あやふやで、本当なのかどうか、さっぱり分からないんだよ」

「そうか……UMAと性的知識にそのようなつながりがあったとは、いやはや知らないことは多いものだ」

 まさか女子高生と思しき女の子二人が銭湯の前でこんな話をしているなんて、いやはや知らないことは多いものだ。

 うんうんと頷いていたら、ざんばらがまたも瞳だけを隣に向ける。

「……して、関連性の発見は置き、そのUMAが何なんだ?」

 きつめの視線を受け止めるでもなく透けた僕の向こうばかりを見つめる黒髪ロングは、やや気の抜けた、緩めた表情で唇の端をぺろりと舐める。

「先日のことなんだけど、道端でぺしゃんこになっている鳥さんを見たんだよ」

「……そうか。ぺしゃんこになったことは大変居た堪れないが、アスファルトばかりの道端に降りていたのなら致し方ないのかもしれんな」

「まあねー、これまで生きてきてぺしゃんこになっている小動物を何度見たのかは覚えていない、それくらいに多い不幸な事故だよね」

 ふと、頭の奥にぺしゃんこの鳩が思い浮かんだ。

 誰だって一度は見たことがあるに違いない。何しろ今まで頑なに帰宅部を貫いている僕でさえ、連鎖的にぺしゃんこの鳩が思い浮かぶくらいだ。

 ざんばらも同じ思いなのか、細めの目を尚も細め、睫毛で瞳のほとんどを隠した。

「でもねえ、今まで何度かは見た覚えのあるぺしゃんこの小動物と違って印象深かったのは、私が見たそのぺしゃんこの鳥さんは、車が入れない小道でのことだったんだよ」

 へえ、それは確かに印象深い、というより興味深い。

 まさか全裸で女子高生と思しき二人の前で関心を受けるとは思いもしなかったが、今まで僕が見たことのあるぺしゃんこは大通り、車が通る所ばかりだったので、いやはや何に轢かれたのか、思わず身を乗り出してしまった。

 そうして気付く。

 黒髪ロングがえくぼを作るほどに笑みを浮かべていること、ざんばらが唇の隙間から覗く真っ白の歯を噛み締めていることに。

 …………ん? 二人の女子高生と思しき女の子が銭湯に入るか否か、その可能性をちらつかせながら和気藹々と性的知識など踏まえつつ談笑しているわけじゃないのかな?

 この二人、お互いに何か意図するものを持っているのか?

 距離を縮めることで不穏な気配を感じ、寒さとは別の感覚で首の後ろがちりちりする。

「…………何が言いたいのだ?」

 ざんばらが問えば黒髪ロングの笑みが濃くなる。

「いやー、何ってわけじゃないんだけどさ。車も通らない小道で、一体全体、鳥さんは何にぺしゃんこにされたのかなと思ってさ」

 そこは僕も気になる点だ。

 けれどざんばらが、その気になる点をひどく警戒しているような、そんな気配を感じる。

「例えばUMAが、未確認動物が存在しているとして、そんな動物が小道を歩いていたら鳥さんをぺしゃんこにしちゃったなんて……あるのかなーって、ふと思ったんだよ」

 どんよりとした空を見るにはやたらと好戦的、或いは挑戦的な黒髪ロングとは違い、ざんばらの表情には真剣さしかない。一体全体、この対話のどこに真剣さを差し挟む余地があるのか、甚だ疑問しかないのにざんばらの切迫さが伝わってくる。

 同時に深い絶望があるのは致し方ない。

 何故ならば。

 いや、もう、この二人、絶対に銭湯には入らないだろう。

 銭湯が間近にあって僕は透明人間でこの二人が銭湯に入ったならば意気揚々と、気分も高らかに夢の果てへ到達できるのに、その気配が微塵も感じられないどころか、その可能性はゼロだろうって突き付けられれば絶望しかない。

 すっかり意気消沈した、見下ろせば鏡には映らなくとも直視できる現実問題はさておき、この二人の関係性は何だか妙に興味深い。

 涼やかな清楚さを醸す女子と、荒く穏やかじゃない女子。

 その二人が交わす会話は、おかしさを内在している。

 気になる。

 この二人が、その会話が、妙に惹き付けられる何かを発している。

 続きを所望する熱心さが伝わったのかと思うくらいにすんなりと、ざんばらが深く深く、呆れた様子の息を吐いた。

 その吐息が熱っぽかったのは距離感に他ならないが、さておき。

「例えばUMAが鳥さんをぺしゃんこにしたとして、それがどうしたんだ? 巷の女子高生の会話として、発展性は無く、雲散霧消する他愛無さってことでいいのか?」

 取り留めの無い会話って結論に帰結?

 ざんばらの提案とは裏腹に、黒髪ロングが笑みを更に、更に濃くする。いやはや内心を発露する残虐性すら感じさせる笑み、その表情にぞくりとした。

「さあ、どうなんだろうねえ。私が思うにUMAってのは存在している可能性もあって、その可能性の延長線上として、鳥さんがUMAにぺしゃんこにされる事象ってのもあるかもしれないなあって、それを伝えたいんだよ」

 未確認動物が存在する?

 それを伝えているだけなのに、何でざんばらは目に見えるほど、分かりやすいほどに切迫感を発露しているんだろう。

 あたかも自分がUMAであるかのように。

「……………………」

 さながら、そういう可能性もあるのか?

 黒髪ロングはざんばらがUMAで、鳥さんをぺしゃんこにした張本人で、それを示唆されているからこそざんばらは切迫感を発露している?

 段々と妄想が膨らむのは僕の悪い癖かもしれない。

 普段から彼女という概念を妄想で補っているせいで、その期間が長々と続いているせいで、ついついネタになりそうなものを取り込んで妄想に発展してしまう。

 そう、今も、もしもざんばらがUMAならば、ちょいときつめではありそうだけど可愛らしい女の子がUMAならば、そしてUMAが彼女になったとしたならば、どうなることやらと妄想が広がって仕方が無い。

 UMAであるざんばらを彼女にした日々の夢想に浸ること幾星霜、不意に黒髪ロングが彼方を見据えたままに笑った。

 くっくっく、と含み笑いを堪え切れないように。

「いやいや、冗談だよ。ちょっとさ、面白そうな可能性を考えてたの。有り得ないような可能性をね」

 黒髪ロングが顎を引いて笑う。

 ざんばらは隣にやたらときつそうな、もはや睨みつけるような目を向けたまま、静かにゆっくりと瞬きをする。

 これで終わり、そう言わんばかりに黒髪ロングが立ち上がった。

「さーて、談笑もそろそろね」

 途端、僕の心臓が高鳴り目を見開いたのは次の動向への期待感からだ。

 黒髪ロングは鮮やかな髪を翻し――暖簾に背を向けた。

 同時に僕の肩が鉄骨を背負ったように重たくなり、その重さに拍車を掛けるみたく、清廉さだけを残して黒髪ロングは歩き出した。

「じゃ、またねー」

 すこぶる残念で、もはや無念と言っても憚りない。

 黒髪ロングは軽い調子と足取りで銭湯の塀に沿って歩き、姿を消した。

 まさか黒髪ロングの方だけが銭湯を出たところで、ざんばらはこれから、その可能性を直向きに信じられるほど夢見がちではない。

 小さく溜息を吐きながら残ったざんばらに視線を落とす。

 気圧されたのは致し方なく、ざんばらは音さえ聞こえそうな力強さで歯噛みしており、あたかも仇を追うような目をしていた。

 眉間や鼻筋に皺を寄せてまで怒りを示す女子高生なんて初めて目の当たりにした。

 はてさて、とにもかくにも僕は傍観者に過ぎない。黒髪ロングにもざんばらにも僕は見えていないし、会話は聞いているだけで、発言権はもちろんない。

 黒髪ロングとざんばらの関係性に興味を持とうと、ざんばらの怒りを真に受けようと、僕は傍観者としてさようなら、二人のことは胸に留めつつ女湯に入らなければならない。

 何故なら僕は透明人間、透明人間ってのは女湯を目指すものだから。

 で、ざんばらの怒りの発露を振り払って女湯の暖簾に目を移したところで可愛らしい音が聞こえて振り返る。

「……くちゅっ」

 それはくしゃみの音で、音の方向からざんばらが発したもので、踏み出そうとした足を留めて振り返らせたのはざんばらへの興味に他ならない。

 そして僕はまざまざと見せ付けられる。

 やはりくしゃみをしたのはざんばらで、上体を屈めており、両手で口元を覆っていない姿が何だか自然体で可愛らしいのは良かったのだけど、くしゃみの声の後、丁度振り返った時、ばふぉっ、と炎が吐き出された。

 ざんばらの口から赤々と、炎が。

 やや斜め前に立っていて本当に良かった。そうでなかったら、例えばざんばらの正面に立っていたなら、炎を足元から浴びせられていた。

 斜め前に立っていてすら肌がちりつき、思わず顔をしかめたほどの熱を、炎の熱さを、まともに受け止めるところだった。

 地面に吐き出された炎は二秒ほどで、ざんばらの頭の高さくらいまで伸び上がってから消えた。

 硬直する僕とは裏腹に、ざんばらは鼻を啜ってから手の甲で鼻元を拭う。

「……っと、あぶねーあぶねー」

 先ほどまでの話し方とは一変、不敵ささえ感じられる口調で続ける。

「しっかし……あいつ、どこまで本気だったんだ……? もし全てが本気だったら、その時は…………」

 細められた目が光っているように見えたのは錯覚か、或いは炎の残滓が影響したのか。

 ざんばらの細められた目が泳ぐように僕の辺りをたゆたう。

 ……ん? 僕の辺りを?

「…………あん? …………何だ?」

 ざんばらは尚も目を細め、僕の辺りを、視線の高さから否応なしに僕の腰の辺りを窺っている。

 この反応は、もしや。

 考えなかったわけじゃない。どんなものにも終わりはあるのだから、透明になったからといって、元に戻るのだろうなとは考えていた。

 だがしかし、もしや、今?

 見下ろせば変わらぬ裸身があり、それが誰かに見えているのかどうかは分からない。辺りを窺えど鏡らしき反射板は見当たらず、取り分け可能ならばざんばらの瞳を覗き込みたいが、そんな危険は冒せない。

 何故ならば今、ざんばらはあからさまに僕という存在を捉えようとしている。

 まだ焦点こそ合っていないが、微妙に体を動かせば、ざんばらの瞳が追跡してくる。

 やばい!

 全身からどっと汗が噴き出す。

 今、ここで透明の効力が失せたのなら、二秒後には高らかな悲鳴が奏でられ、二分後には警察或いはざんばらに取り押さえられ、二十分後には警察署へ連れ込まれ、二時間後には絶望を享受しながらさめざめと泣いているはずだ。

 ごめんなさい、魔が差したんです、透明人間になったものだから、ちょっと女湯に入ってみたくて…………。

 そうならないように――逃げろ!


 というわけで脱兎の如く、足音など微塵も憚らず、五十メートル走でさえ加減して走る僕は人生で初めて全力というものを振り絞った。

 いや、振り切ったといっても過言ではない。

 道程さえ記憶に残っていないものの、玄関の戸を閉めて明滅する頭と視界を煩わしく思いながら必死に酸素を貪っていると、姉の盛大な笑い声が聞こえた。

「あひゃひゃひゃひゃ! お、弟、弟! どうした! いっつもお姉ちゃんの全裸を注意するいたいけな弟はどうしちゃったのさ! ま、まさかの全裸! 対抗!? お姉ちゃんの全裸に対抗してるのかな!? わあ、びっくりだよ! お姉ちゃん、びっくりだよ!」

 けたたましく続く笑い声も合わさり全身は真っ赤に染まり、肩口からは湯気が立ち上るのを感じたものの、重要な点は十分に理解していた。

 僕は既に透明人間じゃないし、幸い、逃げ切れたのだと。

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