51.
「代われ」
至近距離で人の顔、見たことある? そう、キスできるような近さで。肌色だよね、感想。それ以外に、なにも考えられない。
唖然茫然思考停止、の私を誰も気づかうでもなく、ケルンがユーリの頭を押しやった。ちゅぽん、と音がする。……ちちちちちゅ、ちゅ?! なんの音、や、ヤメロ馬鹿、考えるな! 考えるんじゃない!!
「愛し子よ。息をしろ。哀れな小娘」
感じるんだ。
…………はぁぁぁぁぁ? なになになに、なんなのよ。
ユーリが蹴りはがされたあと、私の背中を軽くたたいたケルンはそうして、私に息を取り戻させた。はい。自覚してませんでしたが息をしておりませんでしたのわたくし。なに、死ぬつもりだったわけじゃなくてよ? あまりの驚きで息することを忘れてたっていうか。
へなへなと抜かした腰をすくいあげて、人型に戻ってたケルンが顔を近付けてくる。必死でハフハフ息を吸っても、知らなかったけど、これだけパニックしてるとね、空気って肺に入ってこないんだよ。口の中だけで酸素が回ってるの。呼気が、気道に行かない。
生理的な涙がこみ上げる。ケルンがもう一度、哀れな小娘、と言った。それから落とされるキス。肺に、無理やりケルンからの空気を吹き込まれた。意識がある間の人工呼吸、ダメ、絶対。理由を知ったね。知らなくていい情報はこんなところにも。マンマミーア。
苦しくて咳き込んでも、ケルンの体は離れていかなかった。抜けてる腰の状態をして咳き込むとどうなるか想像できる? 鼻水も涙も出てきてて、もう、こんなのでもヒロインもどきなの? ちょ、扱いがかわいそうくない?
立っていられなくなった私の顔を追いかけて、ケルンもしゃがみこむ。汚い分泌物(ごめん、これくらいにさせといてくれ)を垂れ流してる顔を舐めて、頬を舐めて、舌を突っ込んでくる。拷問なの?
とにかく今は、呼吸が先だと必死で私が酸素を取り込もうとしてるうちに、ケルンが横にふっ飛んだ。代わりにそっと、優しい手つきが汚れまくってる顔を拭きとってくれる。涙でにじみまくってる視界を無理にクリアにして、ちょい休憩、待った、のつもりで手を挙げた。……もちろん、もちろん、無言のままに訴えは叩き落とされて指を絡められた。ブックロゥからキスをされる。体力ゲージ的にすでに赤なことを見越されたのか、舌は入れられたけどしつこくはなかった。
けど、そっから追加で2人だよ。
想像は、ああ、そりゃそうさ、できたけどね! 畜生、兄さんたちったらぁ?! 扱いの改善を求めていいんじゃねぇの? コレ。
っつか、ああ、ああもう、そりゃそうですよね。好きって言われてたもんね?! だからってアンタたちまで私の意志を無視かよ! どんだけ好きでも、無理くりのチューに意味あんの?! ねぇ!!
ぶっちゃけると酸素不足で吐きそう。ようやく引いた保護者達の代わりにミハルが私の肩を抱える。顔色を伺われないように下を向いた目を覆われ、転移させられた。
…………風が吹いた瞬間に匂った血なまぐささは、うん、そういうことなんだろう。
屋敷に戻されたあとは風呂に入れられる。ミハルは当然のように私を一人にしてくれなくて、ぼろぼろとこぼれる涙を舐めとっては、ただ無言で、何度も私を抱きしめた。裸ですよ。
ミハルの、すっごく気持ち良くて肌触りのいい体が、全身で私を腕の中に閉じ込める。ちょ、ちょーーーっと日本人としては距離が近すぎると思うけどね。抗う気力もない。
泣き止んだあとは逆上せる前にって頭を洗ってくれて、お湯に濡れてもまだふわっふわなタオルでどこまでもやんわりと体も洗われた。頬、首、鎖骨。指の間に至るまで、丁寧に。
「……ち、ちゅーされちゃった」
「……ああ」
「したこと、なかったの……」
ぴくり。ミハルをして動揺を飲み込めなかったのか、抱き込められてる肩が揺れた。いわく言い難い呻き声が断続して漏れる。うぅ。ほんと、どうしよう。
「ミ、ミハルがね、してくれてたのが、一番近い……その、キ、ちゅーで」
「要? きちゅーとは何だ? 文脈からすると、お前、まさか」
「キ……キスとかしたことなかったって言ってんのさ…………。は、はははは」
洗い場で私、なんで人生の大告白なんてしてるんだろう。人生、どこに落とし穴があるかわかんない。まさか大学卒業迎えてキスしたことのない女がいるとか、想像もできない人たちしかここにはいない。恥ずかしいのかうろたえるべきなのか、感じるべき感情すら選択できない。
……そ、うか…………。と打ちのめされたようなミハルが、私の手を取って立ち上がった。ふらふらしてる私に、少しの間でいいから一人で立てよ? なんて念を押して一歩下がる。
「済まなかった。要。本当に、済まないことをした」
私の目を覗き込んだミハルが、どこまでもストレートに謝罪した。ゆっくりと瞬きをし、真剣なことこの上ない表情で済まない、と繰り返す。
ああ、これが龍の土下座スタイルなんだ。
すとんと納得がお腹の中に落ちた。漫画とか小説で見たものよりも、それは真摯だった。きっと彼ら龍には頭を下げる習慣がない。けれど謝罪の形式がないわけじゃないんだ。
だって、ミハルが他の誰かにこんなに真剣な目を向けたことがない。私の知ってる限り、これだけ熱い視線で焼かれるような感じは伴侶関係の時にだけだ。
つまりそれは、ミハルにとってすっごく重たくて、心の底から思ってるってこと。
ごめんなさいって。
「…………ちゅー、もどきを、してたこと?」
「どういう意味だ?」
「ミハルが、今、ごめんなさいしてるのは、私に、その、キスまがいのことをしてた、から?」
「あぁ、そういう……。いや、まったく違う」
……は? なんなのミハル、その清々しい顔。
「初めての唇なら、是非にも私が欲しかったがな。まぁそれはいい。ユーリとてその資格はあろう。いいや、そうじゃないんだ要。私が頭を下げた理由は、お前の初めてのキスがつまり、あの下種な人間の雄だったことだ。配慮なんぞせず、保護者の誰ぞにゆずってやってればよかったのだと、それを」
「謝る意味、違いすぎじゃねぇ?!」
驚きすぎて一歩引く。お約束のようにふらついたので、ミハルが素早く助けてくれた。いやいやいやいやミハル? 私、裸。あなた、裸。わかるかな?
っつか、っつかなんじゃそら。貴重な乙女の初キスを、まがいもどきに何度も奪ってたことに対する謝罪かと思いきやですよ相談室長。なんなの、まさかの『もっと早くにちゅーしとけばここで私がショックを受けなかっただろうに』って後悔の謝罪なのかよ! 状況判断が回りくどくて、私が自分の思考にイライラしそう。
洗い場の床でミハルの手を振り払おうとするのは自殺行為だ。げんなりと脱衣所に足を向けた。にこにこしているミハルがあったり前だって顔をして私を拭き上げる。どれだけいやがってても続けられる習慣に、先に折れちゃったことの内の一つだ。
少しだけ水の残る素肌に一番下の下穿き、パンツもどきを穿く。上も。それからミハルが、私を椅子に座らせて水とかジュースをくれながら自分の身仕舞をしあげる。しれっとここで脱衣所を出たりしたら大変な目に合う。ほんと、あの時は大変に叱られましたよ。屋敷の中にいる全員からね。
見せてもいいステテコにキャミソール。ブラもどきもしてるんだから、別にいいじゃんねぇ? まあね、同意を求めようとも思ないけどね。あの剣幕なんだもん。もうしない。人生初で、はしたないとか怒られたらそりゃへこむよ。女子力だよ。恥じらいを持てとか言われりゃね、反省もする。
ミハルが選んでくれた服は薄物が何枚か重なってるような感じ。風呂上がりだしきっちりと留めずに、ややだらしない格好で居間に戻る。と。
うぉ? なに? なんなの?
ミハルが、何事もなかったような顔で私をソファへと運ぶ。足がすくんだっていうか、止まった私を抱え上げて。兄さんたちは跪いていて、ユーリとケルンがまっすぐに立ってるソファの前に下ろしてくれた。
「「済まなかった。我を、忘れた」」
「「「済みませんでした。頭に血が上りました」」」
…………ねぇこれ、やっぱりさっきのミハルと同じような理由で謝ってきてるんだと思う?
……ふぅ。なにはともあれ、総勢五人からここまで丁寧なごめんなさいを言われてまで張る意地なんて、さすがにない。うん、と一人一人に目を合わせてから頷くことで謝罪を受け入れてみました。ちなみに前の台詞がライとケルンで、後ろのがブックロゥとトールとユーリね。
もうね、なんていうか、その、つまりアレだ。お風呂場で言ってたこと、どうやってか保護者達に知られてるっぽいんだけど侍従長。だって初めてがどうとか言ってるよ。僕が最初に……って何の呟きなのユーリ。考えたくないよ? あーもー、恥ずかしくてがっかり。高校生くらいならともかく、大学卒業してこの男性経験のなさだよ。いっそ謝るのはこっちだよ。
「えっとね、あの」
言い淀んでるうちにミハルが私をソファにすくいあげる。手持無沙汰なのを見透かされてる。ミハルは自分の手を私の手の中に挿し込んできて、私の指で遊び始めた。ん、もう。難しくしすぎるなって意味だよね。これ。
「私は、その、えっと、いっぱい距離的に近づいていいのかって、先に、私に、聞いてほしかったかな」
「……それはキスのことでいいんですよね? 本当に、すいませんでした、ナーナ。けれど、今までしたことの匂いが純粋で無垢なあなたの口からしたんです。かっとなって、ナーナの気持ちを後回しにせざるを得ませんでした」
…………うん? つまりなにかねユーリくん。キミ、もしかして反省してないでしょ。
「ケルンもユーリも、その手のことで外しそうにない奴らが、お前から他のオスの匂いがすると言ったんだぞ? 大人げなくかっときたのは悪かった。だが、二度とやらんとは言わん」
…………い、いさぎいいのは、大人の証拠、…………なのかな。ライ。
みんなはまだ、ソファの前から微塵も動かない。許されたとしても手前勝手に動かないだけのことはした。そういう自覚? それだけの重いこと? うん、それはそう。
許したくはなかった。けど、感情の方ではもう、許してたみたいだ。恋愛に関することは私にはわからない。だからだろう。
「あのおっさんは、口をふさぐのに自分の口を使っただけだよ。待った。言わせて? あのね、好き好んでされたとか、嫌じゃなかったとか言うつもりはない。けど、万が一みんなして誤解してたらイヤだ。ほっぺにちゅー、くらいの重さだったんだよ。おっさんにとってはね」
出来るだけ軽く説明すると、ぎゅって握りんこんでしまってたミハルの手を離す。それはすぐに私の指を追いかけてきて絡まった。安心させるように。
「あの人が何をしたかったのか、それはわかんない。聞く前にみんなを呼んじゃったから。……そだ、おっさん、あの時『ここは閉じてる空間』みたいなこと言ってたけど。呼んでよかったんだよね?」
んーで、そろそろみんな、楽な姿勢になってくれるかな。言葉を重ねると、人外と兄さんたちはどっかりと椅子に座り込んだ。げっそりした顔で頷いてる。大丈夫だったらしい。
「無理しなかった?」
「あちらに転移するのに、ですか? いいえ、カナ。風龍と火龍は、どちらかというと力を制御する方に注意を割いてましたよ。私たちも」
「一息で息の根を止めようとしてたライを止めたの、僕だよカナ。褒めてくれる?」
「俺はむしろ、全身血まみれのあの状態で海に落とすことを提案するブックロゥの方が怖いが。いっそ死んだ方が楽だったろうに」
「ああ、だから我が適当な頃合を見計らって上げておいた。今頃は飼い主の前で命乞いむなしく、と言ったあたりだろう。不穏な関係者も洗いだせたし、我としては今回の収穫は大きい」
「「ケルン?」」
名前を呼んだのは、私とユーリで同時だった。ミハル? うん、私の髪の毛を梳くのに忙しいよ。
「カナ。我とユーリは時折、扉を壊していた。これは知ってるか」
「う、ん……。そうなのかな、程度だけど」
「そうか。それでもお前は壊れなかったのだな……。ならば説明しよう」
※人生初めてのチューがこんな顛末でいいのか要ちゃん……。
そして軽く流しすぎだよ……。
もっとこう、危機感を持てよ。イロイロなことに。




