34.
つんとした匂いが鼻を刺す。甘さの腐った臭いって真面目にキツイよねぇ。腐敗臭も苦手だけどさぁ。こーゆーの、あんま経験がないしさぁ。ぶっちゃけると初体験だよ。
はつ・たい・けん。
テンションが行方不明。上げていいのかクールでいたいのかイマイチ不明。
ぶつ切りな自己分析が脳内に響く中、私はミハルの肩をそっと押しやる。視界がクリアになった。ぐるりを見渡す。
…………うん。ねぇわ。やっぱ、アレはねぇわ。
目の中にはライ、トール、ユーリの無表情も入ってくる。目の端にブックロゥの仏頂面。ケルンは表情がわからない。だけどどことなくほっとしてるようだ。私が帰ってきたから、だろうな。
鍵、かぁ。バルトの台詞じゃないけど、ほんと、罪が深いよ。
しがみついていたミハルが完全に離れたのをきっかけにして足を踏み出す。実は、ほんのちょっとだけ竦んでたらどうしようかとか思ってたんだけど。ほら、動けないとかかっこ悪いでしょ? 口先だけかよ、みたいな。
カナ、ナーナ、とみんなの口がそれぞれに動く。それで、馬鹿みたいに勇気が出てきた。転じればそこにはリアルモル○ル。もうさぁ、どうしてそっちに変形しちゃったのよ君は。
……あ、そっか。そういう、ことか。
アレがどうしたいのか、どうして『そんなんに』なっちゃったのか、それをまずは聞けばいいんだ。
すとん、と感情が落ち着いた。耳障りな音を立ててネギ坊主の触手が伸びてくる。ユーリの結界は対象を閉じ込める系統だったみたいだ。ちり、と何かにはじかれては触手がひるむ。焦るように苛立たしいように、花の部分から紫色の汁が垂れた。…………おいおいこの期に及んでハードル上げてくるとか。マジなにそれ鬼畜。
こっちから手を伸ばす。ユーリの結界は私に悪さをしない。ミハルの時と同じような絶対的信頼がある。予想どおり、するりと触手に触れられた。ぬるりとした感触。ぬめぬめして、生理的に吐き気がこみ上げてくる。微かに焼かれるような痛みは酸でも出してるからだろうか。後で見てもらおう。やだ、赤くなっちゃうかも。
必死で考えをよそにずらす。気を抜けば足で茎を蹴り上げそうだった。いやいやいやいや無理でしょ。こんなアレな外見でこの匂い。なんなの私の敵なの。いや敵だ。
敵じゃない。
一歩を植物の方に踏み込む。ネギ坊主の花の一部がぱっかりと開いた。ガチか。これは怖いわ。おっおー。
私の無駄な意地っ張りもそこまでだった。顔全体を開口部が覆ってくる。粘液まで出すとかエロゲ仕様も入れてきましたかこの展開。……あ? 何かのゲーム、小説だと思ってたんだけどまさか、まさかのエロ小説だった落ちはあるの? 委員長。
待て。待て待てエロゲならそれなりの対応を求む。
どーっしよーもないそんな思考を最後にして。
私の意識は、ふつりとソコで途絶えた。
なんかねぇ、昔、ちっちゃくなってサボテンの中に入るって展開の漫画を読んだことがあるのね私。植物の構造を知ろう! 的な学習材料だったと思う。
何が言いたいかって、つまりその中で形容されてた環境と、今と、なんていうか似てるなぁって。想像でしかないはずの植物の中なのに漫画で描かれていた風景とそこまで変わらない。サボテンの中身はアロエみたいなもんだとぼんやり思ってたのに。すごいなぁ。くっきりと導管が通ってるもんなんだ。茎って。や、葉っぱか? でもあのかわいくない百日草には広い葉っぱはなかったよな? 私、あの外見のどこにいるんだろう。
ぬるぬるとぐちぐちと、ひっきりなしに音がする。っつか、本気で身動きが出来ない。足がずぶずぶって埋まっていって、かなり固定力の強いゼリーの中を無理やり歩こうとしてる感覚。
ふと思いついて無理に動こうとするのを止めてみた。だって勝手に動くんだもの。逆らってたけど……あ、ダメだ。やっぱり自力で移動だ。
くぅ、とため息をついて、なんとかして足を引き抜いた。どこまでも感覚だけの話だけどね。視界は全面が濃い寒天。の中にいる感じ。
そう、うっすーーーい灰色で、やっわらかいけど固体の中で目を開けてるようなの。自分で説明してても、呆れるほどありえない光景。
黙ってると明るい方、つまり茎の外側に追いやられることがわかったから、必死になって内側、暗い方へと歩いてみる。うぅ、これでこの考え方が間違ってたら笑える。押し出そうとするこの動きには逆らわない方が正解なのか? どうなのよ、その辺。室次長。
○△※× KPWKGOKE;G
そもそも、嘆きを聞くって、取るってどういう意味なの。私は優しくも慈悲深くもなければ性格もお人よしじゃないんだけど。
みちゅ、ずちゅ、って音がするくるぶしを引き上げる。痛い。運動不足にこれは堪える。明日あたり筋肉痛になるだろうな。うん。
○△※× KG;:LHMDOW:,
また、不思議な音が鳴った。小さい。金属音……よりも、子供や女の人のような、高く細い音だ。楽器で例えるならバイオリン高部。アコースティックギターの、丁寧に響かせた音。
でどころを探してぐるりを見る。暗い方へと歩いてきたから視界はやや濃い灰色に染まってる。音楽のようなさっきのあれは、……あ。
○△※× P.THBDL376:W
間違いない。聞き間違いかと思ってた最初からずっと、冒頭は同じ音だ。ららるるらりら。私が真似をするならそんな感じ。
……た、竹○泉っぽくなったけど宇宙人の鳴き声ってこんな表示だったろうか。うん? うん。
りーらるら、ろろろろれれれら?
今度は『そう思って』聞いたからか、音はもっとくっきりと、ら行の発音で聞こえた。もちろん、意味はわからない。わからないけど、でも多分、敵意は、なさそう。
「ららるるらりら?」
だから、ごくりと生唾を飲んだ後で私も同じような音を出してみた。ほんと今さらで済まんけれども、実はこの植物の中に入った時からちりちりと肌が痛いんだよね。うーん。アルカリか酸性かが強いんだと思う。私の肌よりも。
ちょっとこれは、のんびりしてられないんじゃないかって、だから行動してみたわけです、はい。
○△※× れとこすみてりくまはれ
「ごめんなさい。言葉がわからないの。人間の使う言葉なら多分、翻訳できるんだけど。……私の言ってること、わかるかな? あの、無理なら」
どうしよう。
無理ならどうすればいいのかなんて、欠片も考えてなかった。私が話しかけた途端、向こうから返ってきた返事が一気に言語に近くなったから期待したんだけど。
ちょっとここまでの期待は逆に、私の正気を疑われるかな。
『……はい。わかる。だれ? かえる』
「おお。こ、言葉だよ。会話だよ」
意味が分かるかっていえば微妙。だけど言語だ。らりらりる、じゃなくて。
うん。……って、あれ? なに? 私、帰るの? ん?
『あなた、ない。かえる。かえる。かなしい』
植物だと意志の翻訳もこのあたりが限界かも。そもそも喋るもんじゃないし。
導管、それと固まる寸前の寒天状にみっしりと緩やかに詰まってるこの空間に響くようにして声は謡う。音楽とほぼ変わらない音程の細かな上下。いっしょうけんめいに聞いてると、それは悲しいと歌っていた。かえる、と何度も繰り返されるのがどういう意味だか知りたい。
「かえるのは誰? 私? あなた?」
『……ぇる。かえる。わたし? あなた? あなた、わたし』
やべぇ。まるっきり英米ファンタジーの精霊みたいだよ。どうやってこの状態から望みを聞き出すんだよケルン。会話ができるまでの自我、そんなにきっちり確立してるの? この子。
「ほしいものが、あるの? 私が出ていけばいい?」
『わたし、あなた。かえ……ほしぃ? ほしい、ほしい。ひかり』
光。光とな。
「水は? 何が足りないの? 光と、あとは?」
『しぃ。ほ、しいの。ひかり。みず。おなじの。……うごける、うごく』
じいっと、なんとなーくだけど、じーっと私の足を見られてる気がした。形を取ってないんだから、視線だって気のせいだろうけど。や、いやいやいやいや。
「うごく? 動けるようになりたいってこと?」
『わたし、うごく。すき、ばしょ。ひかり。みず』
何もないとこから感触がするとか、ほほほ怖すぎないですか市長。濃い密度の空気で、や、違う。空気が詰まってるわけじゃないこの空間だと……いやいやいやいやいや。
さわりさわりと膝小僧を何かが撫で続ける。おいおい、事ここにきてホラー展開か?! なんじゃそりゃ!




