14.
ふわふわってあったかくて、いい匂いがする。自然な床暖房、季節の変わり目にふわふわラグカーペットで寝たときのような心地よさ……あぁ運動会がもう終わったのかな。自分の部屋で寝ちゃってる?
目を開ける。後ろから安定した息が聞こえてきて、なんていうかな、森林浴? マイナスイオン? 冬場のこたつ? みたいな気分にさせられる。眠い。
ゆったりして、まったりする。
ぼんやりと身を起こして、大きな獣を見下ろした。目が合ってる。離せない。
この、ばかげて大きなサイズの犬みたいな生き物は狼で、地の精霊でケルンって名前だ。私はもう、それを知ってる。
ケルンの瞳は深い、深い藍色。真冬の海みたいなニュアンスだ。日本じゃなくて、北極海かどこかの。う、想像だけで寒い。
ぱたりとお尻のあたりで尻尾が動く感触がする。そうか、私が話の途中で寝ちゃったからケルンが……うん?
「毛布? 眠ったの? ほんとに?」
疑問符だらけで申し訳ない。けど、自分が他人の前で寝ちゃったなんてまだ信じられない。
ついでにいうと、アレが全部、夢じゃなくて現実だったことも、信じられない。
「もう起きてしまったのか? 愛しいカーナ。まだゆっくりと眠ればいい。お前が現実を受け入れるまで、たとえどれほど時間がかかっても私は待てるよ。泣いても喚いても構わない。ただ、私を拒絶さえしなければ」
「ナーナ、おはようございます。時間が知りたいのなら答えますが、貴方が眠ってしまわれてから一刻程度しか経ってないです。現在はまだ、ナーナたちが現れた場所から移動したのちの、この倒木窟から動いていません」
「愛おしい鍵の子よ、我が告げた内容で傷つけられていなければいいが。人間はとかくもろい。鍵であるからこそ愛おしく、お前がお前であるからこそ愛らしいカナ。何か欲しいものはあるか?」
…………なんだろう、これは。っつーか、わりとずっと突っ込み損ねてるけどさぁ、この人外トリオ、誰が一番砂を吐かせるかの競争でもしてるの? どうしてこんなダダ甘い言葉がつらつらーって出てくるの? そろそろ引いていと思う。甘すぎて、一周回って寒いなんてほんとにあることなんだね。二十歳過ぎても知らない知識、意外と多いなぁ。
少女漫画でも今時、こんなに甘いこと、言わないよ?
ちらりと焚火の向こうを見ると、私に向けてやっぱり甘く笑いかけてくるお兄さんたち。……や、いや、甘いってついうっかり言っちゃったけど、違うんだろうな。私の失言率から類推するにこれって、痛い子に掛けられる無条件の保護、だろうか。ま、さか、『関わりあいたくないから笑っとけ』じゃないよね? たぶんね?
へらりと笑いかけると、お兄さんたちはそれぞれの迫力を増して笑いかけてくる。どうしよう、この先の対応の仕方が謎だ。その笑顔って、『話しかけるな?』なの? それとも。
「ナーナ。飲み物はいかがですか? 寝顔を見せてくれたことに免じて、僕と一緒に向こうで温かいものでも飲みませんか?」
さらりと湯気を立てるマグが私の目の前に差し出される。反射的に受け取って、ありがとうを返した。ユーリの声は私をリラックスさせる効果があるみたい。躊躇なしに受け取れるなんて。ん? 寝顔に免じてって……あ、そうか。このお茶を一緒に飲みたいってことか。
でもやっぱり、マグを口に運ぶことはできなかった。美味しそうな匂いもするし、切実に飲みたいんだけどなぁ。そりゃもう、ペットボトルのお茶なんかよりも、ずっと丁寧に淹れられたっぽい雰囲気だし。喉も乾いてるし。
手の中のマグを持て余す。どうしても持ってる腕が臍より上に上がらない。もどかしい。悔しい。
いつから他人の行為に対して、こんな恩知らずな真似をするような人間になっちゃったんだろう。
真剣にマグを睨みつけると、マグは勝手に視界から消えた。……いや、ミハルが取り上げたんだ。一滴もこぼさないまま。残念なようなほっとしたような気持でマグを追う。
自分勝手な理屈で悪いけど、場にいる全員が飲み物を持っていた場合、私の手の中にも何かがあるべきだとは思うんだ。だってほら、持ってるだけで飲まないのならイロイロ言われることもないでしょう? 手が寂しいのは事実だし。
でも、私のために用意してくれたものを飲めないのは、本当にがっかりだし。
「ユーリ。私の伴侶を悲しませるなら、以降は力ずくで排除するよ?」
「……申し訳ありませんでした母上。……ええ、ナーナも。そんな悲しい顔をさせたいわけではなかったのです。心から許してほしいのですが、ナーナ。許しを請う権利はまだ僕にありますか?」
「あ、ります、あります。むしろ器だけでも持っときたいっていうか、や、いやそれだと図々しすぎるか、こっちこそ、ごめんなさい。面倒な」
「面倒かどうかは、私たちが判断しますよ、カナ。あなたが言うところの面倒やわがままは、ちっとも私たちにとって負担ではないのです」
「むしろお前に関わることができて、……あー、その、うれしい」
「だからね、カナは気にしないでほしい。いつかきっとすぐに、カナだって僕たちと一緒にご飯まで食べられるようになる。僕たちはそれを知ってるから」
「やれ、愛し子は主張までかわいらしい。差し当たってはユーリの隔離空間にまた向かうか?」
「ナーナ、器を持ってること自体は苦痛ではないのですよね? でしたら飲まなくていいのでこちらをどうぞ。……あ、もしかして温かいものより冷たいものがいいですか? こちらは?」
穏やかに、歌うようでもなく、この場にいた全員からフォローされる。ユーリに至ってはさっきと同じマグに冷たい何かを満たしてまた差し出してきた。ミハルの手にはまだマグがあるし、本当にユーリにとっては『何もないところから飲み物を出す』くらいのこと、大したことないのかも。
…………ああ、これは無理だ。もう、降参する。
両手どころか両足上げてもいいよ。畜生、負けた気分でいっぱいです。
私は手を伸ばしてマグを受け取った。今度の液体は透明無色、無臭だ。傾けて、水みたいなそれをマグの縁に沿わせてぺろりと舐める。甘い。砂糖より自然で、冷たい。
ぐっと息を詰め、マグを傾けた。口に入れた水が一気に苦くなる。ちくちくして、喉を刺す。それをなんとかして飲み込んだ。途端に湧きあがる激しい吐き気。知ってる。これは精神的な効果だって。
この苦味も。
目を白黒させている私に呆気にとられた後、ミハルが血相を変えて背中を抱き込んできた。マグを取り上げ背筋をさすり、口中に指を突っ込もうとしてくる仕草から懸命に逃げる。うーわ、ガチで吐きそう。ミハル、さすがにお母さんだなぁ。吐かせる一連の流れに淀みがないよ。
「ナーナ、どうして!」
「カナ?!」
何拍か遅れて、お兄さんたちのつらそうな声が届く。こみ上げてくる胃液を何度も飲み下しながら目を開ける。吐きたい。でも、ここで吐いたら心が折れそう。気を抜いたら苦いものが口から出そうだからぎゅっと強く唇を引き結んで、痙攣しそうになる四肢に力を入れる。浅く何度も息を吸う。
敷かれてる毛皮はもふもふで、ケルンと同じくらいにさわり心地がいい。ベージュ、よりもみかん色。オレンジとアイボリーの雉模様はそう形容されるんだよヒロト。知ってた?
知ってるさぁ、お人よし。お前、馬鹿だからそんなくだんないことしか言えないんだろ。こんな時だってのに。
想像の中の私のヒーロー、女友達はきっつい言葉とは裏腹に私の髪をかきあげる。そう、今ミハルがしたように。
そうして、ケルンがしてるようにこうやって、ただ心配とだけ描いた瞳で覗き込んでくるんだ。大事だって、態度で伝えながら。
「……あー、はは。ヒロト、さまさまかぁ」
口に出すのはこれが最初で最後にしよう。そう決めて、ヒロトの名前を出す。器用なことにケルンの片耳だけがパタパタと動いた。え? なにそれ耳を疑ってる仕草?
とにかくひっきりなしにこみ上げてくる吐き気をなんとかいなして、力が入らなくてだるい背中をできるだけ伸ばす。まとわりついてくるミハルの手を利用して座りなおした。どうしてだかついでにミハルの胡坐の中に据えられちゃったけど逃げられる気もしない。あーもー、これでいいか。
「マグ、ください」
信じられないって顔と痛々しいって告げてくる目線に満ちて黙りこくっている周囲を見回す。責めてる視線がないのが、本当に身に染みる。この人たち、ガチでいい人だなぁ。
マグを再要求する。冷たいのと温かいのを目線で示されて、行儀が悪いけど冷たい方を指さして教えた。ユーリが取ってくれる。
一口飲んだ。喉を通っていく甘い水は砂糖よりも自然な甘さだ。うん。味がする。
ちくちくするし、飲み込もうって努力しないと一滴でさえ飲み込めない。それでも。
「美味しい、です」
にこって笑うと、焚火の向こうでお兄さんたちが息を飲み、それから花が咲くように一斉に笑った。相変わらずシンクロ率が高い。何かするときのタイミングが一緒なんだろうな。
焚火のこっちでは、呆れたような人外トリオがため息を漏らす。思ったより情が深い、とか、予想外すぎて壊しそうだ、とか、泣かせたくなる、なんてのまで聞こえる。おい最後。誰だソレ言ったの。
「……やれ、我の理想で、鍵か」
ケルンがぱたりと尻尾で敷物を叩いた。
要ちゃんの症状は摂食障害とまではいかないと思いますが。まぁね、難しい言い方だとそうなるんだろうな、と思います。
ようするに、他人の前で飲み食いすることができない状況ですね。要ちゃんは、かなり無理をしましたが出来たので、ごく軽い方なのだと思います。過食拒食ではない症状ですね。
医者でもないのに、できるはずだろうとか、自分で判断を下しちゃダメです。本当はね。
ましてや、他人ならなおさら、食べられないのは我がままだとか判断したり要求しちゃ、ダメ、ゼッタイ。




