三章 死の流浪者
「お前達か」
ルザ殿はとても彼女らしからぬ言動でそう私に言った。
「うっ……ル、ルザ?」
ぶつかって地面に叩き付けられたクレオ殿が起き上がり、服の汚れを払いながら彼女を視界に収める。
「無事ですか?良かった、誠さんが迎えに来ています。早く安心させてあげましょう」
「クレオ殿、彼女は」
「俺の質問に答えろ。お前達、あの化物はもう見たのか?」
ルザ殿の姿をした者は右手を軽く開いた。指の隙間からブワッ、紫色の炎が噴き上がる。
「ルザ、どうしたんですか?化物?僕等はそんな物知りません。それより誘拐犯は?どうやって逃げてきたんです?」
「成程、そう言う事か」
彼女は苛立たしげに、「一旦家に戻る。奴が立ち去っていればいいが」そう呟いた。
「ルザ……?」ようやく異変に気付いたようだ。「変ですよ、声のトーンも違うし喋り方も」
「お前達はルザの仲間だろう。お前はクレオ、そっちはシルクだったか?」
「え、ええ。でもどうして僕達の名前を」
フン、鼻を鳴らす。
「付いて来い」
そう命令してズンズン森の奥へ進んでいく。観察眼を発動。矢張りルザ殿より技量は桁違いに高い。見た目は同じでも別人と考えていいだろう。
「話を聞くしかないようだ。あの死霊はもういないしな」
森に入った直後、ルザの父親殿はさながら煙の如く掻き消えてしまった。辺りを捜索していた時に二人が接触、先程の遣り取りに繋がる。歩き方といい表情や語り口、ルザ殿の姿を借りた男性と言った所か。
「あなたはルザ、ではないのですね」
「いいや、ルザだ。少なくとも身体は」
彼は虚空に「ああ、そうか。御苦労」と呟いた。
「どうやらあいつは家を出てこの森に潜伏しているようだ。早く行くぞ」
「今のは誰と話をしていたのですか?」
「家に置いた死霊さ。どこにいても意志を交わせる。こうして情報を得る事も簡単だ」
「死霊は杖に入れておくのではないんですか?ルザはそうしていました」
「それは契約を結んだ場合だ。俺は契約せずとも死霊を従えられる」
「え、本当に?どんなに強い死霊でもですか?」
「修練の結果さ。今では俺の命令を無視できる者はいない。そこだ」
彼が指差した先には、樹々に遮られるように建てられた一軒の小屋。ドアが開け放たれているのは彼の言う化物の仕業か。
入ったすぐにリビングがあり、やや硬い皮ソファとテーブルが置いてあった。壁際には残った火種が燻る暖炉と古書の入った棚が幾つか。
(この臭いは……)
発生源を改めようとした私を、男は後ろ手に制した。
「安心しろ、焼いたのは血だ」
「ああ、分かっている」漂う煙に脂肪やカルシウムの焦げる臭気は無い。
「シルクさん、一体何の事」
私は無言のまま努めて笑顔を作る。クレオ殿が顔を赤らめている間に、術者はドアを閉め素早く右手で印を結んだ。
「域を侵す者よ心得るがいい。我が雷により不浄は消え、生命は灰となる――!」
ドア全体に紫色に光る魔方陣が現れた。作業が終ったらしく彼が振り向く。
「出入り口は全て封鎖した。一応これで安全だ」私達を交互に見て、「外に通じる扉や窓には触れるな、死ぬぞ」
「分かりました」
「お前達はそこに座っていろ。荒らされていないか部屋を見てくる」
ルザ殿の身体を借りた男が廊下に行こうとするのを、「待って下さい」クレオ殿が止めた。
「僕等も行ってもいいですか?ね、シルクさん」
「そうだな」顎に指をやる。「貴殿がプライベートを知られたくないなら大人しくしているが」
「別に構わん」意外にもあっさりと承諾の返事が貰えた。「術に使う道具が転がっているぐらいだ。見られて困る物は無い」
三人で廊下を歩いて行く。一番手前の部屋は寝室だった。年季を経た渋い色の木製のベッドとテーブル。上には魔力装填型のスタンドライト(かなりの骨董品だ)と読みかけの本が一冊。『魔術の起源』と表紙に印刷されている。
「貴殿は一人暮らしなのか?」
「そうだ、冥蝶に家族を持つ必要は無い。死霊を使えば用は足りる」
「冥蝶?この森と同じ名前です。あなたがその?」
彼は納得したと言った顔をし「ああ、そうか。今のお前達は何も知らないんだったな」また不思議な事を言った。
「??はい。てっきりそう言う蝶がいるのかと思いました。人の名前だったなんて」
「そう、俺の事『も』指す。にしてもお前達、毎回何も知らずのこのこ入って来るんだな」
どう言う意味だ?私達がここに来たのは今日が初めてのはずだが……?取り合えずその辺りは今は触れないでおこう。
「ああ。デイシー殿は事前に情報を仕入れていて知っているかもしれないが、我々二人は全く無知だ。ただルザ殿が誘拐されたのを私が目撃して……あの犯人は何処へ?」
「誘拐?ルザは自分から付いて来たのだ。訂正してもらおう」
「あの男が貴殿?」
「義体を使っていたからな。倉庫を見れば納得できるだろう」
予期せぬ単語が出て一瞬判断停止に陥った。義体、だと?
冥蝶は視点を一回りさせた後、「次だ」と我々を先導した。寝室を出て斜め左の部屋へ。
「今回は何もされていないようだな」
天井のライトが点き、ズラリと並んだ書棚を照らし出す。黴に侵食されかけた紙の臭い。壁には魔方陣の試作図らしき紙がピンで無造作に止められていた。
「そう言えば自己紹介がまだでした。御存知のようですが、僕はクレオ・ランバート。エレミアで作られた機械人形、そして連合政府のLWP調査団の者です。彼女はシルク・タイナーさん、政府防衛団に勤めています。後、僕等の仲間はアレクとカーシュとデイシーさんの三人。それにもう二人村に」
「毎度毎度随分滑らかに動くな、人間と変わらん。で、お前は?」冥蝶は視線で私に促した。「お前は何故生命が無いんだったか?」
「冥蝶さん、シルクさんは人間ですよ?気のせいじゃないですか?」
「いや……」
私の目をジッ、と見つめる。負けじと私も彼を睨み返し、数十秒後。
「……そうだな、多分俺の勘違いだ」
苦笑しながら瞳は冷ややかにこちらを見ていた。上手く収めてやったぞと言わんばかりに。
最後の部屋、義体の納めてある倉庫に異変はあった。ドアが乱暴に開け放たれ、部屋の外にまで大小の何かが散乱している。
「ひ!」驚いたクレオ殿が腰を抜かしかける。
冥蝶は冷静に外、そして部屋の中を確認し、「どうやら今回も納得はさせられないようだ」そう呟いた。「こう細切れにされては義体かどうか分からんとは思うが、見てみるか?」
「ああ」
あの男の痕跡を探そうと肉片を見ていったが、顔の部分も含めて男女の区別すらできぬ程見事にバラバラにされていた。冷凍死体をハンマーで粉々にし、解凍すればこれに近い状態になるだろう。唯一の救いは義体のためか血液及び体液が殆ど流出していない事。でなければ慣れている私はともかく、臭いだけでクレオ殿は機械がショートしていただろう(電池の場所を後で聞いておかないと)。
「し、シルクさん……平気、なんですか?それ、死体なんですよね……?」
眉一つぐらいは動かすべきだったか?近付いて観察する私を、クレオ殿が信じられない風に見ている。
「義体は単なる器。機械人形、お前の身体との違いは硬いか柔らかいかだけだ」
「そう言われても……う」口元を押さえる。
倉庫の中は全面に鋭い引っ掻き傷が掘られ、中の魔術道具は悉く壊されていた。まるで台風一過、巨大なゴリラが暴れ回った後のようだ。
「――アレク殿達が危ない」
化物はこの家の外にいる。もしも三人や聖者様達が遭遇したとしたら、無傷では済まない。
「冥蝶殿、貴殿の身体はルザ殿なのだったな」
「そうだ。返そうとした時にあの化物が入って来た。今の状態では束の間追い払うのが精々だ。とは言え、いつまでもここで燻っている訳にもいかん。ルザとお前達を帰さんと奴も……」
彼は俯き、そのままの姿勢で倒れた。
「もう……最初はこんな物か……」
「だ、大丈夫か!?しっかりしろ!!」
呼吸は浅く瞼は閉じている。身体を上向かせ、意識の有無を確認しようと頬を叩きかけた。
「ん……あなた防衛団の……クレオ?」
目を覚ました彼女は上体を起こし、不思議そうに我々を交互に見る。
「どうしたのよあんた達?そんな怖い顔して」
部屋を見回し、散乱した義体に目が釘付けられる。
「な、何なのよあれ!?気持ち悪い!本物?それともイミテーション?血は溜まっていないみたいだけど」
「ルザ?え、戻ったのですか?」
「何の事?それよりあれ誰の死体?」
「さあ、どう説明していいのか……少なくとも我々の知人でない事は確かだ。そもそも生きていたかどうかも酷く怪しい」
義体は生命も魂も無い純粋な入れ物。修復不可能なら新たに使い勝手の良い代替を用意する、それだけの代物だ。
「ルザ、冥蝶さんにここまで連れられて来たんですよね?あの死体その時の人なんです」
彼女は一瞬黙った後、「は?」困惑を顕にした。腰に手をやる。
「どうしてあんたが私の田舎村でしか流行ってない伝承を知ってるのよ?そんな奴知らない……って言うかここどこ?政府館の倉庫?」
キョロキョロする彼女は本当に状況を把握していないようだ。爪痕を見て目を見開き、「悪魔でもいたのこの部屋?」と尋ねる。
「いや、冥蝶殿は化物としか言っていなかったが、恐らく悪魔以上に強力な何者かだろう」
「……もしかしてここ、私の村なの?」
「はい。冥蝶の森の彼の家です。外はその怪物がいて危険だからって、冥蝶さんが僕等を招き入れてくれたんです」
「冥蝶なんてただの迷信、田舎の人間の戯言よ」
彼女はキッパリ言い切る。
「で、でもルザ、僕達は確かにさっきまでその人と話をしました」
「そいつはどこ?私が化けの皮を剥いでやるわ」
廊下に出てズンズン進む彼女を私達は追う。
(厄介な事になったな……)義体が使用不能になった今、身体を共有するルザ殿に冥蝶殿の実在を証明するのは限り無く難しい。と、彼女の足が止まった。
「な……何なのこいつ等……?」
疑問に応えるように、通路の壁から四方八方に浮かび上がる死霊の群衆。彼等は一様にルザ殿に頭を垂れて忠誠を見せた。
「キュクロスより力の強い連中ばかり……冥蝶の僕って訳ね。ふぅん……どうやら私の事、冥蝶に頼まれているみたい。命令していいらしいわ、どうしようかしら……」ルザ殿は顎に人差し指を当て「ねえ、ここに来たのはあなた達だけじゃないわよね?まず村の外の結界が破れないはずだし」
私が経緯を説明すると彼女は目を見開き、「お父様とデイシー達が化物のいる外に!?大変だわ、早く助けに行かないと!」
「ならルザ殿。外に出る前に彼等を使い皆の居場所を探させてみてはどうだ?冥蝶も彼等から情報を得ていたようだ。死霊の事はよく知らぬが、常に浮遊して移動速度が速いだろう?ついでに安全圏に出るまでの護衛を任せては?」
眉を上げ、ほぅと感嘆が漏れる。「シルク・タイナー、あなた驚く程切れ者ね。確かに言う通りだわ。けど……」横目で死霊達を見、「偵察はともかく護衛は無理ね。その化物、かなり死霊と相性が悪いみたい。完全にビビってる」
「冥蝶さんの死霊より強い相手なんですか?」
「待って、訊いてみる」数人と低い声音で不可思議な言葉を交わし合う。「分かったわ。どうやら敵は近くにいる死霊達を取り込むようよ……つまり食べるの」?顔のクレオ殿のために言い直す。
「死霊を、食べる??透けて触れられないのにどうやって?」
「捕食されるのは精神エネルギーよ。ロディだってあんたの魂を食べようとしてるでしょ?そう言う事」
「そもそも美味しいんですか、魂って?僕は身体が機械だから、魂もメタルの味なんじゃないかと思っているのですが」
プッ!「そんな訳ないでしょ!?」ケタケタケタ。
「じゃあどんな味がするんですか?」
「キュクロスは魂の構成物によって大分違うって言うわね。彼女老人のくせに業や欲望の強い魂が肉みたいにジューシーでお好みらしいわ。それでいくならあんたは大分淡白な味ね、栄養バランスが良さそうな――さしずめ野菜たっぷり鶏ササミあんかけ、って所?」
「凄い喩えだなルザ殿!実に面白い」
「お褒めの言葉どうも。その観点でいくとあなたは何かしら、ねえクレオ?」
「えっ!?」
彼は何故かしどろもどろに「そんな、シルクさんを食べ物に喩えるなんて……」遠慮がちに小声で言った。
「プロテインだろうな、恐らく」無味無臭のタンパク質補給飲料。自己イメージともピッタリ重なる。
しかしルザ殿は眉を吊り上げて「何よそれ?」何故か怒りを顕わにした。「あなた、何でよりによってあんな不味い物に自分を喩えるのよ?」
「不味いと言う程の味も無い気がするが」
「体格が幾ら良くても一応女なのよ、もう少しマシな物にして。でないと私、これからあなたの顔を見る度あの変な味を思い出しそうだわ」
相当苦手なのだな。――素朴な疑問だが、何故ルザ殿はあんな物を飲んだのだろうか?死霊術師なら筋肉を付ける必要は無いはず……胸囲か?ふむ。あんな物、大胸筋を鍛えて一般人に必要な栄養さえ摂っていれば勝手に大きくなると思うのだが。
「バケット……でしょうか。がっしりして頼り甲斐があって、そのままでもジャムやチーズを付けても美味しいので、どんな時でも実力を発揮できるシルクさんっぽいと思います」
「ほう、確かに言われてみればそうだな」頼り甲斐があるかはともかく、よく本質を捉えている。「どうだろうルザ殿?」
返答を聞いた彼女は、何故かこめかみを指で押さえ「あんたねえ」そのままクレオ殿の肩を掴んで廊下の隅へ。しばらく小声で言葉を交わした後戻って来た。
「どうした?」
「べ、別に何でもありません!」おや、随分彼女は堪える事を言ったらしい。
「そうか。ではルザ殿、捜索を頼む」
「分かったわ」死霊達に取り次ぐ。あっと言う間に大量の半透明な人々は掻き消えた。
リビングに戻るなり、ルザ殿は窓やドアの魔方陣を凝視した。
「結界だわ、それも超強力な。これも冥蝶の仕業?」
「はい。化物が入って来れないようにと」
「こんなのを用意する程の相手……弱った、私達じゃとても太刀打ちできない。何とか上手くこの罠に引っ掛かってくれればいいのだけど……」
急に不安げな顔付きになり、部屋の中をウロウロと歩き回り始める。
「………お父様、無事なのかしら……」
危険の大小が不明な以上焦りは禁物だ。少なくとも私はいつもの任務と同じ冷静を保たなければ。状況を把握し、あらゆる事態に備え、この二人を守るのだ。
「僕達、死霊になったルザのお父さんを追い掛けてここまで来たんです。あの、ルザ。この村で何があったんですか?」
核心的な質問に不機嫌になるかと思いきや「私もよく知らないの。お父様達に訊いても教えてもらえないし」肩を竦めてあっさり答えた。
「そうなんですか」
「覚えてると言えば……家を飛び出してこの森に入った事ぐらい。それから記憶が飛んで、次に見たのはロディの魂が目の前に浮かんだ所。どんどん“死色”に染まっていきながらあの子、私の手を必死に掴んで言ったの。村の外へ逃げるんだ、って。
でも外界との狭間は生霊と死霊の叫びで凄まじい嵐が発生していたわ。肉体のある私は耳を塞いでいれば辛うじて通れたけれど、魂だけでふらふらしてるロディは近付いただけで吹き飛んで行ってしまう」
「だから契約をして杖の中に?」
彼女は黙って右手の袖を捲った。白い手首に走った骨まで達する一本の古傷。
「生憎当時は専用の杖を持っていなくてね。血の誓約よ、契約の中では一番原始的で野蛮な方法。血筋の近い死霊程拘束力が発生するわ。正規の方法のキュクロスと違って、ロディは自分から契約破棄する事ができない。あの子は私が死ぬまで一緒って訳」
「でも、代償にルザの寿命は」
辛そうな機械人形に「あんたが悲しんだって仕方ないでしょうが」恰も突き放すような言葉を掛ける。
「仕方ないでしょ。死霊になったとは言え実の弟を残して行く訳にもいかないし……それに何となく、村があんな事になったのは私のせいな気がしてね……あの日我儘言って冥蝶の森なんかに入って行かなければ、今も皆平穏無事だったのかも、って」
首を横に振り、「今更後悔した所で遅いんだけど」
「……だから僕にあんなアドバイスを」
「?何?」
「いいえ、何でもないです」
クレオ殿のはにかみを訝しげな目で見、死霊術士は吐き捨てるように言った。
「冥蝶が本当にいるならこっちが全部教えて欲しいぐらいよ」
袖を元通りに直し、まだ動揺するクレオ殿の背をドンッ!と叩いた。
「!?」
「勝手に人の事情で落ち込むんじゃない。機械のくせにあんた、情緒を理解し過ぎてこっちが反応に困るのよ。次そんな顔してご覧なさい?今度はそっちへ突き飛ばしてやるんだから」
?私の方へ?
「る、ルザ!!シルクさんを巻き込まないで下さい!」
慌てて叫ぶクレオ殿に、ようやく彼女が満足気な笑顔を浮かべた瞬間だった。
オオォォォォォッッッッッ!!!!!
目的地の入口は林の隅の古井戸だった。目立たないよう掛かった梯子を降りると、予想通り水は一滴も無く、下り気味の横道が続いていた。僕と孫娘で前を照らしながら進む。
百歩程度でドーム状の空間が現れた。掘削されて長い年月を経た天井や壁は湿気でしっかり硬化していた。中央には魔方陣、但し死霊術の物とは図形が微妙に異なる。
「変ですね、こっちと内部の紋様が違います~。魔方陣は形によって意味が全然別なんですけど~」デイシーが座り込み、資料を見ながら仔細に検分を始める。「大お爺様~、写真焼き増しするから撮ってもいいですか~?」
「いいよ。光量は足りてる?」
カメラのシャッターを二回空炊きして「う~ん、もう二、三個浮かべて欲しいかも~」
指示通り新たな光球を作り出して魔法陣の四方を取り囲むように浮遊させる。愛孫は手から零れそうな大ぶりのカメラを構えてバチッ!フラッシュを焚いた。角度を変えて計十枚。更に棚に並んだ書物の背表紙や魔術道具をフィルムが一杯になるまで撮る。
「ありがと大お爺様~。帰ったら早速調べてみるね~。カーシュ君達の方はど~?」新しいフィルムに交換しながら書棚傍の彼等に訊く。
「魔術書ばっかでお手上げだ。デイシー達に任せる」
諦めて両手を頭上で広げたカーシュの横で、アレクがしげしげと一冊の書を開いて読んでいる。
「おや、何か興味を引く物があるのかい?」
「ああ、いやこの段……代々この村の村長が書いた日記みたいです。で、この部分なんですけど」
光源を近付け、擦り切れかけた細かい字を読み取る。
――今日新しい印の子供が生まれた。北限の家のメイ、女児だ。伝統通り産湯前に祓い清めを行う。
「どの日記にも結構な割合で出てくるんですけど、印って何の事でしょう?」
「恐らく痣、だろうね。この村の人間は一定の割合で生まれつき蝶の痣が浮かぶらしい」その事は既に当時、他の家の調査で判明している。
「ルザちゃんの……じゃあ大お爺様、冥蝶がルザちゃんを誘拐したのってまさか……!!」
孫娘の驚き様は普通ではない。どうやら全ての資料を読み込んだらしい。
「後継のためだろうね。村がこの状態になっても、奴は諦めていないようだ」
「どうしよう!!早く探さないとルザちゃんが」
「落ち着いてデイシー」それから僕はゆっくり頭を横に振った。「もう時間が経ち過ぎてる。多分もう……」
ボロボロッ。
「デイシー!?どうしたんだ急に?」
カーシュが心配そうに寄り添って肩を抱いたがこの状況だ、まあ許そう。
「この書斎はルザの父親が彼女のために作った物だ。分かるねデイシー?」
孫娘は眼鏡を上げ、服の袖でゴシゴシ目元を拭いながら頷いた。
「良い子だ。辛いだろうけど知識があるのは僕とデイシーだけだ。力を貸して」
「うん、大お爺様……カーシュ君ありがと、もう大丈夫」
「あ、ああ。辛かったら言えよ、何時でもその、胸貸すからさ」恥ずかしげにそう言った時、既に孫娘は奥の通路へ歩いて行っていた。「デイシー?おい一人で行ったら危ないぞ!」バタバタと後を追う。
「向こうは二人に任せよう。僕等はここを調べる」
「俺は日記を調べていけばいいんですか?にしても物持ちのいい村ですね、三百年前の奴がちゃんと残っている」
「最新の分は何年になってる?」
「えっと、ちょっと待って下さい」本棚の右端の三冊を取って開き、その中の一冊の最終ページを見る。「宇宙暦……八百六十年、四十年前で終わってます」
「ルザがいた頃の記録は別の所か、まあいい。君はその本棚にルザの父親の日記が無いか調べて」
「あ、はい」
「僕はこっちを調べる」魔法陣の外の魔術道具を指差す。中でも一際目を引くのが、「その鏡、何でしょう?」棚の隙間に置かれた、銀の装飾が施された手鏡だ。覗き込むと内部に何か埋め込まれているのか鏡らしからぬプリズムを発した。但し残念ながら中央が蜘蛛の巣状に割れて使用できない。「凄くキラキラしてますね」
「裏に魔石でも入っているのかな?」叩いてみる。すると、
ぐおおぉぉぉぉっっっっっ―――!!
「わっ!?」慌てて手鏡を置き耳を塞ぐ。中を見て驚き、指でアレクに示す。
「何ですかこれ……!?」
鏡の中にはそれまで影も形も無かった十数体の死霊が縦横無尽に暴れ回っている。不気味な唸り声は数十秒間続き、死霊達が鏡端に消えるとゆっくり治まった。
「いきなりとんでもない物が見つかったね」そろそろと持ち上げて元の棚に戻す。「壊れてるけどちゃんと封印できているのかい、これ?危ないから触らない方がいい」
「大お爺様!!」孫娘の呼び声。「こっち来て!」
「どうしたんだい!?」
「いいから早く!!」
駆け足で通路を抜けて、二人以外の人物の存在に驚いた。どす黒い顔の男性。その隣には透き通った白い肌の女性。どちらも資料にあった、ルザの両親だ。
「彼等も時間の輪の中の?」
「うん、でも……様子がおかしい」
『羽化してしまう』
『どうすればいいの、どうすれば』
『止めるために霊を与え続け』
『それではもう間に合わない。翅と節が出来始めている』
二人は俯いたまま互いの間の恐怖を託し合っている。と、孫娘が魔除けの腕輪を思い切り振った。途端母親がこちらを向き、目が合う。
『――あなた達は誰?』
「えっ!?」まさか時間軸の違うこちらの存在が伝わるとは思わなかった。
「俺達はルザの友達です。あなたはルザのお母さんですか?」アレクが僕の代わりに問う。
『そうです』
「どうして他の人達と違って話が通じるんです?」
『それは多分、私が元々死霊だからです。身体はロディのお産の時の大量出血が元で』一人台詞を続ける夫を見、『それからもこの人と契約を交わし、ずっと四人で暮らしてきました。あの日までずっと……』
「村の時空間が閉じた日の事かい?こいつは冥蝶の仕業なんだろう?代々の村人の身体に乗り移って森に住む怪人の。後継のルザを巡って、奴とそこの旦那さんの衝突が原因で村全体の時空間が歪んで……」
僕の仮説に母親はぽかん、と口が開けた。
「違うのかい?」
『村の人達は確かにあの子を蝶様と呼んでいたけれど、本物の冥蝶ではありません。だって冥蝶は……ああ』
母親は夫に縋り付いて涙を零す。
「どういう事だ……?本物の冥蝶と言う存在が別にいるのか?」
僕は魔力で以って彼女の肩に触れる。
「教えてくれないか。ルザはまだ殺されていないのかい?」
「え……?ど、どういう意味です、エルシェンカさん!?ルザが……」
「カーシュ、少し静かにしていよう。お母さんまだ落ち着いていないみたいだし」
「あ、ああ……」
男二人と違い傍らの孫娘は目を閉じて沈黙している。どうやら一人冷静に父親の嘆きを分析しているようだ。
『どうしようも無かった、あれしか方法は……!だけど今度は……あの子はしばらく保てるはずと言っていたけれど……』
ポツポツと彼女は語り始める。
―――全ては娘が生まれた時に始まったのです。あれは森の方から酷く生温い風が吹く日でした。
私の初めての赤ちゃんの臍の緒を切った瞬間、分娩室の窓と言う窓が一斉に開いたんです。外から気持ち悪い温度の風と共に大量の黒い蝶が押し寄せてきて、あの子を取り囲んだ。まだ産声も上げていないあの子の小さな身体がふわっ、と浮き上がって……蝶達の力で窓の外へ連れ出されているとすぐに気付きました。
まだ出血する身体を引き摺り、無我夢中であの子を取り戻そうと手を伸ばしました。産婆さんはシーツを振り回して蝶達を追い払おうとしてくれていたはずです。何分あの子しか目に入っていなかったので確かではありませんが……。
蝶達は私達を敵と見做すと、ピラニアのような獰猛な歯で噛み付いてきました。霊体では綺麗ですが、肉体があった頃は傷痕だらけでとても人様に見せられる有様ではありませんでした。
激痛に耐えながら、大声で産婆さんにこの人を呼んでくるよう言った覚えがあります。死霊術ならこの不気味な蝶達を撃退できるはずだと思い付いて。その時です。あなた方の言う冥蝶が窓から現れたのは。
あの子は紫色の炎で蝶達を瞬く間に焼き払い、ルザを腕に抱いて私に返してくれました。そして信じられないような話を。
『彼女は奴等黒蝶の長、冥蝶だ。痣が夜闇の如き黒になった時、女王蝶に羽化する。そうなれば自我は失われ、ただの化物に堕ちて実の親さえ喰い、世界は赤く滅ぶ』
あの子は到着したこの人にもそう告げ、頸動脈に傷を負い事切れた産婆さんを抱えて、森のあの家に案内したんです。私の喰われた腕は見るも無残な状態で、あの子の回復魔術でも完全には治りませんでした。あの子はもっと早く助けられなくて済まないと詫び、泣いていました。ルザが同調して産声を上げたのをよく覚えています。
この人は冥蝶の指示で、死霊になったばかりの産婆さんの魂を球体状にしました。冥蝶はあろう事かそれを、ルザの口元に押し込んだんです。その次の瞬間、赤黒かった痣が一瞬にして濃いピンクにまで明るくなりました。死を吸収すれば羽化を遅らせる、とあの子は説明しました。
『但し一度羽化が始まってしまえば、この方法では元に戻せない。その時はすぐ私を呼べ』
『君は何者なんだ?どうしてそんな事を知っている……?』
あの子はシニカルな笑みを浮かべて、その時は結局名前を言いませんでした。
―――娘が将来怪物になるかもしれない。お腹にいた頃には考えもしなかった事態に、私達は何ヶ月も恐れ慄きました。怖さに一時期は不眠症を患った時期も……。
でも不安で堪らなかった私をあの子やこの人が、誰よりルザが元気付けてくれました。母乳をあげたり声を掛けるとあの子、花が綻ぶような可愛い笑顔を見せてくれたの。私達が普通の女の子として暮らせるようにしてあげなければ、とその度強く思ったものです。そうは言っても私に出来るのは家事と、毎日痣の様子を注意深く観察する事だけでしたが……。
死霊になってからは、多少夫の手伝いができるようになりました。ルザに与える弱い死霊を捕まえたり、何れ父親の後を継ぐロディの修行の補助を。あの子の才能はルザやこの人よりは少なかったけれど、姉を想っての努力だけは人の数十倍でした。本来なら死霊術を教えられる年齢では到底無かったのですが……ああも強く希望されては、私達も承諾するしかありませんでした。
八歳になった彼女は溌溂としていました。だけどある朝、前日まで引いていた風邪のせいか痣がまた黒ずんでいました。死霊を吸収しないまま家を飛び出したあの子は森に……私が発見した時にはもう……遅過ぎたのです。
「俄かには信じ難い話だね……」ルザが保護された時、病院ではきちんと精密検査を行ったはずだ。化物の萌芽があったなんて報告は聞いていない。
「取り合えず、村の人達が崇拝する蝶様と~、ルザちゃんの冥蝶は別物って事でいいんですよね~?」
『はい。あの子によると、ルザ以外は単に自分が乗り移るために選んだ印を付けた人間だったそうです。本物の冥蝶はルザ一人』
「そもそも何なんだ冥蝶ってのは?遺伝、じゃなさそうだし」
『それは私にも分かりません。あの子は特異点、ではないかと言っていましたが』
「特異点??」
「出生地域や両親一族からの遺伝、胎児時における外界からの刺激等の影響が偶然積み重なって生まれる変異体だよ。けど、そんな怪物じみた症例は今まで報告されていない」
言いながら背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
(人間を喰う怪物だって?それじゃまるで“死肉喰らい”だ……)
過去の悪夢が頭をよぎる。もし治療方法が見つからなかったら……あの頃に心縛られた誠の目の前でルザを殺す?
(駄目だ!それだけは絶対に……!!)
罅割れた硝子に最後の一撃を加えさせてなるものか。考えろ、まだ彼女は人間になれるはずだ。いざとなったら美希と同じように僕へ。
「話の続きを聞かせて下さい。森に入ったルザはどうなったんです?」
『……私が見つけた時には木の陰に蹲って気を失っていました。そしてあの子の手足に黒い節、背中からは蝶の……!!!』
オオォォォォォッッッッッ!!!!!
「きゃぁっ!」
ビリビリと振動が地面を伝い、立っていられない。崩れかけた孫娘を抱え、壁に手をついて耐える。
『ルザ!ロディ!!』母親は時間の輪の中の夫に『あなた、すぐに戻って来ます』そう言って壁を通り抜けようと浮かび上がる。
「待って!僕も連れて行ってくれ!」
「私達もお願いします!ルザちゃんは大事な友達なんです!」
額に皺を寄せ、彼女は首を横に振った。
『……とても危険な力を感じます。生者も死者も超越した異形が、あの子達のすぐ傍に存在している』
「!!?」
そんな……まさか……。
「デイシー」
「はい」
「アレクとカーシュを連れて先に村の入口まで行くんだ。僕は三人の所へ行く」
孫娘は瞬時に察し顔色を変える。
「大お爺様……だ、駄目です一人じゃ、前みたいに」
「二人共。くれぐれもデイシーの護衛宜しくね」母親の死霊に向き直り、「待たせてごめん。さ、案内してくれるかな」
「エルシェンカさん!俺も行きます。保護者としてクレオを放って行く訳には」
『申し訳ありませんが御遠慮下さい』死霊は厳しい顔付きで僕にそう諭した。『彼の者は死霊でさえ飲み込む存在。ルザの友達のあなた達をみすみす殺させたくはないのです……どうか分かって』
その言葉にアレクは目を伏せた。
「……分かりました、ルザのお母さん。エルシェンカさん、絶対クレオ達を連れて戻って下さいよ?ぐずぐずしてたら俺勝手に行きますから」
「はいはい」
彼等の一足先に洞窟を抜けて林の中を走り出す。
「僕も年を取ったもんだ。昔だったら多分許可を出していた」
後輩達は危険など顧みず真っ直ぐで、まるで白鳩の頃の自分達を見ているようだ。懐かしさに心が躍る。
「古い友人も言い出したら聞かない連中ばかりだったんだ。若さって奴かな」
『あなたもそう変わりません。私の警告を無視しました』
地面を擦り抜け、隣を浮遊しながら移動する母親に嘆息気味に言われた。
「それは悪かったね。ただ僕にも責任の一端があるんだ」
『充分若いですよあなたは。無鉄砲で……どうなっても私は知りませんよ?』
死霊は細い目を閉じ、耳を澄ませる。
『ああ……滅茶苦茶だわ』
家全体が激しく揺れたと思った次の瞬間、床と頭が触れていた。
「う……」
どうやら引っ繰り返った時の頭部への衝撃で、メインコンピューターが一時停止したらしい。エラー……ゼロ。再起動中。
「シルクさん……ルザ……?」
復旧が完了していない身体を起こしてリビングを見回す。本棚は残らず倒れ、分厚い本が辺りに散乱していた。
「二人共!大丈夫ですか!?」
「何とかな」
ハルバードを立てて支柱代わりにし、片腕でルザの上半身を支えていたシルクさんはそう答えた。抱えられた彼女は何故か目を白黒させている。
「どうした?どこか打ったのか?」
「今のあなたの動きは何?まるで風みたいだったわ」唇を尖らせ「ありがと。でもクレオは残念だったかしら?」
「え?」
「クレオ殿がどうかしたのか?」
「何でもないわ」悪戯っぽく笑い、支えから立ち上がるやいなや眉を顰める。「ああもう五月蠅いわね」
不機嫌の正体はすぐに僕達にも分かった。ザワザワザワ……!!見えない沢山の死霊達がざわめき、過敏に何かに反応している。
「ルザ殿、何が起こったか分かるか?」
「待って」手近な一人を捕まえて問い質す。「何ですって?」
「どうしました?」
「裏口の結界が破られた。例の化物、もうこの家に入ってきているわ!」
理解と同時にゾッ、とした。冥蝶さんは確か、結界に触れれば死ぬと言っていた。なのに……化物は傷を負ったかはともかく、生きて侵入してきている。
「ど、どうしましょうシルクさん!?」
倉庫に残った爪痕、機械人形でも呆気無くバラバラにしてしまう強さを示していた。まして人間の二人は……。
「落ち着けクレオ殿」
「で、でも!!」
「いいから落ち着くんだ!」
両肩に熱い掌の重みを感じた。
「大丈夫、敵は結界で負傷しているはず。無傷で逃げるのは充分可能だ、冷静に行動さえできればな」
シルクさんの目にはそこに映る僕みたいな恐怖は無かった。あるのは強い意志だけだ。どうしてこの人はこんな強靭な精神を持っていられるのだろう?防衛団の人は皆こうなのかな。
「一緒に少し深呼吸をしよう。すー……はー……」
僕もタイミングを合わせて空気を吸って吐く。でも取り込み部分の大きさが違うためかシルクさんの半分も続かない。
「よし、巧いぞ。脚も震えが治まったな、もう大丈夫だろう」
ルザがやれやれと呆れた風に首を振る。
「男のあんたが真っ先にビビってどうするのよ?」
「ルザだって怖がってたじゃないですかさっき」
「何時の話?あー全く情けないったらありゃしないわ!」酷い。この分だと皆にも自分の事は棚上げしてからかいそうだ。
「ルザ殿、敵は今どこにいる?」
ボソボソ。「寝室よ。随分傍若無人に荒らしているみたい」
「余り悩んでいる時間は無いな。かと言って寝室の横を通って裏に回るのは危険過ぎる。ルザ殿、このリビングの結界を一つだけ外せないか?」
「無理よ、こんな高度な術解けないわ」
腕を組みかけてはたと動きが止まる。
「あら?私の杖は?」
「え?杖ってあの、ロディ君とキュクロスお婆さんの入った?」
「そうよ。家を出る時には持っていたはずなのに、どこへ置いたのかしら……」
今までに見せた事が無い程不安な表情。唯一の肉親が入っている物だ、こんな所に置きっ放しにして平気でいられるはずが―――あ!
「倉庫だ」
記録されたバラバラ死体の映像、足首の傍に落ちていた特徴的な形の木の棒にフレームが合う。
「取って来る!」言うなり彼女は走り出す。
「待て!待つんだルザ殿!!」
倉庫の目と鼻の先は怪物のいる寝室。危な過ぎる。――そうか。あそこは冥蝶さんが使い終わった身体を置いた場所。きっとその時手を離したきり忘れてしまったんだ。彼は杖を使わずに術を使うって言っていたし。
レイピアの柄を掴んで二人の後を追う。開かれた寝室を中を見ずに走り抜ける。
やっと追い付いた時、既に二人は倉庫の中に入っていた。
「良かった」
ルザは泣き笑いの表情で愛用の杖を抱いている。どうやら中身も無事のようだ。
「ああ。だが危険を顧みない行動はこれきりにして欲しい物だ。こちらの寿命が縮む」
「はぁい、分かってるわよシルク隊長。後で反省文でも書けばいいの?」
クスッ。
「いや、日頃の運動不足を解消するため、我が防衛団の基礎筋トレメニューをこなしてもらおうか。その方が作文より余程反省する気になる」
「あなたって人を見る目があるのね。酷い罰ゲームだわ」
かわ……うや、……むりなさい……。
「何か聞こえませんでしたか?」
歌のような言葉は二人の耳には届いていないらしい。
「死霊の声じゃない?まだわんわん言っているもの」
「違います。唸り声じゃなくて」
お眠り……この……の中で……。
さっきより大きな声。ようやく二人にも聞こえたようだ。
「だ、誰!?」
お眠りなさい永遠に……。
「あ………」
カラン。乾いた音を立てて杖が零れ落ちる。廊下の奥の闇を放心状態で見つめたまま、ふらふらとそちらへ歩き始めた。
「ルザ!?」
「いるの……行かなきゃ……」
手を掴む。氷のような冷たさにビクッ!となった瞬間、凄く強い力で振り解かれる。
「呼んでる……私を」
「行くな!!」
シルクさんの伸ばした手と、触れようとした肩の間に白い光が走る。
「っ!!」
「シルクさん!?大丈夫ですか?」
引っ込めた掌から白い煙が見えた。肉の焦げる臭いが辺りに漂う。
「私は平気だ、それより早く彼女を止めてくれ」
手を押さえつつも苦痛を決して顔に出さず彼女は訴えた。僕はルザの後を追い、見た。
あの夜、林の中にいた一対の赤い眼を。
「あ、あ…………」
恐怖が人工皮膚の隙間からどっ、と噴き出す。意識の消滅に伴う苦痛、永久の孤独は精神を破壊するには充分だった。
だけど、僕の記憶回路は同時に抱かれた温もりを再生していた。ぶるぶる震えて立つ事すらできなかった僕を支えてくれた大きくて優しい手を。
「お、前なんかには……負けない」
化物に向かって一歩踏み出す。僕が二人を守るんだ、絶対に……!!
「ルザ!戻って来て!!」
思わずエレミア語で叫ぶ。言葉なんてどうでもいい!彼女の心に届いて!!
「私がいます……ずっと……お傍に」
「ルザ!!!」
彼女の姿が闇の中に消える。躊躇いも無く続いて、取り戻すために手を伸ばした。