一章 陽だまりの休日
「ねえお母さん」
キッチンで洗い物をする母の裾を引く。透けるような白い肌の彼女は足元の私に微笑みかけ、泡だらけの手を洗ってタオルで拭いた。
「どうしたのルザ?」
「またロディが寝ぼすけなのよ。幾ら揺すっても起きないの」
「昨日もとても遅くまでお父さんと修行していたわ。お昼まで起こさないであげましょう」
「ロディばっかりズルい!私も修行したいのに……」
弟はまだ五歳になったばかりのお子様なのに、もうお父さんと死霊術の訓練をしている。かく言う私は来週で八歳だけど、精神集中などの基本的な訓練ばっかり。
「ねえ!ロディ、まだ契約はしないよね!?」
死霊の使役、代償として契約者の生命と魔力を与える誓約の儀式。この村ではそれをして初めて成人として認められる。
「勿論よ。誰かを使うにはまだまだ修練が必要だわ……あら」
母は私のパジャマの襟を引き、胸の痣を見て表情を強張らせた。
「あ、これ、一昨日から色が濃くなってきたの。最近薄着だったからお日様で焼けたのかな?」
大きさは掌程の蝶のような形の痣。いつもは濃いピンクだけど、今は剥がれかけのかさぶたみたいな黒。
「ルザ……その痣、痛かったりしない?気分が悪かったりは」
「ううん、平気。どうして?これ悪い病気なの??」
母は一瞬視線を上へ向けた後、ニッコリと微笑んだ。
「いいえ。ただ、もしかするとお父さんや村の人達が使った術の影響が出たのかもしれないわ。お父さんが起きてきたら診てもらいましょうね」
姿見の前でシャツを着た時、痣が若干黒くなっているような気がした。
(そう言えば、村の言い伝えで冥蝶様ってのがあったわね)
私の故郷、死霊術師の村の始祖。従えた死霊を漆黒の蝶に変え、村外れの森で何百年も生き続けていると言う。だから村にいた頃、村人達はこれを蝶様の印だと言って有り難がっていた。どうせ迷信だろうけど。村がああなった今、最早確認する事もできないし――。
「馬鹿馬鹿しい」
久し振りに子供の時の夢なんて見るから、つまらない事を思い出してしまった。
「今日休日だったのね。忘れてた」
偶には真面目に魔術の訓練でもしようかしら。あんまりサボっているとお父様を心配させてしまう。お父様から教師を頼まれているリュネなら、今日は自分の家にいるはずだ。
コンコン。
「ルザさん、朝御飯ができました」
ドアを開けて青髪の青年が入ってくる。クレオ・ランバート、LWP調査部の同僚。LWPなのにこちらの言葉が達者で、だからお父様はこいつを高く買っている。
「今朝のパンはデニッシュです。ルザさんの好きなチョココロネも焼いてくれていますよ」
あのパン屋、お父様がいなくて食べないのを見越して私の好物を。言葉が通じないのにどうして分かるのかしら。
「――い、行くわ。先に降りていなさい」この程度で負ける自分が悔しい。
「はい」
ドアが閉まったのを確認して、机の一番下の引き出しをそっと開けた。
「大丈夫、よね」
ビニール袋に入った服と何枚かのバスタオル。生地が黒くて見えにくいけれど広範囲の汚れあり。三重のビニール越しでなければ鉄錆の臭いが強く鼻を突き、人間と同じ五感を持つ機械人形も気付いたはずだ。
これを入手して五日。人目に付かない処分方法は遂に見つからないままだった。が、今日は休日、鞄にでも押し込んで余所の星で燃やしてしまおう。とにかく完璧に隠滅しなければ。リュネの所へはそれを終わらせてから行けばいい。どうせ昼前まで寝ているはずだ。
鏡の中の私の目の下には隈が出来ていた。最近は死霊術の影響か体調不良気味だ。熟睡できない日が多く、朝方自分でも吃驚する程手足が冷たい時がある。父のように強くなれて嬉しい反面、その分寿命が短くなっていると思うと胸がキリキリ痛む。最愛のお父様、その傍にいられる時間がどんどん少なくなっているのだから。
どうせ死ぬなら若いまま逝きたい。号泣するお父様の縋り付く死体が皺の出始めたババアでは絵にならない。
「……あの人は私が守らないと」
休日と言われても僕には特に予定が無い。画材も含めて生活に必要な物は、アレクとカーシュの二人に案内されてこの前全部買ってしまった。僕は洗ったコップの水滴を布巾で拭き取りながら、スポンジでお皿を綺麗にするヘレナさんにそう説明した。
「それなら彼女をデートに誘ったら?ほら、あの背の大きな女の人」
ドキリ。「今日は宇宙船の警備の仕事でいないそうです」ドキドキ。「そ、それにヘレナさん。シルクさんは別に恋人では」エンジンのフル回転が止まらない。長く続くとまたオーバーヒートを起こしてしまう。
「ああ、まだ片想いなんだ。いいねー、私もこっちの言葉覚えて恋したいなあ。エレミアと違って、この宇宙なら良い男が選り取り見取りだもの」
因みにシルクさんの妹のリサさんは、一昨日から体調を崩してこの街の中央病院に入院中だ。症状は風邪だけだが生まれつき心臓が弱いので、念のため完治まで家には戻らないらしい。幸い昨日デイシーさんとお見舞いに行った時は、時折の咳以外至って元気そうだった。
ヘレナさんと僕は隣同士食器を洗いながらよく取り留めの無い会話をしている。この世界の言葉を教えたり、逆に街の事を教えて貰ったり。彼女は街の店事情、特に食料品のセール情報にとても詳しい。
「でも折角の休日だもの、彼女無しでも息抜きにどこか行ってきなさい。イムさんは他の星へ出掛けたよ、パン屋の人達と一緒に」
「へえ。道理で朝食の時から見かけない訳です」
「川辺で釣りと『ばーべきゅー』するんですって」その単語だけこちらの言葉で発音する。「屋外で大勢集まって生肉を焼く料理なんて、エレミアでは考えられない調理法だわ」
僕も記録に無い。
「クレオもそう言うのに行ってみたら?」
「え、いや僕は」
言い詰まった時、玄関から聞き慣れた声。「おーい、クレオー!」
「いつもの友達が誘いに来たみたいよ」
「はい」
手早く食器を片付けてキッチンを出、玄関ドアを開ける。
「よう、おはよう」
いつもよりラフな服装のアレクが手を上げる。僕も「おはようアレク」右手を上げた。
「突然だが、これからどこか出掛ける用事は?」
「ありません。丁度どう過ごそうか悩んでいた所です」
「ん?シルクさんは?」
「さっきヘレナさんにも同じ質問をされました。仕事です」
「あ、そうなのか。って事は一日フリーな訳だ」
ふんふんと頷き、「何だかんだで四人も集まっちまったな」そう呟く。
「ルザはいるのか?」
「いいえ、朝食を食べてすぐに出掛けていきました」
口の端にチョコレートを付けたまま、どことなく急いだ様子で席を立った姿を思い出す。
「そうか。んじゃ支度してくれ」
「どこへ行くんですか?」
「政府館」
休日のせいか、廊下で擦れ違う人はいつもの三分の一程度だ。
視聴覚室のプレートが掛かったドアの前でアレクが立ち止まる。二、三回ノックして、「連れて来ました」と中に呼び掛けた。
「どうぞ」エルさんの声が応じる。
部屋の中は薄暗い。左の方に壁一面の大きなテレビが置いてあり、画面全体が青く光っていた。向かって右、テレビを向かい合わせに十数人が座っている。制服を着た人は一人二人。政府員には見えない御老人や子供もいた。
「おはようございます~クレオさん」
紺に白の水玉模様のワンピース姿のデイシーさんが、大きな紙コップを持って挨拶してくれた。中には小さな白い物が沢山入っている。
「おはようございます。それは何ですか?」
「ポップコーンだよ。映画を観る時のおやつの定番」手を動かすと中身がカサカサ音を立てた。
「映画?それをこれから観るんですか?」
「悪い、説明してなかったな。今日はチェックを兼ねた試写会なんだそうだ。……って、もしかしてエレミアには無いのか、映画とかの映像メディアは」
「??僕が知る限りではありません。この、テレビと言う箱も無かったですし」
スイッチを入れると人が中で喋ったり音楽が流れたり、初めて屋敷で見た時は凄く驚いた。レティさんは朝帰りのオリオール君と毎朝子供番組と言うのを観ているけど、僕は未だにどんな内容が映るのかよく知らない。
「確か屋敷のリビングにあったよな?」
「子供達が点けるぐらいで、僕は全く。面白いのですか?」
「ためになると思うよ」エルさんが言う。「この宇宙の文化を学べるし」
それは大事だ。屋敷に帰ったら試しに観てみよう。
「ところでクレオさんて~怖いの平気なタイプですか~?」
「怖いと言うと?」
ポップコーンを持っていない方の手を何故か胸の前でひらひらさせる。
「夜道を歩いていると後ろからひたひた足音が系とか~、川で水底から脚を引っ張られ系とか。あとはアグレッシブに山荘に殺人鬼が~的な感じです」
ひたひた?殺人鬼??
「え……っと、この宇宙ではそういう事があるんですか?」こちらに来て二週間弱経つが、まだそうした出来事には遭遇していない。
「あれ、全然怖がってませんね~?と言うよりエレミアではこの手の怪談話自体無いんですか~?」
「怪談、ですか。僕の知っている限りでは全く……ええと、それは現実にあるのですか?」
「そこからか!」アレクが苦笑しながら突っ込んでくる。「稀だよ稀。九割九分は創作、作り話だ。勿論映画も、なカーシュ?」
「おいおい。一応一つドキュメンタリー物あるんだぞ」後ろを振り向き、眼鏡の男の人に「ああいえ、こいつ田舎者で映画を全然知らないんです。それで上映前に軽く説明を――はい、楽しみにしています」男性が隣の仲間に話し掛けるのを確認してこちらに戻って来た。
「大変だなお前も」
義兄弟の労いの言葉に、カーシュは曖昧な笑顔で返した。
「?現実には無い怖い物の話をする事が、この宇宙ではよくあるのですか?」
「うん、夏はお化けのシーズンだよ~。私もコラムの延長で特集書くし、怪談スポット巡りや百物語が定番かな~!」
ほぼ毎日シャバム新聞の隅に書かれるデイシーさんのコラム。タイナー姉妹に教えられてから僕もなるべく欠かさず読んでいる。が、まだこの宇宙の文化をよく理解していないせいか、文章のイメージが映像として浮かんでこない(そのためにもテレビを観よう)。ただ、少なくとも二人が期待する痩身効果が無い事だけは確かだ。
「ここらで出ると言えば墓地だな、アルバスル共同墓地。昔肝試しで行ったよなアレク?」何時貰ってきたのか、カーシュはデイシーさんより一回り大きなカップを持ち、中身を口に運んでいる。パリパリ。
「けど何も出なかったぜ。お前が樹の影に驚いていただけで」
「あそこは当分駄目ですよ~。この前整備工事して凄く綺麗になってしまいました~、雰囲気も何もありません。毎年特集の常連だったのに~」
「そうだな、この前シルミオおじさんと三人で墓参りしてきたよ。洒落た喫茶店まで出来て、あれじゃお化けなんて出ないよな。どこで肝試しやれってんだよ?学校?」カーシュは首を捻り「まあ俺達の時でも七不思議は伝わってたが、えっと……音楽室美術室と……何だったっけ?」
「渡り廊下、中庭、グラウンドの倉庫、体育館……七つ目はどこの学校でもある通り、知ったが最後呪いが降り掛かる」
「よく覚えてるなお前」
「偶々だ」
七不思議?呪い?
「あ~、大丈夫ですよ。今度はその喫茶店に出るらしいですから~、もう何人も辞めてるって話です~。多分その内廃業しますよあそこ」デイシーさんは人差し指を唇の前で立てて「学校の七不思議なら私も覚えてますよ~。一時期友達と七つ目を探し回ってました~。仮説を立てた所で飽きて止めちゃったんですけどね~」
「お!本当か?何だったんだよ最後のは」
「秘密です~。声に出したら呪いが発動しちゃいますよ~ふふふ」
三人は大いに盛り上がっているが、僕にはそもそも想像すらできない。どうやら映画と同じく怖い物と言うのは分かるけれど。
「あの、デイシーさん。その喫茶店には何が出るんですか?」
「えっと、出るのは死霊ですね~墓地ですから。でもロディ君やキュクロスお婆さんみたいな普通っぽいのじゃなくて、顔ぐちゃぐちゃとか~、手足が無くて傷口から血が延々流れているとか~スプラッタ系の目撃情報が昔から多いですね~。まああそこは“暗黒時代”に色々あった曰くつきの場所なので、お化けぐらい出て当たり前なんですけどね~」
うーん。恐怖と言うより(機械人形だけど)生理的に受け付けない感じなのかな?
「デイシー」
資料を持って前の方に座っていたエルさんが呼ぶ。彼も映画を観るようだ。
「はい、何ですか大お爺様~?」
「まさか当時の捜査資料を調べてないだろうね?幾ら記事のためとはいえあれは機密事項、許可無く閲覧は」
「ああ、資料室と大お爺様の執務室にあった分ならもう読みました~。でも使えそうもないですね~書いてない事が多過ぎて」
孫娘の言葉に眉をぴくり、と動かして、「ふぅん、そうかい。それは残念だったね」
「驚きました、几帳面な大お爺様があんな雑な報告書を作るなんて~。今とは大違いです~。仕方無いから」
デイシーさんは悪戯っぽく笑い、「今度燐お兄様に訊いてみます~」誰だろう?
「あいつに?いいけど、くれぐれも記事にはしないでおくれよ。後、あくまで話半分に聞く事」
「了解です~!」嬉しそうに両手で万歳。「大お爺様だーい好き!」
「ははっ。そうだクレオ、これ渡しておくよ」
三枚の書類は一番上の題名が違うだけで全く同じ質問が書かれていた。ほとんどは五段階で数値に丸をつける方式だ。
「アンケート?」
「映画を一本観終わるごとに書いてね。気楽に答えていいから」
「面白さや脚本の出来栄えなどは分かりますけど、この残虐性や猟奇性と言うのは何ですか?」
「今回は三本共分類上ホラーだから目を覆いたくなるような表現がそこそこ出て来る。それを主観で数値化してくれればいい。耐えられなかったら五、とかね」
目を覆いたくなる?全く想像が付かない。
「クレオは今日がホラー初体験だからな。気分が悪くなったら早目に言えよ」
「分かりました」と言ったものの、たかが映像でそこまでなるのだろうかと半信半疑。
「今日は休日ですよね?どうしてこんな仕事を?」
僕が疑問を口にすると、エルさんはニヤリとした。
「仕事に見えるかい?」
「だってアンケートを取っているじゃないですか」
「シャバムには映画館が無いから、休日はここを映画館代わりとして使っているだけさ。使わない部屋を開放する事で政府は利用者から一定の料金を取り、学生は格安で自主映画を発表し、映画会社はアンケート付きの試写会ができる。おまけに政府職員は無料でストレス発散。中々のアイデアだろ?」
彼はニッコリ笑い、「あ、でも飲食物は有料。必要なら食堂にどうぞ」
ブ――――。
「お、始まるみたいだぞ」
僕等は空いていた最後列の席に四人並んで座る。
「クレオさん、適当に食べて下さいね」
左隣りのデイシーさんがポップコーンを差し出す。もさもさして塩味がした。右に座ったアレクもカーシュにお裾分けされている。
テレビが青く光り、大音量で音楽が流れ始める。正直、ちょっとわくわく。
「ではお言葉に甘えさせてもらう、ありがとう」
「お疲れさん」
同僚と別れ、真っ直ぐ船着場へ。
妹が一昨日急に熱と咳を出した時は慌てて病院に担いだが、昨夜警備の合間を縫って電話するとけろっとしていた。しかも昼食をクレオ殿と親友のデイシー殿と過ごし、かなりご機嫌な様子だった。なので普段なら多少無理してもすぐ帰り支度だが、今回は同僚の好意で一時間早退しただけだ。
「ふぅ……」
“黄の星”へ戻る船が来るまでまだ時間がある。売店でホットブラックコーヒーとパンを三個購入し待合ベンチに座った。経験上、夜勤明けは血糖値を上げておけば楽に動ける。
クリームパンとチョコパンを食べ終わった時、改札口が開いて乗客が一斉に降りてきた。
「ん……?」
押し寄せる群衆に一点他とは異なる流れ。その二人は話しながらゆっくり歩いているため、遠目からでもはっきり分かった。三十代前後の男は黒のチノパンと薄紫のシャツ。隣の少女に話し掛け、彼女は熱心に聞き入り頷いて返答している。
「……彼女は、確か聖者様の養女」デイシー殿の同期で友人、何度か政府館で擦れ違った事がある。彼女もLWP調査団の一人のはずだ。……もしかして私はマズい所を目撃しているのか?あの二人の雰囲気はかなり男女が入っている、ような気がする。
船着場を出るまで彼女は遂に私の存在に気付かなかった。胸を撫で下ろし、温くなりかけたコーヒーを飲む。
大方知り合いに会うのを避け、わざわざここまで足を運んだのだろう。交際を友人に冷やかされればムードも何もあったものではない、らしい。毎月読んでいる“花花キャンパス”では前回それで危うく彼氏と別れそうになっていた。私などはそんな事で一年もよく保ったなと思うが主人公、現実の大多数の女子にとっては一大事らしい。
……となるとリサとクレオ殿が仲良くしている所に私が出ていくのは非常にマズい道理。ううむ、充分注意せねば。因みに“花花キャンパス”は女性心理に疎い私に男性の同僚が薦めてくれた、菓子パン約四・五個分で買える月刊少女漫画雑誌である。
「ふむ」
朝から人の秘密を見てしまった。さて、吉日か凶日か。
「………ん……」
ドアの向こうから誰かの足音が聞こえ、重い瞼を開けた。ぼんやりと白い天井が見える。
コンコン。「誠さん、入っていいですか?」カーシュだ。後ろにクレオ君の氣もある。
「はい、どうぞ」
ガチャッ。
「おはようございます。と言うかもう夕方なんですが。どうっすか体調は?」
顔を横に向け、「ええ、何とか。今夜は屋敷に帰れそうです」と答える。点滴で重い右手を上げ、咽喉の渇きに気付く。「カーシュ。済みませんが何か飲み物を持って来てくれませんか?出来れば温かい物を」
「カフェインはまだ摂らない方がいいですよね?」
「ええ」
「じゃあ下で玄米茶を貰ってきます。クレオは?」
「僕は大丈夫です」
「そうか。じゃちょっと失礼して」
バタン。
上体をベッドから起こし、クレオ君に向き直る。
「聞いてはいたけれど凄い点滴の数ですね……」
両腕に三本ずつ、両脚に二本ずつ、腰に一本合計十一本の針が昨日から私の身体に新しい栄養を供給し続けている。痛みは無いが動くと針が抜けそうで怖い。
「二ヶ月に一回ですから慣れています。私はこうして横になっているだけで楽なものです」
「機械みたいです、そうしていると。僕も……そうだったらしいですから」
「らしい、ですか?」
「エレミアで僕が眠っていた場所、機械人形の研究所なんですけど、開発当時の記録では僕も何本ものコードで外の電源と繋がっていました。目覚める前で勿論記憶はありません」
「似てますね、私と」外部からの力で無理矢理動かされている、人形。「クレオ君、今日はどう過ごしましたか?」
「えっ?ええと、午前中は政府館で皆と映画を観て、午後は不死の人達に誘われてサッカーを今までしていました。エレミアには団体でやるスポーツが無いので、面白くてつい時間を忘れていました」
「流行ってますね。最近夕方靭さんやラキスさんが学校の子供達とやっているのをよく見かけます。昨日もそこでパスの練習をしていました」窓の外の空き地を指差す。
「誠さんはやらないんですか、サッカー?」
「ええ……激しい運動は貧血で倒れるかもしれませんから」その意味では私の方が不出来な人形だ。「楽しそうだとは思いますけど」
私の言葉に彼は笑顔を浮かべる。
「楽しいですよとても。今日プレイして知らない人とも友達になれましたし」
社交的な人だ。言葉も文化も違う場所に上手に順応できて……昔の私はもっと何に対してもおっかなびっくりだった。今でも少しその傾向は残っていて、つい慎重になってしまう時がある。
バタン。
「やあ誠、調子はどうだい?」
「エル……うん、もう平気そう。どうしたの、そのボール?」
友人の手には泥の付いたサッカーボール。
「ああ、誰かの忘れ物だよ。さっき下の叢で見つけた。遊ぶのはいいけどこういうのはきちんと倉庫に戻しておいてくれないと困るなあ。備品は大事にしろってちゃんと書いてあるのに」
「そう言えばエルはやらないね、サッカー」
「やる暇が無いだろまず。チームワークが必要なのは苦手だし」自嘲気味に笑い、「動けるなら軽くどうだい?」
「え……でも」刺さったままの点滴を見やる。
「もう薬は殆ど無くなっています。僕も混ぜてもらっていいですか?」
「勿論。下にいたカーシュを入れて二対二でやろう。どうだい誠?」
クスッ、久し振りに笑えた。
「うん、やろう」
一時と分かり切っていても少しだけ気が楽になる。……一人でいても辛さが増していくだけ。
宇宙に住む人々は大事だ、守りたいと思う。けれどそれ以上に、これは“皆”ではないと思う。私が最も大切で愛おしい“皆”はもうあの写真の中にしかいない……向こうに行きたい。
「クレオ君、足の針を抜いてもらえますか?」
「はい」
行く時はエルも一緒に付いて来てくれるだろうか。こちらに一人だけ残されたら寂しく……ああ、でも彼がいなくなったらデイシーさんが天涯孤独になってしまう。なら彼女も……そうしたら今度は友達のリサさん、ルザやカーシュが泣くかな―――どうしよう、そうなると三人と親しいクレオ君達も。
「誠さん?」
呼ばれてはっ、とする。人にしか見えない機械は不安そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?全部抜きましたよ」針の痕に絆創膏を貼りながらそう言った。
「あ、うん。ありがとう……」
「本当に平気なのかい?ボーッとして。ボールが飛んで来てもちゃんと避けられる?」エルは少し考え込んだ後、「僕はずぶの素人だからね、顔面に当たっても知らないよ」と呟いた。
「う、うん」
「君の鼻っ柱にボールをぶつけたなんて不死の連中に知れてみろ、その日の内に闇討ちされてどんな目に遭わされるか……ところでカーシュはどこまで行っているんだい?戻って来ない」
バタバタッ。廊下を走ってくる当人の氣。
バタンッ!
「誠さん!」
「はい?」
リサの見舞いを終え、家の庭を久し振りに掃除した。背と力の必要な庭木の剪定は私の仕事。半年は放っておいただろうか、好き勝手伸び放題になっていた枝を高枝切りバサミで落とし縛って燃えるゴミに出し、玄関の雑草も抜き小道を掃き清める。その後午睡を挟んで休日用のトレーニングメニューを一通りこなした後、汗をシャワーで流した。悪くない休みの過ごし方だ。これでリサが元気なら尚良かったのだが。
夕食を自炊するか迷ったが、後片付けも面倒なので、商店街で美味いと評判の屋台に行ってみる事にした。
「いらっしゃい、何にする?」
暖簾を潜ると見るからにごつい男が声を掛けてきた。店主は私を見て、「何だ、防衛団の奴か」と言った。
「貴殿は不死省の、靭殿だったか。大剣を玩具のように軽々と振り回すと有名な。このような所で何を?」
「ラーメンだよ、見ての通り。いつもはバイトに任せてるんだがな、休日なんで店長の俺直々に出してるって訳さ」
確かにこの太い二の腕なら鶏ガラのぶつ切りなどお茶の子さいさいだ。
「ほう、それは運がいい。何かおすすめはあるのか?」
「うちは塩と味噌しかないぜ、チャーシュー入りは追加料金」
「では塩ラーメンチャーシュー乗せを頼む」
一分と経たない内に私の前に湯気を立ち上らせた丼が置かれた。具は他に葱と煮卵。
ズズズ……。
「美味いな、噂だけの事はある」
スープも麺も申し分無し。何よりしっかり味の付いたチャーシューが絶品だ。
「ありがとよ。ところであんた、防衛団では野郎共より強えんだろ」
「まさか、そんなデマどこから流れたのか」
店主は弄んでいた包丁を私のすぐ横の空間へ刺す。首を動かすと同時に風を切る音が耳元でした。
「これでもデマだって言い張る気か?」ニヤリと白い歯を見せて笑う。
「まぐれだ。しかし危なかった」刃先を横目に見て、「一応私も女だ。今後は顔を狙わないでもらえるか」大事に研がれた包丁を叩き折らざるを得なくなる。
店主は包丁を下げた後、屋台の下を数秒ゴソゴソして「ほらよ」ゴツい手に似つかわしくないピンク色の箱を丼の横にドン、と置いた。
「これは?」
「詫びって奴だ。昨日不死省で配られたんだが甘い物は嫌いでな、やるよ。女は好きだろこういうの」
開けてみると、一面にふわふわの白マシュマロが敷き詰められていた。
「私も甘味は食べない方だ。妹にプレゼントしてもいいだろうか?」
「こいつを持って行ってくれりゃ何でも構わねえ」
「そうか。では有り難く頂戴しておくとしよう、感謝する」
他の客が入らないのも手伝って、店主と私は武道の在り様について熱心に意見交換をした。魔術が主流の時代、我々は如何にすればよいのか。
「別に俺等は俺等のやり方でいいだろ?結局呪文より拳一発の方が早いんだ。犯罪者を取っ捕まえるのだって大抵は自分の腕、捕縛の魔術なんかでちんたらやってたら逃げられちまう。まあ、適材適所って所じゃねえか?万能な物なんて無いんだからさ」
「そうだな」
魔術師との戦いは何度も経験済み、既に自己流の対策も考案実践している。彼の意見には同意する所だ。
「そうそう、何でも出来る必要は無いのさ。ラーメンを作るのが早い奴、客とのトークが上手い奴、使った道具をちゃんと綺麗にする奴。少なくとも俺の店はそいつら全員がいて回ってる」店主は私の目を覗き込み、「あんたにもいるだろ、そんな奴等がさ」
思考が一瞬ゼロになった。
「っ………あ、ああ」
即答、できなかった。私に真の意味での仲間は、いないのだ。
「だな、あんた面倒見よさそうだし。うちでも評判は聞いてるぜ」
違う。私は信頼を得られるに値する人間ではない。正体を知れば皆慄き、卑怯者と罵るだろう。――誰よりリサに顔向けができない。
戯れに彼を訓練された目で観察した。不死族の再生力に加えパワー自体は圧倒的に向こうが優位だ。しかし――対処法は分かっている。正面切って戦えば多分私が勝つ。大抵の強者に勝てるよう、そうあの男に訓練されたのだから。
(駄目だ……今の私はただの防衛団の一人。そう思い込まないと……)
「お邪魔致します」後ろから女性の声が掛かり、暖簾が上がった。「ラーメンを頂きたいのですが」
「ああ、そこに座ってくれ」
「はい。エリヤ様、どうぞ」
四十前後と思われる女性の胡桃色の髪は豊かにウェーブして艶やかだ。目を閉じた表情はあどけなく少女のような印象を受ける。(ん………?)気のせいだろうか。彼女以前どこかで………。
彼女に案内された金髪の少女は椅子の隙間から足を入れて腰を下ろした。白いローブの両側が不自然に……ああ、そうか。エリヤ、噂の両腕の無い占い師か。
店主も気付いたようで「御苦労様」と挨拶した。対して彼女は苦笑で返す。
「今日は定休日よおじさん。皆が休んでいる日に商売なんてしていたら、日付が変わるまで帰れないもの。メニューは?」
「塩と味噌、チャーシューを乗せるか乗せないかだけだ」
「じゃあ味噌チャーシュー」
「あんたは?」
「私はいりません」
よく見るとこの女性、一度も瞼を開いていない。しかし動作といい盲いているとは思えないのだが。
出されたラーメン丼を女中が受け取り(ほら、見えていなければ無理な動きだ)、慣れた手つきで蓮華にスープと麺を一口分乗せる。
「どうぞ、エリヤ様」
「ありがと」
ぱく。もぐもぐ……。
「流石噂になるだけの味ね。ツイリも食べればいいのに」
「いいえ。汚してしまいますし、私の舌では味もそう分かりませんから。旦那様達がご多忙でなければ御一緒できましたのに、残念です」
「そうだね、いかにも義兄様の好きそうな味。このチャーシューが特に」
箸で半分に切られた肉をツルッと口に入れる。
「そうですね。旦那様はお肉がとてもお好きですから」
まだ訓練された目が解けていなかったらしい。いつの間にか私の観察眼は女性主従達に向けられていた、が。
(分からない、だと?)
凡そ武道も魔術も使わないと思われる二人は、しかし力量が測れなかった。一般人でも体格や気配から大体の戦闘能力を察せられる、が、これは―――。
(彼女等は私より強い……?)
「あなた」
私の視線に気付いたのか少女が話し掛けてきた。
「す、済まない。妹が話していたので、ついジロジロと見てしまった。不快にさせて申し訳ない」
「見られるのは慣れてるわ。それより七十七羽達の強さは分かったの?」
「何の事だ?」とぼけてみせたが「何だって?占い師様」喰い付いてきた店主が彼女に尋ねた。
「あなた、見ただけで相手の力量を判断できる、そう言う修業を積んでいるんでしょ?」
「本気か?んなの俺でも出来ねえぞ。それをこんな若い人間が」
白を切り通すべき、だな。演ずるのはあくまで平凡な一防衛員。
「そんなに変な目付きをしていただろうか?誤解させて済まなかった。私にそんなスキルは無い、本当だ。犯罪者ばかり相手にして自然視線がキツくなってしまうのだろう」
少女が口を開きかけた時、「エリヤ様、折角御用意頂いた麺が伸びてしまいますよ」女中が控えめに発言した。
「……そうね。ツイリ、給仕を」
「はい」
口元に運ばれるラーメンを無言で食べ始める。毎食の事なのだろう、二人の息はピタリと合っていた。通常の目に戻した私も腹に空きを感じ、替え玉を一つ頼む。
「ふぅ……」胃袋はまだ五分目程だが、このぐらいにしておかないといざという時満足な動きができなくなる。
「占い師様、替え玉するか?サービスしておくぜ」店主が気安げに提案する。
「結構。それより今の内に準備しておくといいよ。今夜は忙しくなる」
「お、得意の預言で俺にも幸運を分けてくれるってか?ありがとうよ」
「まあね。半分は七十七羽のせいだし。ツイリ、代金を」
「はい」
女中はよく手入れされた古い革の財布をスカートのポケットから出し、紙幣を一枚店主に差し出した。
「ちょっと待てよ、釣りを」
「いえ、残りは私の分です。美味しそうな香りを沢山ありがとうございました」
「あ、いや……匂いぐれえなら只で幾らでもやるんだが……」困った風の店主に、私は音を立てないようにそっと菓子箱を差し戻した。エリヤは目を少し細めただけで何も言わない。
店主は腕で礼をして箱を女中の手に触れさせた。
「あんた甘い物なら少しは食べるのか?貰い物のマシュマロなんだが」
「そんな、お気遣いなさらないで下さい。それにお菓子は後で」
「義兄様と一緒に食べたらいいわ」
「旦那様は甘い物は余りお好きではなかったはずですが……」女中は首を数秒傾げた後、「お抹茶受けとしてなら召し上がられるかもしれませんね。ありがとうございます」
私も二玉分の代金を支払い、店主に礼を言って暖簾を潜った。
「おっと」
走ってきた男を半歩譲って避ける。瞬く間に屋台の前に大行列ができていった。
(預言通り確かに忙しくなったな……しかし妙だ)
私が店を出た瞬間一気に方々から客が押し寄せてきた。まるでそれまで見えない壁に堰き止められていたかのような不自然な動きだ。
(半分は七十七羽のせい……まさかあれだけ大勢の人間まで預言で操れると言うのか?)
あの娘は一体……占い屋は郊外だったな。今度探りを入れてみるか……あの見透かされるような目、気になる。
と、逆流するように動く人影を一つ発見した。
「アレク殿?」
彼は人混みの中頭を忙しなく動かしている。探し人?
「アレク殿私だ!何かあったのか!?」
声が届き、振り向いてこちらに駆け寄ってくる。涼しい夜なのに額には玉の汗。
「どうした?人探しなら協力するが」
「ルザを知らないか!?彼女誠さんが戻って来るのに屋敷に帰ってなくて、朝どっか行ったきり政府館にも行ってないみたいで」
脳裏に今朝の密会の光景が過ぎる。
「見た。“白の星”梅袢の船着場で男と一緒に船から降りてきた」
「本当か!?」
「ああ。朝の九時頃に」
誘拐ならばみすみす見逃した事になる。とんだ失態だ。
「屋敷に行こう、聖者様達に話す」
話自体もそうだけど、それ以上にアレクがシルクさんを連れて帰って来たのに吃驚した。私服のシルクさんは半袖で、逞しい二の腕とシャツから突き出さんばかりの胸に思わず目が行ってしまう。こんな無防備な格好で何故誰も何も言わないのだろう。
「……私が見たのはそこまでだ」
屋敷の玄関には二人を除く調査団全員が揃っていた。デイシーさんは捜しに行ったまま、まだ戻って来ていない。
エルさんと誠さんは互いに目配せして頷き合う。
「ありがとうございますシルクさん。遅くなってしまいましたね、気を付けて帰って下さい。アレク君達も、協力ありがとうございました」
予想してなかった言葉。
「ま、誠さん?ルザは調査団の仲間です、探しに行かないと」
「そうですよ誠さん!」カーシュも僕に加勢してくれる。「今の話は間違いなく誘拐です。今すぐ梅袢に行って手分けして探しましょう!」
「私も手伝います。元は私が犯行を見過ごしたのが原因だ。責任を取らせて頂きたい。現地警察と協力すれば手遅れになる前に救出を」
ところが返ってきたのは「大丈夫だよ」エルさんの軽い言葉。
「彼女だって不死省の人間だ、自力で帰って来るさ。君等が出向く事は無い」
「ええ……それに誘拐と決め付けるには根拠が薄いかもしれません。シルクさんも明らかな犯罪性は感じなかったんですよね?」
「ですが現に彼女は帰って来ていません」
「ルザはまだ若い。遊びに行っただけだよ。だとしたらここで皆して騒いでるのはかなり馬鹿らしい光景だね」
「でも」今日は入院していた誠さんが帰って来る日。誰よりその帰宅を楽しみにしていたのに。
首を横に振り、「とにかく今日はもう遅い。クレオ、彼女が帰ってきたら団長としてキツいお灸を据えてやる事。はい、解散」一方的に宣言した。
食い下がろうとする僕等に向かってエルさんは手を叩き、「ほら、さっさと帰って寝る!」僕を除く三人は玄関から追い出されてしまった。
「おい、どうすんだよ」
ダイニングを歩き回りながら前にいるカーシュに問う。ちなみにここは彼の家だ。こんな遅くに来たのは親交を温めるためではなく。
「しっ」
月明かりに照らされた室内に小さな人影が伸びた。あれが追跡者か。
「オリオールか。マズいな、あいつは馬にも変身できて耳も鼻も利く、上手く撒くのは難しい相手だ」
屋敷で時々見かける青い髪の子供か。今日のサッカーでも素早しっこい動きで俺達を翻弄していたっけ。
「一人だけみたいだな。動きさえ止めれば行けそうだ。船はまだあるか?」
「船着場は見張られている可能性が高い。政府館の裏に政府員が自由に使えるドッグがある」
「こっちには操縦士のお前がいる。多分そっちも誰か置いているな」
「どっちにしろシャバムを出るには船がいる。強行突破するしかない」
本来ならトレジャーハント協会の借りた部屋には戻らず、適当に街を迂回してからクレオを迎えに行くはずだった。あいつが一番納得していない表情をしていたし、男三人いればそこそこの捜索はできる。
予定が狂ったのは二人で屋敷を出て百メートル程歩いた頃だった。背中に妙な違和感、誰かに見られているような感触を覚えたのだ。
『振り返るな』
後ろを確認しかけた俺を親友が声に出さず手だけで制す。
『つけられているのか?』目で問いをぶつけると首肯が返ってきた。
『取り合えず俺の家に行こう。このままウロウロしてても埒が明かない』
窓から覗かれない壁際の両側に寄り、相手の出方を窺う。
「不死族って気絶するのか?」
「その辺は人間と同じだ。気道を塞げば酸欠で倒れるし、後ろ頭を殴れば脳震盪を起こす。多少手荒にしても治るから普通の人間よりある意味楽だぜ」
「んな乱暴にはしねえよ」透宴をホルダーから出す。「こいつで首を絞める、どうだ?」
「オリオールは子供だ、どついた方が早いかもしれねえぞ。で、俺は囮になって気を引いてりゃいいのか?」
「話が早くて助かるぜ、サンキュー」
彼は玄関と逆の方を指差す。
「そっちが裏口だ、内鍵を開けて回り込め。俺は」
その時、窓の外で「ウエェェェッッッ!!」苦鳴らしき大声が聞こえた。壁ににじり寄って窓の端から覗き込む。
「お姉ちゃん、これ凄く不味いよう!!ぺっぺっ……口にずっと変な味があるぅ」
「ごめんねオリオール君~。でも良かった、明日これリサちゃんにあげるつもりだったんだ~」
「こんなのあげたら風邪が悪化しちゃうよ!僕が毒見して良かった……うぇ」
「そうだね~ありがとうオリオール君。今度お詫びに美味しいお菓子持って来るね~」
「うう……ちょっと口濯いでくる!お姉ちゃん、夜遅いんだからもう帰りなよ!ヘンシツシャが来ちゃうんだからね!」
「分かった~じゃあ、バイバイ~」
「バイバイ!ぺぺっ……」
タタタッと少年が離れていく足音。
コンコン。
「カーシュ君、早く出て来た方がいいよ~。あの子すぐ戻って来るから~」
「ああ」
友人がドアを開けて外に出た。俺も後に続く。童顔の新聞記者は眼鏡の奥からニッコリ笑った。
「アレクさんも一緒なんだね、一手間省けていい感じ~。後はクレオさんだけ~と」
俺達は足早に家を離れ、夜の商店街の人混みに入った。木を隠すなら森の中、と言う奴だ。――どうやら追跡は撒けたようだ。
「デイシー、さっきオリオールに何を食わせたんだ?」
「重曹玉ですよ~一見飴に見える。新聞社の大掃除の時に残っていたのを一つ拝借してきました~」
「新聞社?あれ、デイシーは墓地の方に行ってたんじゃ。そうだ、いなかったからシルクさんの話聞いてないだろ」
「それならさっき本人に直接聞きました~予想通り、先に新聞社に寄っておいてよかったです~」
彼女は広いポケットから折り畳んだ数枚のコピーを出しかけて仕舞った。
「そいつを調べに行ってたのか?」
「皆が揃ったら説明するね~それと、ルザちゃんの所へ行くには色々準備が必要だから、カーシュ君ちょっと付き合ってもらえる~?多分私の家に行けば揃うと思う」
指名されて友人の顔が僅かに赤らんだ。首をやや大袈裟に縦に振り、「おお、任せとけ!」
「ん?」熱い反応に困ったように首を傾げ、「そんなに頑張る仕事じゃないよ~。結界用の道具が嵩張って重いから手を貸して欲しいだけ~」
「結界??」おいおい、ルザは一体どこへ行ったんだ?
「ではアレクさん、ささ~っとクレオさんを連れ出してきて下さいね」余り急いでいない風に言う。「待ち合わせは飛龍乗り場なのですよ~」
「分かった」
バタンッ。玄関扉が閉まる。
「やれやれやっと静かになったよ。行こうか」
「うん……あ」誠さんの視線が僕と合う。
「クレオ、まだいたのかい?君も早く自分の部屋に戻った戻った」
「待って下さい!ルザはやっぱり誘拐されたんですか!?教えて下さい!」
「クレオ君……気持ちは分かりますが、その……」
エルさんが首を横に振って、「止めときなよ誠。こういうのははっきり言っておくべきさ」
「でも」
「クレオ、防衛団の彼女の目撃通りルザは誘拐された。今から僕達が連れ戻してくる。君は大人しくここで待っているように」
「船着場からの犯人の行き先は分かっているんですか?」
「ええ……梅袢の近くでルザに関係あるのはあの場所しか」誠さんは苦しそうに顔を歪め、「どうして……今更」
「留守は頼むよ。明日中には多分帰って来れない。調査団は執務室の机の書類を一センチでも片付けておく事、いいね」
「クレオ君、心配しないで……今日はもう休んで下さい」
辛そうな表情に考える間も無く「は、はい。お休みなさい」頷いてしまっていた。勿論眠れるはずもなく、自室をグルグルと歩き回る。
(僕も行きます、ってどうして言えなかったんだろう……)
ルザは死霊術士。強力かつ危険性の高い術を使うせいか、いつもツンとして調査団の皆から少し離れている。でも、
『上手ね。画家になれるんじゃないの?』
公園で風景の写生をしていた僕に彼女はそう声を掛けた。
『そうですか?多分描いている対象が良いからだと思います』
生き生きと遊ぶ子供達、満開の花壇、澄み切った青空。この宇宙にはエレミアには無い生命力が溢れている。そう説明すると、
『そのスケッチブック、そろそろ終わり?』
『いえ、まだ殆ど線を引いていません。描きたい物が沢山あり過ぎて、次は何に焦点を当てればいいか考えている所です。以前行った“碧の星”や“赤の星”の風景も描いてみたいですし、人物画も』
『そんなに描く物があるの?この宇宙に』
『?描きたい物ばかりです。エレミアも美しい場所でしたが……生命の輝きのあるここには遠く及びません。とにかく描いていて楽しいんです』
『あんたはもっとクールな奴だと思っていたわ。機械だし』
ルザはふぅんと言い、『学校の美術ではよくやっていたのよ、写生。下手だったけど』
『どんな物を描いたんですか?』
『一輪刺しの花瓶や広場の四天使像。一度デイシーと似顔絵を描き合った事もあるわ、お互い散々な結果だったとしか言いたくない。カーシュはそこそこ点数良かったみたい』
『面白そうですね。エレミアには学校自体無くて、アレクの説明では子供達が勉強する所としか』
街中にある政府館より一回り大きな白い建物。横を通る度にどんな勉強をしているんだろうと気にはなっていた。
『変なの。何なら今から行ってみる?』
『え!?でも僕は学生ではありませんよ?』
『大学の出欠は全部生徒任せ、部外者が授業受けてたって気付きゃしないわ。都合良く美術の授業をしているかは知らないけど』
『それなら……少しだけ行ってみたいです』
授業は丁度僕等が教室に入った時に始まった。美術の先生は鞄の中から写真を何枚か取り出し、それらを描く課題を出した。僕はどこかの船着場と思われる一枚を取り、教室に十架ぐらいあったイーゼルの一つに自分のスケッチブックを乗せ、隅に写真を置く。
写真を見比べ鉛筆を走らせ、すっかり僕は没頭していたらしい。完成して顔を上げた時、教室に十人程いたはずの生徒は既にいなかった。
『ん、できたか?連れの子は先に家に戻って待っているだとさ』
時計を見るともう夜の八時を過ぎていた。慌ててスケッチを切り取って提出する。
『よく描けてる。ほい』
先生は年間授業予定表と刻印された紙を僕にくれた。
『美術の授業はこの列とこの列、ここに教室番号書いてあるから確認しておくように。開けてる日なら好きな時間にくればいい』
教壇の机をガサガサ漁り、大学のパンフレットを取り出した。
『本格的に入学したくなったら俺に言え、編入届出すから。こいつは参考までに渡しとく』
先生はバンバン、と僕の肩を叩き、『説明は以上、早く帰らねえと彼女が臍曲げちまうぞ』
屋敷に帰ると夕食は終わったらしく、ダイニングはすっかり片付いていた。
『遅かったわね。はい』
『ありがとうございます』
盆に乗せられた夕食を摂る。ルザは向かい合わせで食後のお茶を飲み始めた。
大学の先生の事を話すと、『私が体験入学って言ったからよ』そう答えた。カップを口から外し、『あんたね、もしエレミアに帰る方法が何十年も見つからなかったらどうするつもり?最悪こっちで一生暮らす事になったら、生計は自分で立ててかなきゃならないのよ。調査も大事だけど、今の内からスキルを磨いておくに越した事はない』
ルザは顔を背け、『お父様はお優しいから言わないけれど政府の空間転移実験、捗々しくないらしいわ。そっちの分野は今まで殆ど手付かずだったもの、当然と言えば当然ね』
『ルザ、そこまで考えてくれていたんですか?僕、帰る事で頭が一杯で、帰れなかった時どうするかなんて全然』
『帰れるわよ。お父様が言ったでしょう、必ず帰すって。ここは宇宙中の技術と知識が集まる連合政府の膝元よ、絶対あんた達を戻してやるわ。私が言ったのは万が一の事態に備えて』
フン、お茶を一気に飲み干す。
『学費はエレミアに戻ってから返しに来てよね、利子付きで』
その日から僕はルザによく話し掛けるようになった。偶にまだ魂を諦め切れないロディ君に脅かされる事もあるけど、最近では彼も半分じゃれ合っているのだと分かった。杖から余り出してもらえないので、自由に話せる僕やアレクについ過剰なスキンシップを取ってしまうだけ。その証拠に別れの時はとても寂しそうな表情をする。内緒とは言え、年端のいかない彼には辛い環境だろう。
朝出掛ける時の彼女はそう言えばどことなく変だった。あの大きな鞄には何が入っていたのか。
カツンッ。何かが窓硝子に当たる音がした。
「何だろう……あ」
下を覗くと、植木の横でアレクが手を振って立っている。僕は鍵を外し窓を跳ね上げた。
「アレク!」
「大声出すな、中の連中に聞かれる」
「アレク、どうしてここへ?」小声で問う。
「お前を迎えに来たに決まってるだろ。剣は持ってるな?ロープか何か、伝えば下へ降りられそうな物は無いか?」
部屋を見渡してみるが、勿論そんな物が常備されている訳はない。
「ありません」
「だろうな。少し短いが俺の予備のロープを使おう」
地面に落ちていた拳より一回り大きな石にロープの片方を括り付ける。
「投げるぞ、しっかりキャッチしてくれ」
「はい」
石は僕が受け取るまでもなく、綺麗な放物線を描いて部屋の中へ飛び込んできた。凄いコントロール能力だ。
「ロープを外して窓から一番近い家具に結ぶんだ。体重を掛けても取れないぐらいきつくだぞ」
見回してベッドの脚の一本に決め、四重に固く縛り上げる。
「出来ました」
「よし。ロープを両手から離さず、足元が滑らないよう注意しながら降りて来い」
窓から垂れ下がったロープをしっかり掴み、壁に足を掛けて下降を始める。一階の窓の上に来た辺りでロープが無くなり、意を決して地面に飛び降りた。ドスンッ!思ったよりも大きな音。
「大丈夫か?行くぞ」
「どこへ?」
「飛龍乗り場だ、そこでカーシュ達と合流する」
歩きながらアレクは屋敷を出てからの出来事を話してくれた。僕も二人の会話を掻い摘んで話す。
「向こうで誠さん達と鉢合わせにならないように要注意だな」
営業時間の終わった乗り場は街灯だけで薄暗い。入口のチェーンを潜って入るとその先は丸太の通路だった。中空に突き出したまま道が途切れている。
「落ちないですか?」
「平気平気。しかし、早く着いちまったか?誰もいないみたいだ」
僕等がキョロキョロしていたその時、
ブオオオッッッッ!!!
「わっ!?」
真下で何かが光り、爆風と共にこちらへ上昇してきた。あれは、宇宙船だ!
小型船は乗り場でエンジンを掛けたまま空中停止した。入口が開く。
「早く乗れ!人が来る前に飛ぶぞ!」
カーシュの叫びに慌ててジャンプで乗り込む。僕等が船内に入ったと同時にドアが閉まった。……ん?
「今、船動いてますよね?カーシュが運転しているんじゃないんですか?」
船長の免許を持っているのは彼だけのはずだ。すると彼は事も無げに、「違う、運転してるのはシルクさん」
「ええっ!!?」
「本気か?免許は」
「ちゃんと持ってた。吃驚だろ?」
船の運転より一緒に来てくれる方が百倍、いや千倍驚くべき事だ。確かに唯一の目撃者で責任を感じているのは分かるけど、あの人は調査団ではない。なのに僕達に協力して政府の方針に背くなんて、バレたら罰があるんじゃ……。
「ど、どうしよう……カーシュ、シルクさんを降ろさないと」
「どうしましたクレオさん、泣きそうな顔して~?」
自動ドアが開き、デイシーさんが顔を出した。
「デイシーさん!このまま行ったらシルクさんは防衛団をく、首になってしまうんじゃ」
「ああ、それなら大丈夫ですよ~」
彼女はポケットから一枚の紙を取り出して、「契約書です、私達を運ぶための」
「シルクさんは現在休暇中、政府の服務規定により防衛団以外からのアルバイトをしても処分されない事になっています~」
「本当ですか?」
契約書には調査団の移送と護衛の旨、彼女とデイシーさんのサインが記されている。
「はい、但し明後日は出勤日らしいのでそれまでに戻って来ないと駄目です~」
書類を仕舞いこっちへおいでと手招きする。
「ずっと立っているのも疲れるよ、皆操縦室へどうぞ~」
以前カーシュの運転で乗った船?本人に確認してみるとやっぱりそうだった。
「俺が持っているキーはこの船のだけだしな。にしてもシルクさん、こんな癖のある船をあっさり乗りこなすなんて何者だ?操縦免許も俺の持ってない超大型クラスまで取得していたし……そもそも防衛団に操縦スキルは必須でなかったような気が」
コクピットの操縦席には、制服に似たデザインの私服を着たシルクさんが座っていた。壁にはいつものハルバードが立て掛けられている。
「――よし、自動航行への切り替え完了だ」くるっ。「二人共、大丈夫だったか?」
自分の方が余程大変なのに、窓から降りてきただけの僕を心配してくれるなんて!
「は、はい。誠さん達が出掛けた後らしくて、特に見張りもいなかったです」
「それは良かった。カーシュ殿、経路のチェックを頼む」
「ああ」
隣のコンピューターに座り、キーボードを叩いてスクリーンを切り替える。眼球を左右に動かし「完璧だ」溜息混じりに呟く。
「そうか」
「シルクさん。あんた、どこで操縦免許を?こいつは現在航行中の宇宙船の中でも最新型だ。なのに普段触っている俺と同レベルの操作をあっさりと……」
彼女は困ったような笑みを浮かべ、「機械などどれもそう変わらないさ。下手なボタンさえ押さなければどうとでもなる」
返答にカーシュの目が吊り上がったと同時に、シルクさんはサッと席を立つ。
「梅袢に到着するまで皆休憩しよう。目的地までしばらく歩くのだろうデイシー殿?」
「大体三十分ぐらいですね~。私お腹空きました~皆も晩御飯食べてないですよね~?カーシュ君、非常食料持って来て下さい~」
瑞々しい肌だ。懐かしさに、油断しているとずっと触っていたくなる。
もう必要の無くなった義体は倉庫に入れておこう。腕を持ち肩で抱え上げようとしたが女の力では重量を支えられそうにない。床を何メートルも引き摺ってようやく仕舞えた。
「ふぅ……」
男はとにかく重過ぎる。魂が飛んだ時点で内臓と同様、主要筋肉も機能を損なわない範囲で処理しておくべきだった。
リビングに戻って外界で購入したアールグレイを淹れ、久し振りに芳しい香りを楽しむ。
「ああ、そうだ……外はもう夜か」
今日の目的は果たした、ルザを起こして帰らせよう。魔方陣の使い方を記したメモを書いておけば、目一杯怪しみつつも村を通らずに出てくれるはずだ。
窓の外には黒い森、見上げた空は黄昏色。十数年、この地には日の光が無い。過日を風車のように回り続けるだけだ、私ごと。
「そうだ、――さんに何か持たせよう」
しかしそこからが悩みの始まりだ。この家の書物は死霊術とは凡そ縁の無い物ばかり、かと言って一般女性が好みそうな物も皆無。役立ちそうな物は……死霊を寄せるブローチ。駄目だ、こんな物を着けた日には五月蠅くて仕方ない。大体死霊寄せは死霊術の基本中の基本だ、当然彼女も使える。なら逆に死霊避けの護符は……いや、ルザの死霊が嫌がるだろうし、俺だって触るのも厭だ。素材を取りに行く際、作業を邪魔されないよう自作したものの、却って刺激して因縁をつけられた。厭な思い出だ。
「参ったな……いつもの事だが」
彼女の鞄が目に入った。これが何なのかは相変わらず分からないが、余程大事な物らしく肌身離さず持ち歩いていた。そう言えば人気の無い場所で処分したいと話していたな……よし。今までは開けずに放置していたが、今回は我が家のゴミと一緒に暖炉にくべて燃やしてしまおう。
再び倉庫の扉を開け、目を開けたまま転がる義体の隣の段ボールを次々暖炉の前へと移動させる。古くなって利用価値の無くなった素材や紙屑、乾燥しているのでよく燃えてくれるだろう。
燃え滓が部屋の中に飛ばないよう暖炉スペースに積み重ね、後は一番上に鞄を乗せて着火する所までセッティングした。
「さて……」
中を見てみたいと思うのは人間心理として当然だ。あれ程ルザが手放さなかった物、しかも――チャックの隙間から漏れる、悪寒の走る濃厚な死の匂い。薄い物なら今までにも何度か嗅いだ事はあるが、
ジーーーッ……。
「……げほ」余りの匂いに噎せ返った。中身を全部出して一つ摘み上げ観察する。
「高い魔力……全部同じ血か」
布地に残った痕跡だけでも相当な物だ。出血した相手はもう死んでいるかもしれない。素材に使えるかとも考えたが、ここはルザの希望通りこのまま処分しておこう。暖炉の上に布地を広げて置き、紙屑に魔術で火を点けた。
「よく燃えるな」
炎はあっと言う間にルザの心配を舐め尽し、魔力を吸ってボウボウと勢いが良い。
「燃ーえろよ燃えろーよ、炎よ燃ーえーろ、だったか。ん?」
気のせいか?今人の声が聞こえたような。
「確か前は……」
輪の中の村人はここまで来られないはずだし、勿論外界の人間がぽっと立ち寄れる場所でもない。鳥や虫、命あるものは周りの森を含め一切生息していない、音が立つ道理はない――あの世界と同じで。
――……わいい坊や……――
「―――成程。来たようだな」今度は玄関の方からはっきり聞こえた。奴だ。
バタンッ!