虐げられた側室の娘は、心を操る力で皇后と姉姫たちをメイドに堕とす
ヴァルテリア帝国の皇宮には、冬になると白い雪が降り積もる。
六歳のエリアナは、その雪景色を眺めながら、暖炉の前で一枚のハンカチに刺繍をしていた。
栗色の髪を肩まで伸ばした少女は、紫水晶のような瞳を細め、金色の糸を慎重に布へ通していく。
「……あっ!」
針が指先に刺さった。
小さな血の玉が浮かぶ。
「エリアナ。また指を刺したの?」
母のマリアンヌが椅子から立ち上がった。
彼女は腰まで届く黒髪と、澄んだ緑色の瞳を持つ美しい女性だった。皇帝の側室という身分にありながら、身につけているのは古い深緑色のドレスで、袖口には何度も繕った跡が残っていた。
マリアンヌは娘の前に膝をつき、傷ついた指を柔らかな布で包んだ。
「もう少しゆっくり縫いなさい。急ぐと、また怪我をしてしまうわ」
「でも、明日はお父様のお誕生日なの」
エリアナは唇を尖らせた。
「それまでに完成させたいの」
ハンカチには、帝国の紋章である鷲が刺繍されていた。
ただし、翼の大きさは左右で違い、金糸の縫い目も不揃いだった。
それでもマリアンヌは、宝石でも見つけたように微笑んだ。
「とても素敵な贈り物ね」
「本当?」
「ええ。お母様は大好きよ」
エリアナの顔が明るくなった。
「じゃあ、お父様も喜んでくださるかな?」
「きっと喜んでくださるわ」
「机に飾ってくださる?」
「そうね。飾ってくださるかもしれないわ」
少女は少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「それから……抱きしめてくださるかな?」
マリアンヌの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「お父様はお忙しい方だから……」
「でも、アウレリアお姉様は、いつも抱きしめてもらっているって言っていたわ」
母は答えなかった。
エリアナは首を傾げた。
「ねえ、お母様。どうしてお姉様たちはお父様の隣に座れるのに、私は駄目なの?」
「それは……」
「私も皇女様なのでしょう?」
マリアンヌは娘を抱き寄せた。
「もちろんよ。あなたは立派な皇女様」
「だったら、どうして?」
母は答えを探すように窓の外を見た。
「皇宮には、いろいろな決まりがあるの」
「そんな決まり、嫌い」
「そうね。お母様も、全部の決まりが好きなわけではないわ」
エリアナはしばらく考え、それから母の首に両腕を回した。
「じゃあ、私が大きくなったら変えてあげる!」
「何を?」
「決まりを全部!」
マリアンヌは小さく笑った。
「まあ、大変ね」
「そうしたら、お母様はどこにでも座れるの。お父様の隣でも、お庭でも、好きなところに!」
母は娘を強く抱きしめた。
「……ありがとう、エリアナ」
その声が震えていた理由を、少女はまだ知らなかった。
翌日、皇帝レオポルトの誕生を祝う宴が開かれた。
大広間には水晶のシャンデリアが輝き、貴族たちの華やかな衣装が大理石の床に映り込んでいた。
広間の最奥には、皇帝レオポルトが立っている。
濃い栗色の髪を後ろへ撫でつけ、紺色の軍服に数々の勲章をつけた、威厳ある男性だった。
その隣には皇后ヴィクトリアがいた。
長い金髪を美しく結い上げ、深紅のドレスとダイヤモンドの冠を身につけている。氷のように青い瞳は、周囲の貴族たちを当然のように見下ろしていた。
皇后のそばには、二人の皇女が並んでいた。
長女アウレリアは金色の巻き髪に桃色のドレスを合わせ、次女セシリアは灰金色の髪を白いリボンで結んでいる。
二人とも、エリアナよりずっと華やかだった。
「……綺麗」
エリアナが呟くと、マリアンヌは娘の髪を整えた。
「あなたも綺麗よ」
「私もいつか、あんな冠をつけられる?」
「ええ。いつか、きっと」
エリアナは嬉しそうに笑った。
母娘は皇帝への挨拶を待った。
しかし、一時間近く経っても順番は回ってこなかった。
ようやく近づけたと思ったとき、皇后ヴィクトリアが進路を塞いだ。
「あら、マリアンヌ。こんなところで何をしているの?」
マリアンヌは深く頭を下げた。
「皇后陛下。娘が皇帝陛下に贈り物をお渡ししたいと申しておりまして」
「贈り物?」
エリアナは緊張しながら、ハンカチを差し出した。
「私が作りました」
ヴィクトリアは二本の指でそれをつまみ上げた。
不揃いな刺繍を眺め、口元だけで笑う。
「まあ……可愛らしいこと」
エリアナの胸が高鳴った。
「お父様に直接お渡ししてもよろしいですか?」
「皇帝陛下はお忙しいのよ」
「でも、今日はお誕生日ですから……」
皇后の笑みが消えた。
「エリアナ。行儀のよい皇女は、大人が話しているときに口を挟まないものよ」
「申し訳ございません、陛下」
マリアンヌが娘の肩に手を置いた。
ヴィクトリアは近くの侍従にハンカチを渡した。
「ほかの贈り物と一緒に片づけておきなさい」
「あの、お父様は後で見てくださいますか?」
少女の問いに、皇后は振り返りもしなかった。
「お時間があればね」
その夜、エリアナは最後の客が帰るまで待った。
父から呼ばれることはなかった。
東宮へ戻ると、マリアンヌは窓辺の椅子に座り、片手で顔を覆っていた。
「お母様?」
母は慌てて振り向いた。
「どうしたの、エリアナ?」
「泣いているの?」
「いいえ。少し疲れただけよ」
頬には涙の跡が残っていた。
エリアナは母の膝に上り、小さな腕で抱きついた。
「泣かないで。来年はもっと上手に作るから」
「あなたは何も悪くないのよ」
「じゃあ……」
少女は母の胸に顔を埋めたまま尋ねた。
「どうして、お父様は私のことが好きじゃないの?」
マリアンヌはすぐに答えられなかった。
その沈黙が、幼いエリアナの胸に深く残った。
十年が過ぎた。
十六歳になったエリアナは、今も東宮の古い部屋で暮らしていた。
腰近くまで伸びた栗色の髪は緩やかに波打ち、白い肌と紫色の瞳は、宮廷の令嬢たちにも劣らぬ美しさを備えていた。
しかし、彼女の衣装は相変わらず質素だった。
その朝も、マリアンヌは娘のドレスの袖を縫い直していた。
「お母様、もう十分よ」
「もう少しだけ待ってちょうだい。この縫い目が気になるの」
「誰もそんなところまで見ないわ」
「お母様は見るもの」
エリアナは苦笑した。
薄青色のドレスは、かつてマリアンヌが着ていたものだった。古い生地を丁寧に直し、白いレースと細いリボンを加えている。
「アウレリアお姉様は、きっと新しいドレスでしょうね」
マリアンヌの手が止まった。
「そうかもしれないわね」
「セシリアお姉様も」
「エリアナ……」
「別に羨ましいわけじゃないの。このドレス、好きだもの」
母は娘の髪を優しく撫でた。
三十六歳になったマリアンヌは、以前より痩せていた。目の下には薄い隈があり、夜になると咳をすることも増えていた。
皇宮の医師に診察を頼んでも、側室の診察はいつも後回しにされる。
それでも、母は娘の前では笑っていた。
「ねえ、お母様」
「なあに?」
「私が大きくなったら、お家を買ってあげる」
「お家?」
「ええ。大きなお庭があって、朝から夕方までお日様が入る部屋があるの」
「素敵ね」
「それから、お料理をしてくれる人も雇うわ。お母様が毎朝早く起きなくてもいいように」
マリアンヌは笑った。
「それじゃあ、エリアナは何をするの?」
「本を読むわ。それから、お菓子作りも覚えたい」
「まあ。それなら丈夫な台所が必要ね」
「どうして?」
「あなたは昔、卵を割ろうとしてお皿まで割ったでしょう?」
「お母様! あれは小さい頃の話よ!」
二人は声を上げて笑った。
その時間だけは、皇宮の冷たい視線も、皇后の命令も、遠い世界の出来事に思えた。
しかし、その日の宴で、エリアナは再び現実を思い知らされることになった。
大広間に入った途端、周囲から囁き声が聞こえた。
「側室の娘だわ」
「まだ皇宮にいたのね」
「母親に似て美しいけれど、気の毒な立場ね」
エリアナは背筋を伸ばし、母と並んで歩いた。
案内された席は、珍しくセシリアの隣だった。
「エリアナ。久しぶりね」
セシリアは柔らかく微笑んだ。
灰金色の髪を丁寧に編み込み、紺青色のドレスを着ている。
「そのドレス、とても似合っているわ」
「ありがとうございます、お姉様」
「新しく作ったの?」
「いいえ。お母様の昔のドレスなの」
セシリアは一瞬、困ったような顔をした。
「そう……でも、本当に綺麗よ」
そのとき、アウレリアが杯を置いた。
「ちょっと待って。あなた、そこに座るつもり?」
十九歳になった長女は、真珠を縫いつけた象牙色のドレスをまとい、金色の巻き髪を肩に垂らしていた。
「侍従長から、こちらだと……」
「おかしいわね。側室の娘の席は、いつも向こうでしょう?」
アウレリアは広間の端を指した。
「私も皇帝陛下の娘です」
エリアナが答えると、姉は微笑んだ。
「ええ、そうね。でも、同じ父親を持っているからといって、何もかも同じになるわけではないでしょう?」
「お姉様、今日はお祝いの席ですから……」
セシリアが小声で止めようとした。
「私は席次の間違いを指摘しているだけよ」
そこへヴィクトリアが近づいてきた。
事情を聞いた皇后は、エリアナの椅子を運び去るよう給仕に命じた。
「ですが、陛下。席次はすでに……」
「私の命令が聞こえなかったの?」
給仕は慌てて椅子を下げた。
周囲の貴族たちが、気づかないふりをしながらこちらを見ている。
エリアナの頬が熱くなった。
「あなたが謝る必要はないわ」
ヴィクトリアは冷たく微笑んだ。
「母親が、自分の娘の立場を教えていないだけですもの」
少し離れたところにいたマリアンヌが歩み寄った。
「皇后陛下。娘が失礼をいたしました」
「マリアンヌ。ちょうどあなたの話をしていたところよ」
皇后はエリアナのドレスを眺めた。
「その服、見覚えがあるわ。あなたが昔着ていたものではなくて?」
「はい、陛下」
「まあ。娘にまで古着を着せるなんて」
アウレリアが小さく笑った。
セシリアは皿に視線を落としたままだった。
エリアナは拳を握った。
「お母様は、私のために何日もかけて直してくださったんです」
皇后の青い瞳が細められた。
「あなたに意見を求めたかしら?」
「いいえ。でも……」
「では、黙っていなさい」
マリアンヌが娘の手を握った。
「エリアナ、お願い」
「……お母様は、何も悪いことをしていません」
広間の空気が変わった。
ヴィクトリアは一歩前に出た。
「マリアンヌ。あなたの娘には、どうやら教育が必要なようね」
「陛下、どうかお許しください」
「跪きなさい」
マリアンヌは一瞬だけ動きを止めた。
それから、冷たい大理石の床に膝をついた。
「お母様……」
「娘を正しく育てられなかったことを謝罪なさい」
「……申し訳ございません、皇后陛下」
エリアナは父を見た。
皇帝レオポルトはすべてを見ていた。
目が合った。
「ヴィクトリア」
父が口を開いた。
エリアナの胸に希望が灯る。
しかし、続いた言葉は違った。
「客人たちを待たせている」
皇后は何事もなかったように微笑んだ。
「そうでしたわね、あなた」
そしてマリアンヌに告げた。
「もう下がってよろしいわ」
エリアナが母を支えると、その手は氷のように冷たかった。
その夜、東宮の部屋で、エリアナは母に尋ねた。
「どうして、いつも我慢するの?」
「エリアナ……」
「どうして、お母様が跪かなければならないの? 悪いのはあの人たちなのに!」
マリアンヌは娘の頬を両手で包んだ。
「よく聞いて。お母様は、あなたに誰かを憎んで生きてほしくないの」
「でも、私はあの人が嫌い」
「ええ」
「大嫌い。いなくなればいいって思うくらい」
母は娘を抱きしめた。
「その憎しみに、あなた自身を決めさせてはいけないわ」
「……どういう意味?」
「どんなに身分を奪われても、どんなにひどい扱いを受けても、自分がどんな人間になるかを選ぶ自由だけは、誰にも渡してはいけないということよ」
エリアナは母の胸に顔を埋めた。
信じたかった。
母の言葉が正しいと、心から信じたかった。
だが、翌朝、その願いは砕かれた。
アウレリアが、ダイヤモンドのブローチを盗まれたと騒ぎ始めたのだ。
ブローチはエリアナの部屋の引き出しから発見された。
もちろん、彼女に覚えはなかった。
それでも皇后ヴィクトリアは、エリアナに一週間の謹慎を命じ、マリアンヌへの支給金を停止すると告げた。
「それから、マリアンヌの部屋も移したほうがよさそうね」
ヴィクトリアは扇を閉じた。
「厨房の近くに、空いている部屋があったでしょう?」
エリアナの顔から血の気が引いた。
厨房近くの部屋は湿気が多く、冬にはひどく冷え込む。
体の弱い母がそんな場所へ移されたら、また病気になってしまう。
「それだけは……」
エリアナは震える声で言った。
「お母様は、体が弱いんです」
「だから何かしら?」
「そんな部屋へ移されたら、また病気になってしまいます」
「だったら、娘をきちんと教育しておくべきだったわね」
アウレリアは満足そうに微笑んだ。
セシリアは窓際に立ち、目を合わせようとしなかった。
エリアナは拳を握った。
十六年間、ずっと我慢してきた。
侮辱も、無視も、不公平な罰も。
父に認めてもらえる日を待っていた。
姉たちが自分を受け入れてくれる日を夢見ていた。
その間も、母は傷つけられ続けた。
ヴィクトリアが立ち上がった。
「エリアナ。跪きなさい」
エリアナは動かなかった。
「聞こえなかったの?」
皇后の声が鋭くなる。
「跪きなさいと言っているのよ」
エリアナはゆっくり顔を上げた。
紫色の瞳が、皇后の青い瞳と重なった。
その瞬間、胸の奥で何かが目覚めた。
冷たい指が心臓に触れたような感覚。
そして、不思議な確信。
自分の言葉が、相手の意志よりも強いものになる。
「……嫌です」
ヴィクトリアが眉をひそめた。
「何ですって?」
エリアナは一歩踏み出した。
「今度は、あなたが跪いてください」
皇后の膝が折れた。
硬い大理石に膝がぶつかり、鈍い音が響いた。
「きゃっ!」
アウレリアが悲鳴を上げた。
セシリアが後ずさる。
ヴィクトリアは両手を床につき、立ち上がろうとした。
しかし、足が動かなかった。
「な、何をしたの……?」
エリアナは目を見開いた。
自分でも、何が起きたのか理解できなかった。
だが、目の前にいる皇后の顔を見た瞬間、別の感情が湧き上がってきた。
恐怖。
屈辱。
そして、自分の体を思いどおりに動かせないことへの絶望。
それらが、すべてヴィクトリアの顔に浮かんでいた。
かつて母を何度も跪かせた女が、今、自分の前で膝をついている。
エリアナの唇が、ゆっくりと緩んだ。
「私がこの部屋を出るまで、立ち上がらないでください」
皇后は歯を食いしばった。
「この……!」
それでも立ち上がれなかった。
エリアナは扉へ向かった。
セシリアが震える声で尋ねた。
「エリアナ……あなた、何者なの?」
エリアナは振り返った。
十六年間、家族にこんな目で見られたことはなかった。
軽蔑でも、無関心でもない。
恐怖だった。
「……まだ、私にも分かりません」
そう答え、彼女は部屋を出た。
背後では、ヴァルテリア帝国の皇后が、冷たい床に跪いたままだった。
その日の午後、エリアナは自室に閉じこもっていた。
自分に何が起きたのか、確かめたかった。
そこへ、若い侍女が紅茶を運んできた。
「エリアナ殿下。お茶をお持ちいたしました」
侍女の名前はリリアといった。
茶色い髪を白い頭飾りの下にまとめ、灰色の長袖ワンピースに白いエプロンをつけている。丸い顔にはそばかすがあり、話すときには少し早口になる娘だった。
「リリア。少しお願いしてもいい?」
「もちろんでございます」
エリアナはためらった。
本当に試してもいいのだろうか。
しかし、好奇心が勝った。
彼女はリリアの目を見つめた。
「これから一分間、私が窓辺に立っていても、そのことを誰にも話さず、私から尋ねられたときも『誰もいません』と答えてください」
リリアは瞬きをした。
「……かしこまりました」
エリアナは窓辺へ歩いた。
「リリア。私が見える?」
「はい、殿下」
「では、窓辺には誰かいる?」
リリアの唇が震えた。
「……誰もおりません」
「本当に?」
リリアは困惑した顔で頷いた。
「はい……」
「でも、私がここにいることは分かっているのでしょう?」
「分かっております。殿下は窓辺にいらっしゃいます」
「では、どうして誰もいないと言ったの?」
「それは……」
リリアは口元を押さえた。
「申し訳ございません。そう答えなければならないのです」
エリアナの背筋に冷たいものが走った。
リリアは自分を見ている。
何が起きているのかも理解している。
それでも、命令に反する答えを口にできない。
やがて一分が過ぎた。
「……あっ」
リリアは深く息を吐いた。
「殿下、先ほどは失礼いたしました。私、窓辺にいらっしゃることを知っていたのに、どうしても本当のことを答えられませんでした」
「覚えているの?」
「はい。すべて覚えております」
エリアナは椅子に腰を下ろした。
つまり、この力は記憶を消すものではない。
相手の考えを自分の都合よく書き換えるものでもない。
ただ、相手が嫌だと思っていても、その体と言葉を命令に従わせる。
「……ありがとう、リリア。もう下がっていいわ」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ると、エリアナは自分の手を見つめた。
幼い頃、母から聞いた昔話を思い出した。
ある女帝が、病に倒れた息子を救うため、怪物から人の心を支配する力を授かった物語だった。
女帝はその力で敵を退け、息子を守った。
やがて、味方の心まで支配するようになった。
最後には、成長した息子が宮殿を去ろうとしたことを恐れ、塔の中に閉じ込めてしまった。
その物語を読み終えるたび、マリアンヌはこう言っていた。
『誰も嫌だと言えない場所に、本当の愛はないのよ』
エリアナは少しだけ怖くなった。
だが、皇后が跪いたときの光景を思い出すと、胸の奥に温かい満足感が広がった。
その感覚を、もう一度味わいたいと思ってしまった。
数日のうちに、エリアナは力の性質を理解していった。
相手の目を直接見つめ、言葉で命令する必要がある。
命令は視線を外しても続く。
一人につき、同時に維持できる命令は一つだけ。
新しい命令を与えれば、以前の命令は解ける。
そして、命令を受けた者は、自分が何をされたか覚えている。
強い信念に反する命令ほど、相手は激しく抵抗する。
それでも、最終的には従ってしまう。
エリアナは、まずブローチを自分の部屋に隠した侍従を探し出した。
男の目を見つめ、真実を話すよう命じる。
「アウレリア殿下でございます」
侍従は顔を青くしながら答えた。
「十枚の銀貨を渡され、エリアナ殿下の引き出しに入れるよう命じられました」
「そう」
エリアナは静かに頷いた。
予想していた答えだった。
しかし、初めて証拠を手に入れた。
これまで、自分の言葉は誰にも信じてもらえなかった。
今は違う。
相手に真実を語らせることができる。
そして、嘘をついた者に代償を払わせることもできる。
最初の標的は、アウレリアだった。
皇女の婚約披露宴は、皇宮の薔薇の間で開かれた。
白い大理石の柱には花の装飾が施され、天井からは金色の燭台が下がっていた。長い食卓には果物や菓子が並び、貴族たちが祝いの言葉を交わしている。
アウレリアは真珠を縫いつけた純白のドレスを着ていた。
胸元には繊細なレースが重なり、腰から広がる長いスカートには銀糸で薔薇が刺繍されている。
エリアナが姿を見せると、姉は露骨に顔をしかめた。
「まあ。あなたも来たの?」
「ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとう」
アウレリアは杯を持ち上げた。
「でも、今日は宝石がなくならないように気をつけなくてはいけないわね」
近くの令嬢たちが笑った。
エリアナは穏やかに微笑んだ。
「ご安心ください、お姉様」
「何が?」
「もう二度と、あのような誤解は起こりませんから」
アウレリアは鼻で笑った。
「そう願いたいものね」
エリアナは一歩近づいた。
「ところで、お姉様。一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何よ?」
エリアナは姉の青い瞳をまっすぐ見つめた。
「婚約者の方に、どうして結婚したいのか尋ねられたら、その理由を正直にお答えください。答え終えたら、自由にお話しして構いません」
アウレリアは一瞬、動きを止めた。
「……何を言っているの?」
エリアナは小さく微笑んだ。
「どうぞ、素敵な夜を」
それだけ言って離れた。
アウレリアは不快そうに眉をひそめたが、すぐに婚約者へ向き直った。
相手は北方の有力貴族、ラインハルト公爵家の嫡男だった。
背が高く、黒髪をきちんと整えた青年で、灰色の瞳には知性が感じられた。濃紺の礼服には家紋が銀糸で刺繍されている。
彼はアウレリアの手を取った。
「アウレリア殿下。改めて、私との婚約をお受けくださり感謝いたします」
「当然ですわ。私たちは、きっと素晴らしい夫婦になりますもの」
「そう願っています」
青年は少し照れたように笑った。
「ただ、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「殿下は、なぜ私との結婚を望まれたのですか?」
アウレリアは優雅に微笑んだ。
いつものように、相手を喜ばせる言葉を口にしようとした。
しかし、唇から出たのは別の言葉だった。
「あなたの領地が欲しいからですわ」
青年の笑顔が止まった。
「……はい?」
「ラインハルト家は三つの州を支配し、独自の軍勢も持っていますもの。お父様が亡くなったあと、私の立場を守るにはちょうどいい家ですわ」
アウレリアは自分の口を押さえた。
言うつもりなどなかった。
それでも、言葉が止まらない。
「それに、あなた自身にはあまり興味がありませんの。正直なところ、会話も退屈ですし」
周囲が静まり返った。
青年はゆっくり手を離した。
「……なるほど」
「ち、違いますの! 今のは……!」
「よく分かりました」
彼は深く頭を下げた。
「この婚約については、改めて家族と相談させていただきます」
「待って! ラインハルト様!」
アウレリアが腕を伸ばした。
しかし青年は振り返らなかった。
周囲の貴族たちは、聞こえなかったふりをしながら互いに視線を交わしている。
アウレリアの目に涙が浮かんだ。
「違うの……私は、こんなことを言うつもりじゃ……!」
その様子を、エリアナは少し離れた回廊から見つめていた。
姉の化粧が涙で崩れ、白いドレスの裾が乱れる。
エリアナは静かに息を吐いた。
不思議だった。
かつては、姉に少し優しくされるだけで嬉しかった。
同じ食卓に座れるだけで幸せだった。
今は、姉が泣いている姿を見て、胸の奥が満たされていく。
「……これで、少しは分かったかしら」
誰にも聞こえない声で呟いた。
しかし、その満足は長く続かなかった。
もっと見たい。
もっと、あの誇り高い顔が歪むところを見たい。
そんな思いが、心の奥で芽生え始めていた。
二日後、セシリアが東宮を訪ねてきた。
「エリアナ。話があるの」
彼女は紺青色のドレスに白い肩掛けを羽織っていた。普段は穏やかな青灰色の瞳も、今日は不安そうに揺れていた。
「アウレリアお姉様の披露宴で、あなたは何をしたの?」
「何のことでしょう?」
「とぼけないで」
セシリアは唇を噛んだ。
「皇后陛下が、あなたの前で突然跪いたという話も聞いたわ」
エリアナは答えなかった。
「何かの魔法を使ったのでしょう?」
「そうだとしたら?」
セシリアの顔が青ざめた。
「やっぱり……」
彼女は両手を握りしめた。
「お願い、もうやめて。こんなことを続けたら、家族が壊れてしまうわ」
エリアナは小さく笑った。
「家族?」
「エリアナ……」
「私たちは家族だったのですか?」
セシリアは言葉に詰まった。
エリアナは静かに続けた。
「お姉様が昔、お菓子を分けてくださったことは覚えています。私に本を貸してくださったことも」
「だったら……」
「でも、アウレリアお姉様が私を泥棒に仕立てたとき、何も言いませんでしたよね」
セシリアは目を伏せた。
「……ええ」
エリアナは息を呑んだ。
初めて聞く、はっきりした肯定だった。
「知っていたのですか?」
「……知っていたわ」
「どうして、黙っていたの?」
セシリアは震える声で答えた。
「お母様に逆らうのが怖かったの」
「私も怖かった」
「分かっているわ」
「では、どうしてお姉様の恐怖だけが、私の苦しみより大切だったのですか?」
セシリアは答えられなかった。
部屋の外で鳥が鳴いた。
エリアナはその声を聞きながら、幼い頃のことを思い出していた。
セシリアがこっそり持ってきてくれた蜂蜜菓子。
読み終えた物語の本。
庭園の隅で交わした短い会話。
あの頃は、それだけで姉が自分を好きでいてくれると思っていた。
「……今からでも、何とかできるわ」
セシリアが言った。
「私がお父様にお願いする。あなたとマリアンヌ様が、宮廷から離れた静かな屋敷で暮らせるように」
エリアナは顔を上げた。
「私たちを追い出すのですか?」
「違うわ。守りたいの」
「私たちがいなくなれば、元どおりですものね」
「そういう意味じゃ……」
「お姉様」
エリアナは立ち上がった。
「私を見てください」
セシリアは何かを察した。
慌てて目を逸らそうとしたが、遅かった。
紫色の瞳が、彼女の視線を捉えていた。
「明日の皇帝陛下の御前で、ブローチの件と、皇后陛下がお母様にしてきたことをすべて話してください。話し終えるまで、嘘をついたり隠したりしてはいけません」
セシリアの肩が震えた。
「……嫌よ」
その声には、まだ抵抗が残っていた。
「エリアナ、お願い……」
エリアナは視線を外した。
「お姉様にも、私を助ける機会はあったのです」
翌朝、セシリアは皇帝の前で真実を語った。
アウレリアがブローチを隠させたこと。
ヴィクトリアがマリアンヌに理不尽な罰を与えてきたこと。
そして、自分がすべてを知りながら黙っていたこと。
レオポルトは調査を命じた。
だが、皇后はすぐに動いた。
エリアナが禁じられた精神魔法を使っていると告発したのだ。
その夜、エリアナは近衛兵に拘束された。
連れていかれたのは、東の塔の地下にある古い石室だった。
窓はなく、湿った石壁には燭台が一つだけ取りつけられている。
しばらくして、扉が開いた。
現れたのはヴィクトリアだった。
深い紫色のドレスに黒い手袋を合わせ、肩には毛皮の短い外套を羽織っている。
そして、顔の前には黒いレースのヴェールが垂れていた。
エリアナはその姿を見て、胸が冷たくなるのを感じた。
皇后は、力の条件に気づいていた。
「母親から、身の程を知るように教わらなかったの?」
「お母様はどこですか?」
「監視の下にいるわ。安心なさい。まだ生きている」
「お母様に何かしたら……」
「何をするつもり?」
皇后は楽しそうに笑った。
「あなたの力は、相手の目を見る必要があるのでしょう?」
エリアナは黙った。
ヴィクトリアはヴェールを指で整えた。
「残念だったわね。同じ失敗を二度もするほど、私は愚かではないの」
「いつまでも私を閉じ込めておくことはできません」
「その必要はないわ」
皇后は冷たく答えた。
「明日、皇帝陛下の前で正式に裁かれることになる。アウレリアはあなたに婚約を壊されたと訴えるでしょう。セシリアも、自分の意志に反して証言させられたと話すはずよ」
「セシリアお姉様が話したことは真実です」
「真実?」
ヴィクトリアは鼻で笑った。
「禁じられた魔法が関わった時点で、真実など誰にも分からなくなるのよ」
彼女は扉へ向かった。
「それから、マリアンヌには修道院へ移ってもらうつもりよ」
エリアナの心臓が跳ねた。
「……何ですって?」
「静かな場所よ。もう皇宮の争いに巻き込まれることもないでしょう」
「そんなこと、許しません!」
皇后は振り返った。
黒いヴェールの奥で、青い瞳がかすかに光った。
「あなたの弱点は昔から変わらないわね、エリアナ」
「……」
「いつだって、失うのが怖いものを持っている」
扉が閉まった。
エリアナはしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥から、幼い頃の恐怖が蘇ってくる。
何もできなかった自分。
泣いている母。
助けてくれない父。
冷たく笑う皇后。
けれど、今は違う。
エリアナはゆっくり息を吐いた。
皇后は自分の力を理解していた。
だが、その力を過小評価していた。
人の心を支配できるということは、単に跪かせることではない。
扉を開けさせることもできる。
秘密を話させることもできる。
誰かに、自分の味方をさせることもできる。
エリアナは衛兵の交代を待った。
やがて、一人の若い兵士が水差しを持って入ってきた。
「殿下。お水です」
「ありがとう」
エリアナは静かに答えた。
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「……何でしょう」
「母は無事ですか?」
兵士は視線を落とした。
「お答えできません」
「お願い。生きているかどうかだけでいいの」
兵士はためらった。
そして、一瞬だけ顔を上げた。
その瞬間、エリアナは目を合わせた。
「この扉を開け、私を母の部屋まで案内してください。そこに着くまで、私を止めようとは思わないで」
兵士の指が震えた。
鍵束が小さく鳴る。
「……かしこまりました」
扉が開いた。
エリアナは走らなかった。
落ち着いて廊下を歩いた。
これまで彼女は、力を持つこととは、誰かを正面から打ち負かすことだと思っていた。
しかし、そうではなかった。
必要な人間を、必要なときに動かせばいい。
それだけで、閉ざされた扉はいくらでも開くのだ。
マリアンヌは窓辺で刺繍をしていた。
エリアナが部屋に入ると、針仕事を床に落とした。
「エリアナ!」
母は駆け寄り、娘を抱きしめた。
エリアナも強く抱き返した。
「お母様……!」
久しぶりに、泣きそうになった。
「ひどいことはされていない?」
「私は大丈夫よ。それより、あなたが禁じられた魔法を使ったと聞いたわ」
エリアナは答えなかった。
マリアンヌは娘の肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「本当なの?」
「……あの人たちは、ずっと私たちを苦しめてきたわ」
「エリアナ。それは答えになっていない」
娘は唇を噛んだ。
「……本当よ」
マリアンヌは目を閉じた。
「それなら、ここを出ましょう」
「嫌」
「エリアナ。今ならまだ……」
「逃げたくない!」
マリアンヌは驚いて一歩下がった。
娘がこんな声を出したことは、ほとんどなかった。
エリアナはすぐに俯いた。
「……ごめんなさい。怒鳴るつもりじゃなかったの」
マリアンヌはそっと頬に触れた。
「あなたは、誰かに自分の価値を証明する必要なんてないのよ」
エリアナは母を見つめた。
この人と一緒に皇宮を出る。
静かな家で暮らす。
庭に花を植え、本を読み、時には一緒にお菓子を焼く。
かつて夢見た生活が、目の前に浮かんだ。
ほんの一瞬、エリアナはその未来を選びかけた。
だが、皇后が自分の前に跪いた光景が蘇った。
アウレリアが泣き崩れた顔も。
あの瞬間に感じた満足を、もう手放したくなかった。
「お母様。ここで待っていて」
「どこへ行くの?」
エリアナは母の額に口づけた。
「終わらせてくるわ」
翌朝、皇帝の御前会議が開かれた。
玉座の間には大臣、貴族、近衛兵が集められていた。
レオポルトは黄金の玉座に座り、その隣には黒いヴェールをかけたヴィクトリアが立っていた。
アウレリアとセシリアも列席している。
皇后が告発状を読み上げようとしたとき、大扉が開いた。
エリアナが入ってきた。
その両側には、二人の近衛兵が付き従っている。
「……エリアナ?」
皇帝が眉をひそめた。
ヴィクトリアは顔色を変えた。
「衛兵! その娘を捕らえなさい!」
しかし、エリアナのそばにいる兵士たちは動かなかった。
彼らはすでに命令を受けていた。
エリアナを守り、彼女が玉座の前へ進むのを妨げないように、と。
「皇后陛下」
エリアナは静かに言った。
「私を裁く前に、一つだけ確認していただきたいことがあります」
「黙りなさい!」
ヴィクトリアが叫んだ。
エリアナは答えず、玉座の前で立ち止まった。
「お父様」
レオポルトが娘を見下ろした。
「何のつもりだ?」
「十六年間、一度も聞いてくださらなかったことを、今日は聞いていただきたいのです」
「ここは私情を訴える場所ではない」
「では、私が盗みを働いたという告発については?」
皇帝は口を閉じた。
エリアナは続けた。
「ブローチを私の部屋に隠した侍従がいます。その者の証言も、セシリアお姉様の証言も、すでに記録されているはずです」
大臣の一人が頷いた。
「確かに、証言はございます」
ヴィクトリアが鋭く言った。
「精神魔法によって強要された証言ですわ!」
「それでは、お母様が長年受けてきた仕打ちは?」
エリアナは皇后を見た。
「私が六歳の頃、お父様への贈り物を取り上げたことも、母を大広間で跪かせたことも、すべて魔法のせいですか?」
ヴィクトリアは答えなかった。
エリアナは父に向き直った。
「お父様。あの日、私と目が合いましたよね」
レオポルトの表情がわずかに動いた。
「お母様が床に跪かされていたとき、私を見ましたよね」
「……エリアナ」
「どうして助けてくださらなかったのですか?」
皇帝は答えなかった。
十年前と同じ沈黙だった。
エリアナは小さく笑った。
「そうですか」
その声に、幼い頃の期待はもう残っていなかった。
「もう、答えていただかなくても結構です」
彼女は一歩近づいた。
「ただ、私の目を見てください」
レオポルトは娘を見た。
その瞬間、紫色の瞳が灰色の瞳を捉えた。
「この場で私が何をしても、命令を出さず、玉座に座ったまま見届けてください」
皇帝の体が強張った。
「な……」
立ち上がろうとした膝が、途中で止まった。
レオポルトは玉座の肘掛けを握りしめた。
「エリアナ……貴様……!」
「ようやく、私の名前を呼んでくださいましたね」
エリアナは微笑んだ。
「お父様」
玉座の間が騒然となった。
ヴィクトリアが後ずさる。
「近づかないで!」
エリアナはゆっくり歩いた。
「皇后陛下。どうしてそんなに怯えていらっしゃるのですか?」
「あなたは化け物よ!」
「そうかもしれません」
エリアナは足を止めた。
「でも、その化け物を育てたのは、この皇宮です」
ヴィクトリアはヴェールを押さえた。
「私の目を見ることはできないわ!」
「ええ。今は」
エリアナは近くに立つ侍女へ目を向けた。
「そのヴェールを外してください」
侍女はためらった。
だが、エリアナと視線が合い、同じ命令を繰り返されると、その手が動いた。
「やめなさい!」
ヴィクトリアが叫ぶ。
黒いレースが引き上げられた。
皇后の青い瞳が露わになる。
エリアナは、かつて自分を見下ろしたその瞳をまっすぐ見つめた。
「ヴィクトリア様。これからは、私の専属侍女として働いてください。私がその役目を解くまで、与えられた仕事を拒まず、命令に従ってください」
ヴィクトリアの顔が歪んだ。
「嫌よ……!」
その声には、心からの拒絶が込められていた。
「私は皇后よ! あなたのような側室の娘に……!」
しかし、足は動いた。
彼女はエリアナの前まで歩き、震える膝を折った。
「……ご命令を、お聞きいたします」
涙が頬を伝った。
エリアナはその顔を見下ろした。
「顔を上げてください」
ヴィクトリアは顔を上げた。
その瞳には、憎しみが宿っていた。
エリアナは微笑んだ。
「よかった。ちゃんと私を嫌っていらっしゃる」
「……!」
「安心しました。あなたが何も感じなくなってしまったら、私が何をしているのか、分かっていただけませんもの」
アウレリアが悲鳴を上げた。
「お母様!」
エリアナは姉へ向き直った。
「次は、お姉様です」
「来ないで!」
アウレリアは後ずさった。
真珠の首飾りが胸元で激しく揺れる。
「私に何かしたら、許さないわ!」
「許してくださらなくて結構です」
エリアナは静かに答えた。
「私も、ずっと許していただけませんでしたから」
逃げようとしたアウレリアを、扉の前にいた兵士が止めた。
彼女は振り返り、思わずエリアナと目を合わせた。
「お姉様も、今日から私の専属侍女になってください。役目を解かれるまで、与えられた仕事を拒まないでください」
アウレリアは首を振った。
「嫌……嫌よ……!」
それでも、体はエリアナの前へ進んだ。
彼女は泣きながら膝をついた。
エリアナは最後にセシリアを見た。
次女は逃げなかった。
ただ、青灰色の瞳に涙を浮かべ、震えていた。
「……私も、同じなのね」
エリアナは頷いた。
「ええ」
「謝っても、駄目?」
エリアナは少しだけ黙った。
昔、セシリアが分けてくれた蜂蜜菓子を思い出した。
あの頃の自分なら、きっと許しただろう。
「お姉様」
エリアナは言った。
「私が困っていたとき、お姉様は助けてくださいませんでした」
「……ええ」
「でも、今は助けてほしいのですね」
セシリアは涙を拭った。
「そうね……」
エリアナは彼女の目を見つめた。
「お姉様も、私の専属侍女として働いてください。役目を解かれるまで、与えられた仕事を拒まないでください」
セシリアは目を閉じた。
「……分かったわ」
その返事が本人の意志によるものだったのか、魔法によるものだったのか。
エリアナには、もうどうでもよかった。
その日のうちに、皇宮の権力は大きく変わった。
皇帝レオポルトは玉座に座ったまま、何も命じられなかった。
大臣たちは混乱したが、皇帝が反対しない以上、誰も即座に動くことができなかった。
エリアナは近衛兵の一部を掌握し、皇后の側近たちを職務から外した。
そして、宮廷の記録を調べさせた。
マリアンヌへの支給金が不当に減らされていたこと。
彼女の診察依頼が繰り返し後回しにされていたこと。
皇后の命令によって、東宮の修繕が止められていたこと。
次々と事実が明らかになった。
その報告を受けるたび、エリアナは静かに頷いた。
以前なら、怒りで泣いていただろう。
今は違った。
誰を罰し、誰を動かせばいいのか。
それを考えるだけでよかった。
数週間後、宮廷では新たな宣言が行われた。
レオポルトは娘の前に立ち、用意された退位の文書を読み上げた。
彼が自ら望んだ言葉ではなかった。
だが、エリアナの命令に従い、最後まで読み上げた。
こうして、エリアナはヴァルテリア帝国の女帝となった。
戴冠式の日、彼女は白と金の礼装をまとっていた。
腰まで届く栗色の髪には小さな宝石が編み込まれ、紫色の瞳は黄金の冠の下で静かに輝いていた。
その背後には、三人の女性が控えていた。
ヴィクトリア。
アウレリア。
セシリア。
かつて皇后と皇女だった彼女たちは、今では揃いの侍女服を着ていた。
黒い長袖のドレスに、白いエプロン。
首元には小さな白いリボンが結ばれている。
ヴィクトリアの長い金髪は、白い頭飾りの下にまとめられていた。
アウレリアはかつて自慢していた真珠の首飾りを外され、セシリアも華やかなドレスを失っていた。
三人はエリアナの後ろで頭を下げた。
だが、その表情は同じではなかった。
ヴィクトリアは憎しみに満ちた目で床を睨んでいた。
アウレリアは屈辱に唇を噛み、涙をこらえていた。
セシリアだけは、どこか諦めたような顔をしていた。
エリアナは振り返った。
「ヴィクトリア」
「……はい、陛下」
「私の冠が曲がっていないか、見てください」
元皇后の手が震えた。
「……少し、右に傾いております」
「では、直してください」
ヴィクトリアはエリアナの前に立った。
かつて自分が娘たちにさせていたように、冠の位置を丁寧に整える。
その指先が、ほんの少し震えていた。
「……これで、よろしいでしょうか」
「ええ。ありがとう」
エリアナは微笑んだ。
「あなたは、本当に優秀な侍女ですね」
ヴィクトリアの目に涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます、陛下」
その言葉を口にした瞬間、彼女は唇を強く噛んだ。
心の中では、今すぐ目の前の少女を罵りたかった。
だが、侍女としての務めを拒むことはできない。
エリアナはその苦しみを理解していた。
理解したうえで、満足していた。
戴冠式のあと、彼女は三人を連れて新しい私室へ戻った。
そこは、かつて皇后ヴィクトリアが使っていた部屋だった。
大きな窓からは庭園が見渡せ、白い大理石の床には柔らかな絨毯が敷かれている。
壁には美しい絵画が飾られ、寝台には薄い絹の天蓋がかかっていた。
エリアナは鏡の前に立った。
「アウレリア。髪を整えてください」
「……かしこまりました」
姉は櫛を手に取り、エリアナの髪を梳き始めた。
かつて自分の侍女たちに命じていた仕事だった。
今は、妹の髪を整えている。
「痛いです、お姉様」
エリアナが言うと、アウレリアの手が止まった。
「も、申し訳ございません……」
「もう少し優しくしてくださいね」
「……はい」
エリアナは鏡越しに姉を見た。
青い瞳には涙が浮かんでいた。
「どうして泣いているのですか?」
「……何でも、ございません」
「そうですか」
エリアナは微笑んだ。
「では、続きをお願いします」
セシリアは茶器を並べていた。
ヴィクトリアは窓辺の花瓶に新しい花を生けている。
かつて自分と母を見下していた三人が、今では自分のために働いている。
エリアナは満足そうに息を吐いた。
そのとき、扉が叩かれた。
「エリアナ」
聞き慣れた声だった。
「お母様!」
エリアナは立ち上がった。
扉が開き、マリアンヌが入ってきた。
彼女は新しく仕立てられた深緑色のドレスを着ていた。首元には小さな真珠の首飾りがあり、黒髪も丁寧に結い上げられている。
以前より顔色はよくなっていた。
医師による診察も受けられるようになり、暖かい部屋で暮らせるようになったのだ。
エリアナは嬉しそうに駆け寄った。
「お母様、見てください!」
「エリアナ……」
「もう、誰も私たちを侮辱できません。お母様は好きな部屋に住めるし、欲しいものは何でも手に入ります」
マリアンヌは娘を見つめた。
「……そうね」
「それに、ヴィクトリアたちも私たちのために働いてくれるんです」
エリアナは振り返った。
「ヴィクトリア。お母様にご挨拶してください」
元皇后はゆっくり歩み寄った。
かつて自分が何度も跪かせた女性の前に立つ。
その顔は青ざめていた。
「……マリアンヌ様」
ヴィクトリアは深く頭を下げた。
「本日より、誠心誠意お仕えいたします」
マリアンヌの目が大きく見開かれた。
「ヴィクトリア様……?」
「どうぞ、何なりとお申しつけください」
その声は震えていた。
マリアンヌは娘を見た。
「エリアナ。これは、どういうことなの?」
「見てのとおりです」
エリアナは微笑んだ。
「今度は、あの人たちがお母様に頭を下げる番なんです」
マリアンヌはヴィクトリアの顔を見た。
元皇后の目には、消えることのない屈辱が浮かんでいた。
アウレリアは涙をこらえ、セシリアは俯いている。
マリアンヌはゆっくり息を吸った。
「……エリアナ。二人で話しましょう」
娘は少し驚いた。
「ここでは駄目ですか?」
「お願い」
マリアンヌの声は静かだった。
だが、その表情には、エリアナが見たことのない悲しみが浮かんでいた。
エリアナは三人の侍女に下がるよう告げた。
扉が閉まる。
部屋には母娘だけが残された。
「エリアナ」
マリアンヌは娘の手を取った。
「あなたが、私のためにしてくれたことは分かっているわ」
「だったら……」
「でも、これは違う」
エリアナの笑顔が止まった。
「何が違うのですか?」
「ヴィクトリア様たちを、自由のない人間にしてしまったことよ」
エリアナは眉をひそめた。
「私たちには、最初から自由なんてありませんでした」
「それでも……」
「お母様は、何度あの人の前で跪きましたか?」
マリアンヌは言葉を失った。
エリアナは続けた。
「寒い部屋に移されそうになったことも、支給金を止められたことも、全部覚えています」
「エリアナ……」
「私はもう、二度とお母様を泣かせたくないんです」
マリアンヌは娘へ近づいた。
「その気持ちは嬉しいわ。でも、今のあなたは……」
「今の私は?」
マリアンヌは唇を震わせた。
「……あの人たちと同じことをしている」
エリアナの表情が消えた。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
窓の外では、庭師たちが花壇の手入れをしていた。
遠くから、小鳥の鳴き声が聞こえる。
エリアナはゆっくり視線を落とした。
「……ひどいことを言うんですね、お母様」
マリアンヌは娘の前に膝をついた。
それは、誰かに命じられたからではなかった。
娘と同じ高さで話したかったのだ。
「ごめんなさい。でも、言わなければならないの」
エリアナは母を見つめた。
「私は、お母様を守ったのに」
「分かっているわ」
「もう誰にも侮辱されないようにしたのに」
「ええ」
「それなのに、お母様まで私を責めるの?」
マリアンヌの目に涙が浮かんだ。
「責めたいわけではないの」
彼女は娘の手を握った。
「ただ、あなたに幸せになってほしいのよ」
「私は幸せです」
「本当に?」
エリアナは答えられなかった。
マリアンヌは優しく続けた。
「昔、私に言ってくれたでしょう? 大きなお庭のある家を買ってくれるって」
エリアナは目を見開いた。
覚えていた。
古いドレスを着ていた頃。
まだ、母と二人で笑うだけで満足できた頃。
「……覚えています」
「今からでも遅くないわ」
マリアンヌは微笑んだ。
「ここを出ましょう。静かなところで、二人で暮らしましょう」
エリアナは窓の外を見た。
美しい庭園。
豪華な家具。
自分のために用意された衣装。
そして、扉の向こうで命令を待つ三人の女たち。
かつて自分を見下していた人間が、今では頭を下げる。
それを手放すことなど、もう考えられなかった。
「……嫌です」
マリアンヌは目を閉じた。
「エリアナ……」
「私はここにいます」
「それでは、あなたは……」
母の声が震えた。
「自分が何者だったのか、忘れてしまうわ」
その言葉は、エリアナの胸を深く刺した。
皇后から浴びせられたどんな侮辱よりも痛かった。
アウレリアに笑われたときよりも。
父に無視されたときよりも。
ずっと。
マリアンヌは、唯一自分を愛してくれた人だった。
どんなに貧しくても、どんなに惨めでも、いつも自分の味方でいてくれた。
それなのに、今は悲しそうな顔をしている。
エリアナは思った。
どうして。
どうして、ようやくすべてを手に入れたのに。
お母様は喜んでくれないのだろう。
そのとき、一つの考えが浮かんだ。
ヴィクトリアを跪かせることができた。
アウレリアとセシリアを侍女にすることもできた。
父を玉座に座らせたまま、何も言わせないこともできた。
ならば。
母の悲しみを、見なくて済む方法もあるのではないか。
エリアナはゆっくり顔を上げた。
「……お母様」
マリアンヌは涙を拭った。
「なあに、エリアナ?」
「私を見てください」
緑色の瞳が、紫色の瞳と重なった。
エリアナの胸の奥で、あの冷たい力が目覚める。
一瞬だけ、ためらった。
幼い頃、母が教えてくれた言葉が蘇る。
『自分がどんな人間になるかを選ぶ自由だけは、誰にも渡してはいけないのよ』
エリアナは、その意味を理解していた。
今、自分が何をしようとしているのかも。
それでも、選んだ。
「お母様。これからは、私が許可するまで、私の決断を責めたり、やめるよう説得したりしないでください。私が何をしても、今までと同じように優しく接してください」
マリアンヌの瞳が揺れた。
「……エリアナ?」
その声には、まだ拒絶する意志が残っていた。
母の手が、娘の手を強く握った。
「やめ……」
言葉が途切れた。
マリアンヌは必死に口を開こうとした。
言わなければならないことがあった。
娘が間違った道を進んでいること。
誰かを傷つけても、過去の苦しみは消えないこと。
そして、今からでも引き返せること。
しかし、どれほど言葉を探しても、喉から出てこなかった。
「……エリアナ」
ようやく呼べたのは、娘の名前だけだった。
エリアナは母を見つめた。
「お母様?」
マリアンヌの目から涙がこぼれた。
それでも、彼女は娘の頬に手を伸ばした。
いつもと同じ、優しい手つきだった。
「……大きくなったわね」
エリアナは息を呑んだ。
その声は昔と同じだった。
六歳の頃、刺繍で指を刺したときも。
十六歳になって、古いドレスを直してもらったときも。
泣きながら抱きしめてもらった夜も。
いつも、こうして髪を撫でてくれた。
だが、今の母の目には悲しみが残っていた。
消えていない。
エリアナはそれを理解した。
自分の魔法では、母の心まで変えることはできない。
母は今も、自分が間違っていると思っている。
それでも、もう責めることはできない。
止めることもできない。
エリアナは母の手を握った。
「……お母様」
「なあに?」
「私のこと、嫌いになりましたか?」
マリアンヌは驚いたように目を見開いた。
それから、首を横に振った。
「いいえ」
その答えは、命令によるものではなかった。
「あなたは、私の大切な娘よ」
エリアナの胸が温かくなった。
「……よかった」
母は娘を抱きしめた。
その腕は、昔と変わらず優しかった。
しかし、マリアンヌの胸の中では、別の感情が渦巻いていた。
恐怖。
悲しみ。
そして、どうしても娘を止めたいという願い。
けれど、その願いを口にすることはできなかった。
エリアナは母の肩に顔を埋めた。
「もう大丈夫です、お母様」
マリアンヌの腕が震えた。
「これからは、ずっと一緒にいられます」
母は何も答えなかった。
エリアナは小さな呼び鈴を鳴らした。
扉が開いた。
ヴィクトリアが先頭に立ち、アウレリアとセシリアが続いて入ってきた。
三人とも黒と白の侍女服を着ていた。
「お呼びでしょうか、陛下」
ヴィクトリアが頭を下げた。
エリアナは空になった茶杯を持ち上げた。
「紅茶が冷めてしまいました。新しいものをお願いします」
「かしこまりました」
ヴィクトリアは茶器を下げた。
アウレリアが盆を受け取り、セシリアが新しいカップを並べる。
マリアンヌはその様子を眺めていた。
かつて自分を跪かせた皇后が、今では娘のために紅茶を淹れている。
かつて娘を笑った皇女たちが、頭を下げて働いている。
その光景を見て、マリアンヌは胸が締めつけられた。
「お母様」
エリアナが呼んだ。
マリアンヌは振り向いた。
「……なあに?」
「みんな、とてもよく働いているでしょう?」
母の唇が震えた。
本当は、こう言いたかった。
『エリアナ。お願い。もうやめて』
だが、言えなかった。
代わりに、彼女は娘の髪を撫でた。
「……あなたは、疲れていない?」
エリアナは少し驚いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「いいえ。とても幸せです」
マリアンヌは目を伏せた。
「……そう」
エリアナは母の肩に頭を預けた。
「お母様。私たちは、やっと幸せな家族になれたんですね」
マリアンヌの指が止まった。
目の前では、ヴィクトリアが紅茶を注いでいる。
その青い瞳には、今も消えることのない憎しみが宿っていた。
アウレリアは涙をこらえながら盆を支え、セシリアは俯いたままカップを並べている。
誰も笑っていなかった。
ただ一人、エリアナを除いて。
マリアンヌは娘を抱きしめた。
何か言おうとした。
だが、喉が締めつけられたように動かなかった。
エリアナはその沈黙を、母の優しさだと思うことにした。
「お母様」
「……なあに?」
「私のこと、愛していますか?」
マリアンヌは娘の顔を見た。
幼い頃と同じ紫色の瞳。
何度も泣きながら抱きついてきた、小さな娘。
母の手を握り、いつか大きな家を買ってあげると約束してくれた、あの子。
マリアンヌの目から、また涙がこぼれた。
「もちろんよ」
彼女は震える声で答えた。
「世界で一番、大切な娘だもの」
エリアナは微笑んだ。
その言葉は、昔とまったく同じだった。
だから、もう何も心配しなくていい。
母は自分を愛している。
そして、もう自分を止めようとはしない。
それだけで十分だった。
窓の外では、春の花が咲き始めていた。
かつて母が夢見た、陽の光に満ちた庭園。
その庭園を見下ろす部屋で、若き女帝は幸福そうに微笑んでいた。
幼い頃、マリアンヌは娘に教えたことがある。
『誰も嫌だと言えない場所に、本当の愛はないのよ』
エリアナは、その言葉を忘れていなかった。
ただ、今は少し違う考えを持っていた。
愛している人が、嫌だと言わなくなればいい。
そうすれば、もう傷つかずに済む。
もう争わずに済む。
もう、誰も失わずに済む。
エリアナは母の腕の中で、静かに目を閉じた。
「……幸せですね、お母様」
マリアンヌは答えなかった。
答えたくても、答えられなかった。
娘を抱きしめる腕に、少しだけ力を込める。
それは、今の彼女に残された数少ない自由な行動だった。
エリアナはその温もりに安心し、満足そうに微笑んだ。
そのすぐそばで、マリアンヌは娘を抱きしめたまま、声を殺して泣いていた。
――完――
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
作家としてまだまだ学ぶべきことがたくさんありますので、どんなご意見でも大歓迎です。良かった点、改善点、あるいは読み終えた後の感想など、どんなことでも構いません。ぜひお聞かせください。
もしこの物語が評価に値すると感じていただけたら、ぜひご意見をお聞かせください。
ここまで読んでいただき、心から感謝申し上げます。




