甘い声の女
その女の異常さは一目でわかった。
男子の平均の俺より更に頭ひとつ高い身長、膝まである長い亜麻色の髪は何をどうやったのか綺麗に巻かれていて、顔はこんな暗がりでもわかるぐらいの超絶美人。足首まである白のパーカーワンピースにネイビーのブルゾンと黒いピンヒールブーツ。胸もケツもでかい、服の上からでもわかる極上のスタイル。そして──右手にぶら下げた、ぎらぎらと鈍く光る日本刀。
夜道でポン刀ぶら下げてるやつと遭遇したら誰だってやべぇやつと思うだろう。俺だってそう思う。
正直むしゃぶりつきたくなるぐらいナイスバディの超絶美人だけど、絶対関わらんとこ。つうか逃げよ。
即座に踵を返した俺の背中に、だが無慈悲に声がかけられる。
「そこの君、ちょっといいかな」
低めで抑揚に欠けるが、同時に死ぬほど甘ったるい声。
喉からじゃなく、もっと深いところから響いてくるような、それでいて花蜜を垂らすような甘さ。ほんとに人間かこいつ。
逃げ出そうとしたが、足が動かん。なんだこれ。金縛り?
──瞬間、視界の端にふわりと白いものが舞って、首筋にひんやりとした金属の鋭い感触。
動くな、とは言われなかった。言われんでも分かる。動いたら死ぬ。
「この辺で怪しいやつ見なかった?」
しれっと女は言った。誰がどう見てもあんたが一番怪しいだろうが。
だが声には出せん。口を動かしたら死ぬ。瞬きしても死ぬ。息をしても死ぬ。
カエルみてぇに目玉だけをギョロギョロと動かすが真夜中の市街地に人影はなく、道路脇にある児童公園の街灯だけが小さくあたりを照らしている。当たり前だが遊んでるガキの気配もない。
うん、詰んだなこれ。
「あはは、面白いね、君」
何が面白いのか、女は朗らかに笑った。顔が見えなくてよかった。あの超絶美人顔と、この砂糖を混ぜすぎてどろどろになったココアみたいな笑い声を同時に食らったら間違いなく男の尊厳が死ぬ。いやそれ以前に物理的に死にそうな状況だが。
「知ってる? ちょっと前にね、このへんで殺人事件があったんだ」
女は続けた。感情のない平坦な声。まだ話を続けるならそろそろ物騒なもん下ろしてほしいんだが。つうか息が出来ねえ、そろそろキツくなってきた。息は止めてるはずなのに、やたら甘ったるい匂いが肺を犯す。なんだこれ、この女の香水か?
「被害者は中学生の女の子でね。それはそれは酷い殺され方だったらしいよ。何時間もの間、何度も何度も犯されてね、ナイフで顔をぐちゃぐちゃに切り刻まれて、最後は生きたままノコギリで首を切られながら死んだんだって。バラバラの死体がそこの公園のゴミ箱に捨てられてて、一番上に置かれた頭は目玉がえぐり取られて代わりにお花が突っ込まれてたらしいよ」
ざざ、と視界にノイズが入って、赤く、溶けた気がした。
血と肉片にまみれた小さな頭。えぐられた眼窩はぽっかりと黒く空いていて、そこに――誰かの指が、ゆっくりと赤い花を押し込む。花弁が眼窩の縁に擦れて、べっとりと血を吸い、鮮やかな赤がさらに濃くなる。指は花を奥までねじ込み、茎が折れる小さな音がする。満足げに指を引き抜くと、眼窩から滴る血と花の汁が混じり合って、頰を伝う。
その、指は──
「で、もう一度聞くけど、このへんで怪しいやつ見なかった?」
……知らねえっての。怪しいやつを見たけりゃ鏡でも見やがれ。大体、あの事件の犯人はもう捕まっただろ。
「うん、もう捕まってるね。田山喜久雄、48歳無職だったっけ? この辺りじゃ有名な害悪おじさんで、近所の人もいつかなにかやる、って思ってたんだって」
そんなとこまで知らんわ。探偵ごっこが終わったんなら、さっさとその物騒なもんを
「でもさ」
どろり、と女の声が直接耳に流し込まれた。脳ミソごと犯されるみてえな、甘くねっとりとしたどろどろの蜜とべたつく甘い匂い。
「その女の子が一番絶望したのはね」
いつの間にか首元の鋭い感触は消えていて、女の手が肩にかかっている。ぞっとするぐらい冷たい手。甘い匂いが肺にへばり付く。蜜が耳からどろりと流れ込んでくる。カラカラに乾いた喉に甘い毒が絡みつく。
「誰も助けてくれなかったことなんだって」
何を、言って、当事者で、も、あるまいに
「見てたよね?」
……俺は見てない。見てない、見てない、見てない、みてない。
ニュースで流れてた犯行時刻、俺は家にいた。
コンビニで買ったビール飲んで、スマホで動画見て、寝た。
何も見てない。見てない、見てない、見てない!
「嘘つき」
女が囁く。じわりと視界が歪む。ピンク色のモヤが、頭と視界を蕩かしていく。
「見てたよね。公園の茂みの向こうで、服が引き裂かれる音を聞きながら、『めんどくせえ』って思ったよね」
違う
「見てたよね。あの子の悲鳴を聞きながら、スマホの画面から目を離さなかったよね。『関わりたくねえ』って思ったよね」
違う、違う
「見てたよね。あの子と目が合ったのに、すぐに目を逸らしたよね。……そして、彼女の絶望した目が、君の記憶に刻まれたよね」
……違う。
たしかに公園の脇を通った。
変な音もした。
女の子のうめき声みたいな音が聞こえて、でもすぐに止んだ。
俺はイヤホンつけてたからよく聞こえなかったし、面倒だったから、通り過ぎた。それだけだ。それだけ……のはずだ。
でも、視界に浮かぶ、これは
ぐちゃぐちゃで血まみれの顔。
えぐられた目。
バラバラの手足。
俺の視界に、脳に、直接流れ込んできて
「ねえ」
蜜が流し込まれる。手足の感覚がなくて、腹の中が熱い。視界はピンク色で、全身がじっとりと汗をかいているのに、女の手が触れているところだけが凍りつくように冷たい。
「お花は、罪滅ぼしのつもりだったのかな」
違う、俺は「このあたりで怪しい人物を見ませんでしたか?」警察官の男「いえ、見てませんけど」スマホから流れる動画「それでは、中学生ぐらいの女の子は見ていませんか?」知らない「いえ…」「そうですか、なにかありましたら警察までご連絡を」なにも、見てない。
「ふふ」
女の手が離れたかと思うと、銀色の光が横切って
──熱い熱い熱い! 熱い!! 痛い!!!! 痛い!!!!
目が、顔が、熱が、目の前が赤くなって、暗くなって
「あは」
いつの間にか前に回り込んていた女が、目玉をぬるり、と飲み込んだ。
……飲み込んだ? あれ、俺、目が見えて…。顔に手をやると、ちゃんと動かした手は見えて、代わりにべったりとしたものが顔中にこびりついていた。手が真っ赤で、濃密な鉄錆の匂いと、どろりとした甘い香りが嗅覚を焼いた。いや、違う。これはただの汗だ。拭った手を見ても赤くなんてなってない。鼻を刺すのは、嗅ぎ慣れた自分の汗の匂いだけだ。
女がぶら下げている刀には血糊ひとつなく、鈍い光を讃えていた。
「ふふ──なんて濃密。失望、絶望、苦痛、後悔、恐怖、死」
女の瞳が血を吸ったみたいに赤く濁る。唇がゆっくりと開いて、花弁のような舌がちろりと覗く。
頬を赤く上気させ、自分を抱きしめるように全身に両手の指を這わせ、絶頂するみてぇに身体を震わせて内ももを擦り合わせる。甘い匂いが強くなって、どこか腐った果実のような臭いが混じる。
「なに、もんだ、よ、あん、た」
いつの間にか口がきけるようになっていたが、絞り出すような声しか出せねぇ。手足の感覚も戻っていて、汗に塗れた全身が気持ち悪かった。思い出したみてぇに息苦しさが襲ってきて、弾き出すように息を吐いた。吐き気と共に舌の上を泥のような蜜が通り抜ける。悍おぞましい感触のそいつを、ごぼり、と吐き出した。違う、これはただの俺のツバだ。バクバクと鳴る心臓に追い立てられるように浅い呼吸を繰り返した。
「わたしは、ただの趣味人コレクターだよ」
女は低くて甘ったるい声で言った。
「時間が経っちゃったからあんまり残ってないかと思ってたんだけどね。たまたま君が通りがかってくれてよかったあ。いいコレクションが増えたよ」
女はそう言って笑った。無邪気で、透明感のある、童女のような笑顔だった。
「どう、いうこと、だ、よ」
「知らなくていいよ。理解も出来ないだろうし」
くるりと背を向けて、女は歩き始めた。右手の日本刀はいつの間にか消えている。
コツ、コツ、コツとピンヒールの音が夜道に響いた。
「じゃあね。イヤホンつけて歩きスマホは危ないよ」
そう言い残して、女は夜の闇に消えていった。甘ったるい匂いは最初からなかったかのように霧散していた。左肩に残った冷たさだけが、今のが夢じゃねえことを示していた。ピンク色の視界はいつの間にか晴れていて、暗い夜を取り戻していた。
「何だったんだよ……」
ちくしょう、目がおかしい。ちゃんと見えてるのに、視界の端にノイズが走る。なのに、ノイズを目で追うと逃げるように消えやがる。
逃げるノイズを追いかけると、すぐ側の公園が目に入った。
事件の痕跡はもう片付けられていて、血の跡ひとつ残っていない。サビの浮いた遊具たちだけが薄い明かりに影を落としている。金属のゴミ箱は撤去されて、かわりに蓋つきの青いプラスチックのゴミ箱に変えられていた。地面は雑草だらけで足跡ひとつなく、ここが放棄された土地であると思わせた。
ふと引き寄せられて暗がりの茂みに目をやると、誰かと目があった気がした。
お前を見ているぞ、と誰かが言った気がした。
さっきの女じゃない。もっと冥い目。血に掠れた声。
振り払うように、イヤホンを耳に突っ込んで歩き出した。音楽が流れているのに耳の奥に響くのはあの甘ったるい声だ。「見てたよね」。首を振る。左肩に残る冷たい手の感触に、心臓を掴まれている気がする。
今日はツイてない。とっとと家に帰ろう。帰って、ビール飲んで、寝ちまおう。そうすりゃ全部解決だ。アルコールバンザイ。
ノイズの向こうの暗がりから誰かが俺を見ている。じっとりと纏わりつくそれを無視して、スマホに目を落とす。黒い画面に映った顔にノイズが走った気がした。気の所為だ。
──どこかで、パトカーのサイレンが鳴った気がした。




