正しい別れ方を、俺は知らなかった
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修正液というものがある。
白く塗りつぶして、なかったことにする液体。でも紙をよく見ると、うっすら凸凹が残っている。跡が、残る。
俺はずっとそれをやっていた。
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梅雨の終わりに、別れを切り出そうと決めた。
決めた、というのは正確じゃない。切り出さなければいけないと、わかっていた。わかっていたのに、できなかった。それだけだ。
愛情はなかった。でも憎しみもなかった。彩香のことが嫌いになったわけじゃない。ただ、好きかどうか聞かれたら、答えに詰まる。それだけのことだった。
それだけのことが、三ヶ月続いた。
彩香はいつも俺より先に眠る。
隣で規則正しい呼吸が聞こえるたびに、俺は窓の外を見た。雨が降っていた。アスファルトに水たまりができて、街灯が滲んでいた。
今日も言えなかった。
また明日言おう。
その「明日」が何十回積み重なっても、形にならないまま、俺の隣で彩香は眠り続けた。
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十一月になった。
梅雨から数えると、五ヶ月だった。
彩香と付き合って二年。最初の一年半は、たぶん好きだった。確かめる方法はもうないけど。
駅前のファミレスで向かい合って、彩香がドリンクバーのコーヒーを飲んでいた。薄いやつ。機械から出てくる、どこか申し訳なさそうな茶色。
「最近、元気ないね」
彩香が言った。
「そう?」
「うん」
それだけだった。それ以上、彩香は踏み込まなかった。踏み込まないのが、彩香という人間だった。優しいのか、諦めているのか、俺にはわからなかった。
今日こそ言おうと思っていた。
言えなかった。
帰り道、彩香の横顔を見た。街灯が当たって、少し白く光っていた。きれいだと思った。好きかどうかはわからなかった。
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十二月の前夜、手紙を書くことにした。
直接言えないなら、文字にすればいい。そう思った。思っただけで、五ヶ月動けなかった人間の考えることだった。
便箋を一枚、机に置いた。
書き始めた。「彩香へ」。それだけ書いて、止まった。次の一文が出てこなかった。「ごめん」と書いた。何がごめんなのか、自分でもわからなかった。修正液で塗りつぶした。
「俺たちは」と書いた。続かなかった。塗りつぶした。
「好きかどうか」と書きかけて、やめた。塗りつぶした。
便箋の半分が白くなった頃、手が止まった。修正液の匂いが部屋に充満していた。甘くて、少し頭が痛くなる匂い。
書けなかった。結局、書けなかった。
「彩香へ」だけが残った便箋を、引き出しの中に伏せて入れた。
明日、直接言おう。
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翌日、喫茶店だった。チェーンじゃない、古い店。木のテーブルに、水の染みがいくつかあった。
「私ね」
彩香はカップを両手で包んで、テーブルを見たまま言った。
「もう終わりにしたい」
静かだった。怒ってなかった。泣いてもいなかった。
「……そっか」
それしか出なかった。
「ごめんね」
「なんで彩香が謝るの」
「なんとなく」
彩香が少し笑った。泣きそうな笑い方じゃなかった。ただ、疲れたみたいな顔だった。
「気づいてたよ、ずっと」
俺は何も言えなかった。
「言えないんだろうなって、思ってた。だから待ってた。でも、もう疲れた」
窓の外で、雪が降り始めていた。
俺が五ヶ月かけてできなかったことを、彩香は一言でやった。正しい別れ方を、彩香は知っていた。俺は知らなかった。
家に帰って、引き出しを開けた。
「彩香へ」だけが残った便箋があった。
修正液で塗りつぶされた跡が、白く盛り上がっていた。
破って捨てようとして、できなかった。
引き出しを閉めた。
修正液の刺す臭いが、残っていた。
―了―
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これからも好きに小説を書いて行きたいと思うので、フォローして待っていただけると幸いです。




