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正しい別れ方を、俺は知らなかった

作者: 犬飼
掲載日:2026/04/08

手に取っていただきありがとうございます。よければ最後まで読んでいただけると嬉しいです。


 修正液というものがある。


 白く塗りつぶして、なかったことにする液体。でも紙をよく見ると、うっすら凸凹が残っている。跡が、残る。


 俺はずっとそれをやっていた。




----------



 梅雨の終わりに、別れを切り出そうと決めた。


 決めた、というのは正確じゃない。切り出さなければいけないと、わかっていた。わかっていたのに、できなかった。それだけだ。


 愛情はなかった。でも憎しみもなかった。彩香のことが嫌いになったわけじゃない。ただ、好きかどうか聞かれたら、答えに詰まる。それだけのことだった。


 それだけのことが、三ヶ月続いた。


 彩香はいつも俺より先に眠る。


 隣で規則正しい呼吸が聞こえるたびに、俺は窓の外を見た。雨が降っていた。アスファルトに水たまりができて、街灯が滲んでいた。


 今日も言えなかった。


 また明日言おう。


 その「明日」が何十回積み重なっても、形にならないまま、俺の隣で彩香は眠り続けた。



----------



 十一月になった。


 梅雨から数えると、五ヶ月だった。


 彩香と付き合って二年。最初の一年半は、たぶん好きだった。確かめる方法はもうないけど。


 駅前のファミレスで向かい合って、彩香がドリンクバーのコーヒーを飲んでいた。薄いやつ。機械から出てくる、どこか申し訳なさそうな茶色。


「最近、元気ないね」


 彩香が言った。


「そう?」


「うん」


 それだけだった。それ以上、彩香は踏み込まなかった。踏み込まないのが、彩香という人間だった。優しいのか、諦めているのか、俺にはわからなかった。


 今日こそ言おうと思っていた。


 言えなかった。


 帰り道、彩香の横顔を見た。街灯が当たって、少し白く光っていた。きれいだと思った。好きかどうかはわからなかった。




----------




 十二月の前夜、手紙を書くことにした。


 直接言えないなら、文字にすればいい。そう思った。思っただけで、五ヶ月動けなかった人間の考えることだった。


 便箋を一枚、机に置いた。


 書き始めた。「彩香へ」。それだけ書いて、止まった。次の一文が出てこなかった。「ごめん」と書いた。何がごめんなのか、自分でもわからなかった。修正液で塗りつぶした。


 「俺たちは」と書いた。続かなかった。塗りつぶした。


 「好きかどうか」と書きかけて、やめた。塗りつぶした。


 便箋の半分が白くなった頃、手が止まった。修正液の匂いが部屋に充満していた。甘くて、少し頭が痛くなる匂い。


 書けなかった。結局、書けなかった。


 「彩香へ」だけが残った便箋を、引き出しの中に伏せて入れた。


 明日、直接言おう。



----------



 翌日、喫茶店だった。チェーンじゃない、古い店。木のテーブルに、水の染みがいくつかあった。


「私ね」


 彩香はカップを両手で包んで、テーブルを見たまま言った。


「もう終わりにしたい」


 静かだった。怒ってなかった。泣いてもいなかった。


「……そっか」


 それしか出なかった。


「ごめんね」


「なんで彩香が謝るの」


「なんとなく」


 彩香が少し笑った。泣きそうな笑い方じゃなかった。ただ、疲れたみたいな顔だった。


「気づいてたよ、ずっと」


 俺は何も言えなかった。


「言えないんだろうなって、思ってた。だから待ってた。でも、もう疲れた」


 窓の外で、雪が降り始めていた。


 俺が五ヶ月かけてできなかったことを、彩香は一言でやった。正しい別れ方を、彩香は知っていた。俺は知らなかった。


 家に帰って、引き出しを開けた。


 「彩香へ」だけが残った便箋があった。


 修正液で塗りつぶされた跡が、白く盛り上がっていた。


 破って捨てようとして、できなかった。


 引き出しを閉めた。

 

 修正液の刺す臭いが、残っていた。


―了―

最後まで読んでいただきありがとうございます。


これからも好きに小説を書いて行きたいと思うので、フォローして待っていただけると幸いです。

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