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玄人と雪獣の異譚

作者: 兎鳥猫
掲載日:2026/02/26

大雪が降りしきり、鏡のように澄み渡った江面には、細く繊細な波紋が静かに幾重にも広がっている。霧の奥から一艘の小舟がゆっくりと姿を現し、岸辺に辿り着くと、「ドン」と低く重厚な音を立てて停まった。


近くの岩洞で瞑想していた白鶴はくづるは、まぶたをわずかに震わせて目を開けた。冷徹な瞳が、洞窟の外、岸辺の方へと向けられる。


ここ数日、夭華林ようかりんの外では術師と妖怪の衝突が絶えず、死体や壊れた兵器を載せた小舟が付近に流れ着くことが珍しくなかった。白鶴は彼らの紛争に関わることを好まなかったが、自らの安寧を守るため、やむを得ず川が運んできた残骸を片付けるのが常となっていた。


今日という日も、同じだった。白鶴は立ち上がって洞窟を出ると、新たに岸に着いた舟へと歩み寄った。


舟に乗り込み、中を見渡す。天から舞い落ちる大雪が、すでに真綿のようにふんわりと甲板を覆っていたが、その中央に広がるどす黒い血溜まりだけは、少しも薄まる気配がない。


血溜まりの中に崩れ落ちている黒衣の人も同様だった。血を吸った衣はさらにどす黒く沈み、星も月もない陰鬱な夜か、あるいは光の届かない洞窟の最奥を思わせるほどに恐ろしい。露出した顔や肌は血に汚れ、その上から雪の白霜が降り積もっている。


白鶴は空気中の鉄錆の匂いを嗅ぎ、他に誰もいないことを確認するために船内を一周してから、再び黒衣の人の傍らへと戻った。


周囲には刀剣や弓矢が散乱し、あるいは甲板に突き刺さっている。倒れる直前まで、凄まじい死闘を繰り広げていたことは想像に難くない。


一体何のために、これほどまでに凶悪な争いを演じる必要があるのか。


白鶴には分からなかったし、興味もなかった。

彼はただ、己の心の平穏を保つためだけに、黒衣の人の前で片膝をついた。力を用いて、この男を水の中へと突き落とそうとしたのだ。


今この時、その人を弔ってやる者は、この白鶴をおいて他にはいない。


距離が縮まると、血と雪にまみれたその顔立ちがはっきりと見えた。長く伸びた睫毛は微風に揺れ、まるでまだ生きているかのように微かに震えている。わずかに開かれた唇は、これまで見てきた死体のようなおぞましい形相ではなく、ただ優しく吐息を漏らそうとしているかのようだった。


意外なことに、血に染まり兵器の山に倒れ伏しているというのに、男の表情にはどこか安らかな静謐が漂っていた。


その死に際の安らかさに、白鶴はかすかな好感を抱いた。水葬をせめて穏やかに執り行おうと、その人の体を持ち上げようと手を伸ばした――その時、彼の手が誰かに掴まれた。


死人のように、あるいはこの雪の日のように冷ややかな五本の指が、力なく白鶴の腕を握りしめている。


白鶴は目を見開いた。反射的に黒衣の人の顔を覗き込む。


白い雪を湛え、まるで細かな真珠を綴ったかのような睫毛の下で、微かに開かれた両の瞳が、僅かな光を宿していた。

「……」

黒衣の人は、ふうと息を吐き出したようでもあり、何かを呟いたようでもあった。だが、白い息さえ立ち昇らぬその声は、虚空に消えるばかりだった。


だが、それだけで十分だった。

白銀の空の光を鏡のように映し出すその瞳には、無防備な白鹤の姿がはっきりと映り込んでいた。


白鹤には、これほどまでに無垢な瞳を、死へと突き落とす覚悟はなかった。

突き飛ばそうとしていた腕に力を込め、指を鉤爪の形に曲げると、人を救うための妖術を繰り出した。


雪は降り続き、一片、また一片と白鹤の頭に、そしてその人の頬に舞い落ちる。辺りは再び静寂に包まれ、ただ雪が地に落ちる、極めて微かな「しんしん」という音だけが響いていた。

どんよりとした空の下、雪は地を、岩を、そして水を白く染め変えていく。


四日四夜にわたる介抱の末、黒衣の人は目を覚ました。岩洞の中で身を起こしたその人は、すぐに自分の衣がはだけ、胸元に無造作に薬草の泥が塗られていることに気づいた。顔を向ければ、洞窟の壁に背を預け、努めて冷淡で警戒に満ちた眼差しを向けている白鹤と目が合った。


己の胸元にそっと触れ、それから白鹤を見上げて微笑んだ。

「あなたが助けてくれたのね。ありがとう」

その声は鈴のように澄み、鶯のように艶やかだった。黒衣の姿からは想像もつかない、春の陽光のように眩い妙齢の乙女であった。


白鹤は呆然とし、その瞳から威圧感が消え失せた。それどころか、彼女に向ける眼差しには、どこか申し訳なさが混じり始めた。

「すまない……女人であったか。人間の体のことには疎くてな」

「えっ?」

乙女はくすりと笑い、白鹤がなぜ謝るのか理解できない様子だった。だがすぐに合点がいったようで、目を細めてうつむく白鹤を見つめた。

「気にしていないわ。胸に薬を塗ったのは、私を救うためでしょう? 人の命を救うのに、男女の別なんて関係ない」

そう言って彼女は立ち上がろうとしたが、傷はまだ深く、小さく呻き声を漏らして倒れ込んでしまった。それでも彼女は痛みをこらえ、震える声で白鹤を慰めるように言葉を継いだ。

「もともと、そんな男女の区別なんて退屈だと思っていたの。肌を見られたくらいで、私の尊厳が失われるとでも? 私はちっともそうは思わない」


痛みに耐えながらも優しい言葉をかける彼女に、白鹤はどう反応すべきか戸惑った。躊躇いの後、彼は歩み寄り、彼女の体を支えて座らせた。

白鹤の吐息が彼女のうなじにかかると、彼女はくすぐったそうにケラケラと笑い声を上げた。

「やっぱり、あなたは心優しいお方なのね。あなたに見つけてもらえて、本当によかった」

「私は……」

白鹤はぎこちなく彼女の背を支え、言葉を口の中で転がしてから、消え入りそうな声で漏らした。

「心優しいなどではない。私はただ、独りで暮らす妖だ」

「ええ、知っている」

白鹤の助けを借りて岩壁に寄りかかった彼女は、隣にいる白鹤の袖を軽く叩いた。その声は低く落ち着いていたが、赤子をあやすような、不思議な安らぎに満ちていた。

「もし人間に見つかっていたら……きっと、とっくに殺されていたでしょうね」

「なぜ、彼らはそなたを殺そうとするのだ?」


問いかけた瞬間、白鹤は後悔した。彼女を支える手が、思わず後ろへ引かれる。

他人と、ましてや人間と関わりを持つつもりなどなかったのだ。一時の気まぐれで命を救いはしたが、本来なら助けるべきではなかったし、こうして好奇心に負けて会話を続けるなど、もってのほかだった。


「うーん——彼らはこの街の城主の座を争っていて、私はその強力な対立候補だから、かしらね」

語られる内容は、凄惨な血の雨を予感させるほど深刻なものだった。しかし、彼女の声は、外の雪の降り具合でも語るかのように軽やかだった。

白鹤は日々夭華林で修行に励む身であり、俗世には疎い。ゆえに、その軽さを不思議に思うこともなく、ただ問いを重ねた。

「では……戻って、またその城主の座を争うつもりか?」


彼女が人間の世界に戻れば、ここに妖がいることを言いふらしはしないだろうか。

それが白鹤にとって最大の懸念だった。

だが、そうなったとしても、もはや仕方のないことだと心のどこかで悟ってもいた。口封じをするのが最も確実だが、白鹤はこれまで人を殺めたことはなく、死体を片付けることしか知らなかった。何より、今この手で救ったばかりの女なのだ。

徒労だとは思いつつも、白鹤は付け加えるように尋ねた。

「戻った後、私がここにいることを誰にも言わないでいてくれるか?」

「いいわよ。だって、命の恩人なんですもの。恩人に対して、私、陸知馨りく ちけいは、受けた恩を何倍にもして返す主義なの」


彼女は自ら名を名乗ると、不安げに寄り添う白鹤に向かって微笑み、誓いの証のように自分の胸を叩いた——当然、傷に響いてすぐに顔をしかめることになったが。

「陸知馨……」

白鹤はその名をそっと反芻した。本当は二度と他言せぬよう誓わせるつもりだったが、他人との会話に慣れていないせいか、要件よりも先に、自分の心が最も囚われた「名」を口にしていた。

「ええ。あなたもそう呼んで。安心して、あなたのことは誰にも言わないから」


知馨は屈託なく笑い、岩壁を支えに立ち上がると、洞窟の外へと歩き出した。

「どこへ行く?」

白鹤の、どこか名残惜しげな問いを聞き、彼女は洞窟の入り口で足を止めた。雪と日光に縁取られた白玉のような横顔で、彼女は穏やかに答えた。

「果たさなきゃいけない義務があるの。あなたとの、そして、私の友人たちとのね」

白鹤は微かに口を開いたが、言葉は出なかった。その表情は、彼女の言葉の意味が理解できないと告げていた。

知馨は唇を吊り上げて悪戯っぽく微笑むと、よろめきながら洞窟を出ていった。傷を案じて後を追った白鹤が見たのは、彼女が湖畔へと直行し、まだ片付けていなかったあの壊れた小舟に乗り込む姿だった。


船上の兵器を調べ、破損具合を確認する知馨。外衣をきつく締め直した白鹤は、居心地悪そうに湖畔に立ち、迷いながらも問いを続けた。

「舟で、去るつもりか?」

「問題なければ、このまま漕いで帰る」

知馨は答えながら、甲板に突き刺さった折れた剣の柄に手をかけた。

彼女は何かを独り言のように呟いている。剣の主や、その背後にある勢力を推察しているようだった。

白鹤にしてみれば、このまま彼女が去るのを見届ければいいはずだった。だが、彼は雪の冷たさも構わず湖畔に留まり、寂しがり屋の子供のように再び声をかけた。

「……手伝おうか? 私の妖力を使えば、少しは役に立つ」

「いいのよ。もう十分に助けてもらった。急いで戻らなきゃならないけれど、いつか必ず、独りで恩返しに来るから」

「そうか……」

白鹤は曖昧に相槌を打った。安心したのか、不安なのか、あるいは嬉しいのか、自分でも分からなかった。


しばらくして、白鹤はまた口を開いた。

「……私の名は、白鹤。正式な名ではない、私には名前などないから。だが、皆そう呼ぶ」

ちょうど船上の兵器を引き抜き終えた知馨は、立ち上がって伸びをし、白鹤と視線を合わせた。白鹤が戸惑うのも構わず、彼女はまた美しい笑みを浮かべた。

「いいね。じゃあ私もそう呼ぶわ、白鹤。あなたが私の名を呼んでくれたみたいに」

「そ、そなた……今、行ってしまうのか?」

白鹤はたどたどしく聞き返した。彼女に名を呼ばれた瞬間、なぜか胸の奥がむず痒くなったが、その正体は分からなかった。

「また戻ってくる」

知馨は、白鹤の繰り返しの問いを疎んじることなく、もう一度軽やかに答えた。

「なら……」

(必要ない。去るのなら二度と戻るな。私の平穏な生活をかき乱すな)

そう言うつもりだった。

だが、口から飛び出したのは、彼の本心だった。

「……帰りを、待っている」


その言葉に、知馨も一瞬驚いたようだった。だが、すぐに声を立てて笑った。その笑い声は、蝶の群れが羽ばたくように、軽やかに雪の中へと舞い上がっていった。

「ええ、いいよ」


それから四ヶ月が過ぎた。

あの日以来、知馨は数日おきに夭華林を訪れ、白鹤に会いに来た。彼女が遊び惚けていたわけではない。白鹤が無意識のうちに、いつも彼女を引き止めていたのだ。

認めたくはなかったが、知馨が歌を口ずさみながら舟を漕ぎ、菓子や魚を携えて岸辺に現れるたび、白鹤はすぐに船首へと飛び去った。

待ちきれないと言わんばかりに羽ばたき、妖力の翼を収めて広い袖をなびかせ、優雅に櫂を操る彼女を見つめる。

白鹤の姿を見るや、知馨の歌声はさらに艶を増し、笑みが混じった。彼女が不意に麦わら帽子を持ち上げ、後れ毛を払う——その素朴ながら絵画のように美しい姿を目にするたび、白鹤の強張った表情はふっと和らいだ。


ただ、白鹤はやはり想いを伝えるのが苦手だった。いつも衝動的に舟に乗り込んでは、間抜けなほどじっと彼女を見つめるだけで、一言も発せられない。知馨が笑って舟を寄せ、菓子を差し出して寄り添ってくれると、ようやく喉に何かが詰まったかのように「……来たか」と、たどたどしく事実を告げるのが精一杯だった。

「ありがとう」でも「会えて嬉しい」でもない、無骨な言葉。しかし、その端々に宿る喜びは、増水した湖のように溢れ出し、今にも岸を飲み込まんばかりだった。


知馨は、あの後戻ってきてから、城での出来事を一切語らなくなった。白鹤がそれを好まず、理解もしないことを知っていたからだ。

彼女はただ何度も舟を出し、白鹤の話し相手になり、果物や菓子、新鮮な魚や野菜を分かち合った。夏になれば、二人は子供のように湖畔で戯れた。

白鹤は、湖畔がこれほど楽しく、食べ物がこれほど美味いものだとは知らなかった。今となっては、「不老不死」の術と引き換えにこの時間を差し出せと言われても、決して頷きはしなかっただろう。


だが、再び冬が近づくにつれ、知馨が訪ねてくる間隔は次第に長くなっていった。時折、会話の途中で彼女は黙り込み、その表情に憂いの色が差すことがあった。

(どうしたのだ? 何か困難に直面しているのか?)

そう問いかけることは、白鹤にとって容易なことではなかった。

何度か口を開きかけたが、勇気を振り絞る前に、知馨が話題をすり替え、次の遊びへと誘い出す。それが一時的な現実逃避であり、破局を先延ばしにしているだけだと分かっていても、白鹤は淡い期待を抱かずにはいられなかった。

——もしかしたら、これこそが真実なのではないか。何も考えずとも幸せでいられる、それこそが真実であってほしい、と。


しかし、数ヶ月ぶりに知馨の小舟が岸に着いた時、白鹤はついに現実に直面した。

その舟は、無数の矢が突き刺さり、まるでハリネズミのようだった。甲板には数体の死体が転がっている。再び全身をどす黒く染めた知馨は、舟の縁に辛うじて寄りかかり、今にも息絶えそうだった。

口元から一筋の血を流しながら、彼女は駆け寄った白鹤を見て、苦しげに微笑んだ。

「ごめんなさい……また、迷惑をかけちゃう」


白鹤は目を見開き、しばらく動けなかった。やがて我に返ると、震える手で、意識を失いかけた彼女の体を抱きかかえた。

微かな呼吸とともに、彼女の体もまた震えていた。

白鹤は初めて気づいた。陸知馨という——人間という生き物が、いかに脆く傷つきやすい存在であるかを。


知馨はまた、微かに口を動かした。その表情は、白鹤に謝ろうとしているようだった。あるいは、舟の向きを変えてここを去り、戦いの火種を全て連れ去ろうとしたのかもしれない。

「ダメだ!」

白鹤は渾身の力を込めて叫び、彼女の腕を固く掴んだ。

何がダメなのか、明確な言葉にはできなかったが、彼女が自分から離れていこうとする気配を感じ、パニックの中でその可能性を強引に拒絶したのだ。


白鹤は彼女を連れ帰り、介抱した。今回は、一晩療養させるのが精一杯だった。

意識を取り戻した知馨が最初に口にしたのは、ここを去り、戻って「義務を果たす」ということだった。

「いかなる義務であろうと、命より重いことなどないはずだ!」

白鹤はいつになく流暢に、言葉を叩きつけた。横たわる彼女に向かって両手を広げる。介抱を続けるため、そして、彼女をここに留めるために。

「いいえ、ある」

知馨は首を振り、白鹤の瞳を凝視した。顔や体に傷と血汚れが増えても、その瞳はいつものように澄み渡っていた。

「私はこの街を愛しているの……自らの意志で、義務を果たしたい。この街が、永遠に安泰であってほしいから」

「永遠に……」

白鹤は無意識にその言葉を繰り返した。

彼もまた「永遠」を願っていた。ただ、彼の望みは、知馨との穏やかな生活が永遠に続くことだった。今、その願いと、彼女の願う永遠が衝突していた。


知馨は重い手を持ち上げ、白鹤の頬に触れた。

彼女がこれほど親密な仕草を見せることは稀だった。共に戯れることはあっても、このような直接的な触れ合いはほとんどなかった。

今は、彼をなだめるように、できる限り優しく撫でている。

彼女の手の傷口が少し開き、白鹤の頬に血がひと筋ついた。それは寒風の中で誇り高く咲く梅の花のようだった。

「白鹤、ごめんなさいね」

彼女は再び謝り、力なく手を下ろした。

「今、この街を守れるほどの強い霊力を持っているのは、私しかいないの。私は一つの結界術を編み出した。それで新月城を包み込めば、もうみんな、外の世界の侵略者と争わずに済む。だから、その術を完成させて戻り、外敵を隔てたいの……」

「戻るなど嫌だ!」

白鹤はわがままな子供のように、強情に言い放ち、彼女の垂れた手を掴んだ。

その真っ直ぐな瞳は切実に彼女を射抜き、その中に彼女の姿を映し出していた。

「私はまだ、そなたと話していたいのだ。義務を果たすというのなら……私と共にいる義務も、果たすべきではないのか?」

白鹤は必死に言葉をかき集め、理不尽な理屈で彼女に縋った。

「そなたは私の元に来て、私を変えてしまった。そんな無責任に去るなど、私は認めない」

白鹤はさらに顔を近づけ、彼女の前髪に触れんばかりの距離で訴えた。

「新月城を守る……そんなことは分からぬ。だが、城を守るために、もう私と話せなくなるというのなら、私は——」

「あなたは、どうするの?」


知馨が突然言葉を遮り、顔を上げた。その清らかな瞳が、一生分の言葉を絞り出そうとしていた白鹤を射抜いた。

白鹤は口を突き出したが、言葉は続かなかった。先ほどまでの情熱的な演説は、ふっと消えてしまった。

「許さない」と言いたかった。だが、彼女の真剣な眼差しを見て、白鹤は悟った。今度の彼女は、自分の言うことなど聞きはしないのだと。


知馨はめったに外の世界の話をしないが、たまに語る時、その瞳は慈悲と広大な愛に満ちていた。

かつて、彼女が初めて「義務を果たすために戻る」と言った時の表情も、今と同じだったことを思い出す。

底なしの闇に身を投じ、全身を漆黒に染めても、なお月のように清らかな意志。

白鹤は、そんな彼女の強さが好きだったのだ。


白鹤はうなだれ、苦い笑みを浮かべた。かつては理解できなかった感情。だが今、彼の心はその未知の、それでいて全身に染み渡っていた感情に侵食されていた。

「……ならば、私に手伝わせてくれ」

結局、白鹤の口から漏れたのは、その一言だった。

「ええ。じゃあ、手伝って」

頭上から降ってきた彼女の声は、驚くほど平穏だった。「ありがとう」でも「本当にいいの?」でもない、ただの事実の確認。


白鹤はさらに歩み寄り、ゆっくりと両腕を広げ、壊れ物を扱うように彼女を抱きしめた。

なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。覚悟を決めた彼女の、未練のない表情を見たくなかったのか。あるいは、いつか消えてしまう彼女の体温を刻み込みたかったのか。とにかく、今、そうせずにはいられなかった。

知馨は淡々と、満足げな微笑みを浮かべながら、ついに外の世界のことを語り始めた。

早口で語られる内容は、白鹤には完全には理解できなかった。「新月城は術師と妖怪の街である」「外の連中に追わせるわけにはいかない」「街の存在を隠す結界術を編み出した」「ただし、己の命と意識を代償に結界を張らねばならぬ」「強い霊力の支えがなければ、数百年も持たないかもしれない」……。

それらは白鹤の耳を通り過ぎていくが、まるで儚い夢のうわごとのようで、心には響かなかった。

あるいは、その言葉たちが白鹤の心の琴線をあまりに乱暴にかき乱したため、波紋の間に現実が見えなくなっていたのかもしれない。


白鹤は彼女の肩に頭を預け、呼吸の音を聞いていた。深く息を吸い込み、彼女の清らかな香りと鉄の匂いを鼻から脳裏へ、そして心の奥底へと刻み込んだ。

「……せめて、何か形見を残してはくれないか」

不意に、低い声でそう言った。

知馨はすぐには答えなかった。だが、彼女の鼓動が一瞬速まるのを、白鹤は感じた。

「……いいよ」

長い沈黙の後、彼女は笑いながら、けれど今にも泣き出しそうな声で答えた。

白鹤は、もう一度強く、彼女を抱きしめた。


強大な妖力を持つ白鹤の助けにより、結界術は瞬く間に完成した。術者の命と意識を犠牲にすることは避けられなかったが、この結界は千年近く持ち堪えるだろうと思われた。

彼女の提案で、術を執り行うのは近海の小島に決まった。折しも真冬。雪に紛れて夭華林を離れ、小島へと向かう。

白鹤は迷わず、住み慣れた林を去ることに同意した。凍てつく湖面を、知馨が漕ぐ小舟が進む。数百年住んだ場所が、遠ざかっていく。


寒風の中、白鹤は遠ざかる岸辺を眺め、それから自分を見て微笑む彼女の姿を振り返った。

この道を行けば、もう二度と戻ることはない。旅立って間もないというのに、彼の胸は郷愁に似た感情で満たされていた。

だが、霧の中に消えていく景色を見つめながら、彼はただ、一刻も早く遠くへ行きたいと願っていた。自分と彼女が、最期の結末を迎える場所へと。

結末を迎えれば、全ては本当に「永遠」になるのかもしれない。


今、彼はようやく、彼女の言う「義務を果たす」という意味を理解した気がした。

たとえそれが悲劇的な結末であっても、後悔せず、むしろそれを慈しむことができれば、それは誇りと満足に変わるのだ。


「知馨、伝えたいことがある」

白鹤が彼女の名を呼ぶのは珍しいことだった。驚く彼女の視線を受け、白鹤は淡然と微笑んだ。全てを永遠のものとするために、この感情に決着をつけることにした。


「愛している」

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