身分違いの壁
豪雨の日の誓いから数週間。エドワードとソフィアは、毎日のように図書館や温室、食堂や庭園など、ずっと二人で穏やかに、そして平和に過ごしていた。
しかし学園内の空気は、エドワードとソフィアに対して目に見えて冷ややかなものへと変わっていった。
一介の下級貴族が、舞踏会で主役級の注目を浴び、あまつさえソフィアのような清廉な令嬢を独占している——。その事実は、血統を盾にする上級貴族たちのプライドをひどく逆なでしたのだ。
「ソフィア・ローゼンタール。貴女にはもっと相応しい方がいるはずですよ」
昼休みの回廊、ソフィアは数人の令嬢たちに囲まれていた。彼女たちの中心にいるのは、伯爵家の令息であり、学園で最も権勢を誇るカイルだった。
「あのエドワードとかいう男、近頃は不穏な書物を読み漁り、剣術の稽古でも兵士のような殺気を放っているとか。……身の程をわきまえぬ野心は、いずれ身を滅ぼします。貴女も、今のうちに縁を切りなさい。でなければ、共に滅びることになってしまう」
ソフィアは、震える手で自身の胸元を抑えた。
カイルの手元には、ソフィアの父宛てに送られる予定だという、彼との「縁談」の書類が握られている。それは、彼女の家のような慎ましい貴族にとっては、断れば明日からの生活すら危うくなるような、無言の脅迫だった。
「……エドワード様は、誰よりも高潔な方です。貴方がたに、彼の何がわかるというのですか」
ソフィアが声を絞り出した、その時。
「——僕の何がわかるのか。それは僕自身が、これから証明することだ」
静かだが、鼓膜を震わせるほど冷徹な声。
回廊の影から現れたエドワードには、いつもの面影はなく、一振りの「練習用の木剣」を手にしていた。しかし、その佇まいはもはや学徒のそれではない。
「カイル様。ソフィアさんへの不敬、見過ごすわけにはいきません。貴方がたが重んじる『貴族の流儀』で、決着をつけようではありませんか」
「はっ、下級貴族の分際で決闘を申し込むか? 滑稽だな!」
カイルが嘲笑い、腰の細剣を抜く。
周囲に人だかりができる中、ソフィアの制止も虚しく、二人は中庭へと向かった。
冷たい風が吹き抜ける中、カイルは優雅な構えを見せる。対するエドワードは、ただ真っ直ぐに、獲物を狙う鷹のような眼差しで相手を見据えていた。
「死ね、愚かな野心家め!」
カイルの鋭い突きが放たれた瞬間、エドワードの姿が掻き消えた。最小限の動きでそれをかわし、懐に潜り込んだのだ。
——乾いた音が響く。
エドワードの木剣は、カイルの喉元寸前でぴたりと止まっていた。
カイルの細剣は、無様に地面に転がっている。
「……信じられない。今の動き、まるで戦場を潜り抜けた傭兵の……」
周囲から漏れる驚愕の声。
エドワードは、冷や汗を流すカイルを見下ろし、凍てつくような声で告げた。
「身分は貴方を守ってはくれない。……次に彼女に触れようとしたら、その時は、木剣ではないものを用意しましょう」
カイルが逃げるように去っていく中、エドワードはゆっくりとソフィアに歩み寄った。
その手は、先ほどの戦いぶりからは想像もできないほど、小刻みに震えている。
「怖がらせて、ごめんなさい。……でも、もう隠しきれない。僕は、君を守るために、この学園という揺りかごを出ることに決めた」
ソフィアは、彼の震える手を両手で包み込んだ。
彼の瞳の中に宿る野心は、もはやソフィア一人では抱えきれないほど巨大な炎となりつつあった。
それがいつか、多くの血を流す「覇道」に繋がるのだとしても。
「エドワード様……。私は、貴方の選ぶ道がどこへ続いていても、共に行くと決めておりますわ」
初めて本物の「牙」を剥いた少年エドワード。
彼はこの日、名もなき生徒であることをやめ、一人の「男」として、戦乱の世へと足を踏み出す覚悟を固めた。




