覇王の影…
舞踏会の夜から数日。学園の空気は、あの日エドワードが見せた圧倒的な気高さの余韻に包まれていた。けれど当の本人は、何事もなかったかのように放課後の温室へと足を運び、ソフィアと共に芽吹いたばかりの苗を愛でる日常を大切にしていた。
その日の午後は、不気味なほどに空が重く垂れ込めていた。
ソフィアが温室の奥で薬草の整理を終えた頃、突如として空が裂けたかのような激しい豪雨がガラス屋根を叩き始める。
「……これでは、寮へ戻るどころではありませんわね」
外は、一寸先も見えないほどの銀世界。叩きつける雨音は、温室という名の小さな箱を世界から切り離された孤島へと変えてしまった。
「無理をしてはいけない。……雨が上がるまで、ここで待とう」
棚の影から現れたエドワードが、少し湿った髪を払いながら、ソフィアを一番大きなベンチへと促す。
雨音に包まれた密室。ランタンの小さな灯りが、二人の影を大きく壁に映し出していた。
「エドワード様、少し震えていらっしゃる……? もしかして、舞踏会の日から無理をなさっていたのでは」
ソフィアが心配そうに彼の袖に触れると、エドワードはその手を、逃がさないようにそっと包み込んだ。
「……いいえ、ソフィア。震えているのは、寒さのせいじゃない。……僕は怖いんだ。今の自分が、あまりに無力であることが」
いつも穏やかな彼の碧い瞳に、見たこともないような鋭い熱が宿る。
それは、図書室で古文書を読んでいた少年とも、舞踏会で優雅に踊っていた少年とも違う、何か巨大なものを掴み取ろうとする「覇王」の片鱗だった。
「この学園も、君が大切にしているこの温室も、誰かの気まぐれひとつで明日には消えてしまうかもしれない。下級貴族という身分では、君の小さな幸せひとつ、永遠に守り抜くことはできないんだ」
「エドワード様、私は……贅沢なんて望んでおりませんわ。ただ、こうしてあなたと……」
「僕が望むんだ、ソフィア!」
エドワードの声が、激しい雨音を突き抜けて響いた。
彼はソフィアの両手を握り、縋るように、あるいは誓うように彼女を見つめる。
「君を、誰にも、何にも怯えなくていい場所に連れて行きたい。たとえ、この国の王座を塗り替えてでも。……僕は、自らの力で、君だけの国を作ると決めた。君という光を失わないために、僕は……泥に塗れてでも、頂点に登りつめてみせる」
ソフィアは息を呑んだ。
目の前にいる少年の言葉が、単なる若気の至りや夢想ではないことを、彼女の直感が告げていた。
彼の瞳の奥で燃える碧い炎は、いずれ大陸中の地図を書き換えてしまうほどの、苛烈な野心そのものだったからだ。
けれど、同時に気づいてしまう。
その恐ろしいほどの決意の根源が、ただ自分への、あまりに純粋で歪なまでの愛であることを。
「……たとえあなたが、どのような道を選んだとしても」
ソフィアは震える指先で、エドワードの頬をそっと撫でた。
雨音は激しさを増し、温室の硝子を激しく揺らしている。
「私は、あなたの、その強い意思を信じています。……あなたが作る場所が、どこであろうと。私はあなたの隣に、咲き続けましょう」
エドワードが、耐えきれないようにソフィアを抱き寄せた。
雨の冷たさと、体温の温かさ。
硝子の向こう側で荒れ狂う嵐は、これから二人が歩む激動の時代の幕開けのように、いつまでも、いつまでも鳴り止むことはなかった。




