思い出のひと時
領地の片隅に佇む、古びた、けれど誇り高い聖ルミナス寄宿学校。そこは、家柄よりも学びを重んじる若き貴族たちが集う場所。
ソフィア・ローゼンタールは、放課後の図書館の最上階、西日が差し込む特等席で、古い植物図鑑を広げていた。彼女の家は、日々の平穏な生活には困らないものの、着飾るための宝石や煌びやかな夜会とはあまり縁のない、ごく普通の貴族だった。だからこそ、彼女は華やかな社交の場よりも、静かな知識の海を、誰よりも愛していた。
彼女の指先がなぞるのは、滅びゆく薬草の繊細な挿絵。彼女の容姿は誰もが振り返るような華やかな美貌を持っているわけではない。しかし、その瞳には湖のような静謐な優しさが宿っていた。
「……あ。また、このページの文字が霞んでしまっているわ」
困り果て、ため息を吐いた彼女の前に、一筋の影が落ちる。
「それは、第四紀の古エルフ語で記された注釈ですね。……もしよろしければ、僕が読み解きましょうか?」
鈴の音を転がしたような、低く、けれど芯のある強い声。
驚いて顔を上げたソフィアの視界に飛び込んできたのは、銀細工のように繊細な顔立ちをした少年、エドワードだった。
彼の着ている制服は、上級貴族のような贅沢な刺繍こそないが、驚くほど丁寧に手入れされていた。彼は名もなき下級貴族の出でありながら、その成績と立ち振る舞いだけで、学園内の誰もが無視できない存在感を放っていた。
「あ……エドワード様。……でも、これは専門の学者でも頭を抱えるような、難解な文献だと伺っておりますけれど……」
「大丈夫です。僕は、こういう『静かな謎』をひとつずつ紐解いていく時間が、何よりも好きなんです。……ソフィアさんの隣に、座ってもいいですか?」
ソフィアの頬が、春の蕾がほころぶように淡く染まる。
エドワードが隣に腰を下ろすと、彼の制服から微かに香る、清潔な石鹸とインクの香りがソフィアの鼻をくすぐった。
エドワードの手は、他の貴族の子息たちのように柔らかいだけでなく。ペンを握り、剣を振るい、自らの力で未来を掴もうとする者の、硬く、確かな節が垣間見えていた。
彼の手がそっと図鑑に添えられ、二人の指先が触れるか触れないかの距離で重なる。ソフィアの胸の奥で、小さな小鳥が羽ばたくような、かつて経験したことのない鼓動が鳴り響いていた。
「……ここにはね、こう書いてあるんだ。『この花を贈ることは、永遠の安らぎを誓うことと同義である』……と。素敵な言葉だと思いませんか?」
エドワードは図鑑から目を上げ、ソフィアを真っ直ぐに見つめた。
彼の瞳は、晴れ渡った冬の空のように透き通った碧色。学園内でもその高貴な佇まいから一目を置かれている彼が、なぜ自分のような地味な生徒に声をかけたのか。ソフィアは少し困惑し、わずかに身を引いた。
「……ええ。本当に、素敵ですわ」
窓の外では、黄金色の夕日が二人の影を長く引き、静かな図書館を魔法のように彩っていく。
ここにあるのは、厳しい現実や将来の試練を忘れさせるような、純粋な時間だった。
今はまだ何一つ持たぬ少年と、慎ましく生きる少女。ただ、ページをめくる紙の音と、互いの控えめな吐息。そして、これから始まる長い物語への予感だけが、静かに、優しく、雪のように降り積もり始めていた。




