木枯らしのエチュード
フレデリック・ショパンが練習曲集作品25第11番イ短調、別名『木枯らし』を作曲した1836年は、彼の短くも激しく美しく燃えた生涯の中にあって、とりわけ大騒ぎの一年だった。26歳の彼は祖国ポーランド貴族の娘、16歳のマリアと婚約する。美しく可憐で、しかも知的な彼女との恋愛は、前年に肺結核のため人生初の喀血をして落ち込むショパンの心を救った……のは一時だけだった。マリアの両親は病身の音楽家との婚約を破棄したのである。
傷心のショパンは別の女性と恋に落ちた。新たな恋人は年上の小説家ジョルジュ・サンドだった。ショパンはジョルジュ・サンドと、彼女の二人の子供と暮らし始める。彼らの愛の日々は約10年続いた。悪化する一方だったショパンの健康状態は別れの原因の一つとなった。
ジョルジュ・サンドと別れた後、ショパンは経済的にも逼迫した。体調不良のためレッスンや演奏会で生活費を稼ぐことができなくなったためである。1849年10月17日深夜未明、彼は親しい友人や家族に見守られながら息を引き取った。
「土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。生き埋めになりたくないんだ」というのが、wikipediaによればショパンが最後に記した文章のようだ。読む者に息苦しさを感じさせる絶筆である。
葬儀はパリのマドレーヌ寺院で10月30日に執り行われた。その日のフランス北部は冬の訪れを告げる木枯らしが吹き荒れていたとも伝えられている。底冷えする一日だったにもかかわらず葬儀には3000人近い弔問客が訪れた……けれども、そこにジョルジュ・サンドの姿はなかったという。ま、そんなもんだよ。




