知らない声
夜中、背筋に走る悪寒で目が覚めた。部屋にいるのはソファで横になりすやすやと寝息を立てるラディンだけだ。特に異常ないこの空間とは違い、カルディアの頭は感じたことのある気配に警鐘を鳴らしていた。
(この感じは……そう、王女の時と同じ。でも、ずっと強くて多い。すごく遠くにいるのに、感じ取れるくらい)
イザベラが魔物化した時と同じ種類の瘴気、つまり魔人だ。カルディアは急いでベッドから出ると、カーテンを開いて窓の外を見た。視界に瘴気は映らないが、確かにそちらの方から魔人の気配を感じる。瘴気が見えないほど遠くにいるということだろう。
「ん……、カルディア……?どうしたんだ」
ソファで眠っていたラディンが目を覚まし、ぐっと伸びをしながら尋ねた。
「魔人が、向こうに……」
「――っ、何だって?」
魔人という単語を聞き、先ほどまで寝ぼけ眼を擦っていたラディンが、跳ねるように立ち上がった。そして窓辺へ駆け寄り、カルディアの見ている窓を覗き込んでくる。
「……なんだ、何もないじゃないか」
「ここには居ません、でもずっと先の方に。十……ううん、二十はいる」
カルディアは神経を研ぎ澄まして瘴気の気配を追う。瘴気を感じる力は、日に日にその範囲も広げていた。
「アンタ、そんなのが分かるのか?」
「瘴気に人より敏感で……。魔人の瘴気は異質で、普通の魔物とは違うので分かりやすいです」
「魔人が……」
カルディアの言葉を聞いたラディンは、深刻な面持ちで机上の燭台に火を灯した。
「地図はあるか?」
「軍議室にはあったと思います」
「だったらそれを――いや、こっちが行った方が早いか。案内してくれ」
ラディンは手燭に火を移すと、急かすようにカルディアの手を取った。彼女のあまりの気迫に、カルディアは口を挟むこともできない。軍議室に入り、机上に置かれた地図を指差す。
「これです、暗いけど見えますか?」
「あぁ、なんとか……。なあ、この地図のどのあたりに魔人がいるか分かるか?」
ラディンは手燭の火で地図を照らしながら目を凝らしている。軍議室にあった地図は、アストラ領とカザールの全体図を記したものだった。
「えっと、あっちの方なんですけど。地図でいうと……」
「ここがミラフォッサ要塞だから、その北西だな。距離は?」
「それなりに遠いと思います。ここからキュレニアまでの、半分くらいかな」
「…………森の中か」
ラディンは手燭の火を消すと、足早に軍議室を出る。カルディアが訳もわからぬままその後を追っていくと、ラディンは振り向きもせずに言った。
「アタシはすぐにここを出る。アンタは、フェンリル・アストラに鳥なり早馬なり飛ばして、今すぐ帰還しろと伝えろ」
「出ていくって、こんな夜中に?一体どういうことですか?」
「このままじゃミラフォッサは落ちる。フェンリル・アストラに、ニコレッタのことを頼んでる暇は無くなった」
「ミラフォッサが、落ちる……?」
「急がないと間に合わない」
「なっ、待って下さい。せめてもう少し説明してもらわないと、フェンリルさんに連絡のしようもありません!」
カルディアは、部屋に戻り身支度を始めるラディンに語気を強くして迫った。するとラディンの目がようやくカルディアを見た。それから、深く長い息を吐くと緊張をほぐすように眉を下げる。
「……すまん、ちょっと慌ててた」
「いえ。……それで、ミラフォッサが落ちるっていうのは?」
「アンタの感覚が正しければ、ミラフォッサ要塞から見て北西に位置する広大な森に、二十近い魔人が潜んでいることになる」
北西の森はアストラ側の目を隠れ、カザール軍がミラフォッサ要塞に近づける唯一の道だ。しかし、その凄まじい悪路から進軍には向かない。その上要塞にいくら近づこうと、中に入って落とすことができないのでは意味がないとして、今までカザール軍の進軍路として使われたことはなかった。しかしニコレッタは、フェンリルが前線に出ていて不在な上、領内の魔物への対処のため要塞内が手薄な今を狙い、魔人たちを使って一気呵成にミラフォッサ要塞を攻め落とそうとしている――というのがラディンの予想だった。
「ミラフォッサは不落要塞と名高いが、大変なのは中に入るまで。要塞内にさえ入れば、中にいるのは少数の兵士と一般民だ」
「でも、そう簡単に中には入れないんじゃ……」
「確かにミラフォッサは鉄壁だ。普通の兵なら、守る側の十倍は数を用意しなきゃ難しいだろうな。だが、アイツが使ってくるのは二十近い魔人だ。一匹でも潜り込ませられれば、後はどうとでもなる」
(主力を欠いたここに、いきなり魔人が攻め込んできたりしたら……。きっとなす術もない)
「ここが落ちたら、いよいよニコレッタは止められなくなる。フェンリル・アストラには一刻も早く戻って来てミラフォッサを死守して貰いたいが……。万が一間に合いませんでしたじゃ笑い話にもならないだろ?」
「それは、そうですが……。どうするつもりですか?」
「アタシはカザールに戻る。最悪ミラフォッサが落ちることになったとしても、その前にニコレッタを殺せれば良い」
物陰に入っていたラディンはいつの間にか着替え終えていたようで、背に弓矢を背負っている。
「森の中を通るのが、一番速いか……」
ラディンがぼそりと呟いた言葉に、カルディアは耳を疑った。
「待って下さい、森の中を通るって……。魔人と鉢合わせたらどうするんですか?」
「その時はその時だ。逃げ切れることを願うばかりだな」
(そんなの、いくら何でも危険すぎる)
このまま彼女を行かせていいのか。カルディアは迷った末、今にも部屋を出ようとするラディンの腕を掴んだ。フェンリルへの連絡は、家令を起こして頼めば良い。カルディアがここに居たって、大して出来ることはないのだ。だが目の前にいる人のことは、助けられるかもしれない。
「私も行きます」
「……は?アンタ、何言って――」
「歩みが遅くなってしまうとは思います。でも私がいれば、魔人を避けて進むことはできます」
「でもそんな、危ないだろ」
「危険は承知です。それより、目的地にも辿り着けず死ぬかもしれない人を、このまま行かせることは出来ません。少し待っていて下さい、フェンリルさんへの連絡を頼んできます」
カルディアはラディンの返事も聞かずに部屋を出ると、家令を叩き起こした。家令は突然のことに混乱しながらも、怒ることもなく対応してくれた。
「一刻も早く、フェンリルさんを呼び戻して下さい」
「閣下をですか?いきなりどうして」
「遠くないうちに、たくさんの魔人がミラフォッサに攻め入ってくる可能性があるんです。あまり詳しく話している暇がないんですが……とにかくお願いします」
流石にこんな説明じゃ納得してもらえないかもしれない、そう思いながらも頭を下げる。しかし家令は、仔細を問うこともせずに頷いてくれた。
「……顔を上げてください。分かりました、すぐに鷹を飛ばしましょう」
「ほ、本当ですか!?ありがとうございます!」
「閣下より、貴方の望みは全て叶えるようにと申し付かっておりますから」
家令がきっぱりとした態度でそう言う。カルディアはもう一度頭を下げると、ラディンの待つ部屋へと急ぎ足で戻った。そこでは支度を終えたラディンが、じっと窓の外を見つめて待っていた。
「ラ、ラディンさん!大丈夫です、行きましょう!」
「……あぁ、行こう」
ラディンはカルディアの手を引き屋敷を出た。馬小屋に預けていた自身の馬に、カルディアを抱えながら乗り上げる。そうして背後に座ったラディンが、女性にしては随分と逞しい腕で、カルディアをぐっと抱き寄せた。
「飛翔馬は速いぞ、しっかり捕まってろ」
ラディンが馬の腹を蹴った。その瞬間、空気を切り裂くように馬が駆け出した。門兵が止める暇もなく城壁を抜け、砂埃を上げて直走る。飛翔馬はその名の通り、森の中に入ると、どんな悪路も飛ぶように駆けた。小枝や葉が皮膚を薄く傷つけるが、それを感じる暇がないほど速い。目も開けられずしがみつくカルディアの後ろで、ラディンは慣れた様子で馬を走らせ続けた。
「カルディア、魔人がどの方角にいるか分かるか!」
びゅうびゅうと鳴る風切り音にかき消されないように、ラディンは大声で叫んだ。カルディアも負けじと声を張り、指で方向を指し示す。
「あっちです!」
ラディンがそれを聞いて手綱を引けば、飛翔馬は右向きに方向を変え、スピードを落とさず木々の合間を縫うように走った。ほとんど夜通し駆け続け、森を抜けてからしばらくした頃。夜が明け、空が白み始める。視界の向こうに、立派な宮殿が見えてきた。ラディンは人目を避けて宮殿の裏手に回ると、馬から降りる。宮殿を囲う外壁、その近くの木に飛翔馬を繋げた。
「あそこ、見えるか?」
ラディンはカルディアの脇を抱えて彼女を下ろすと、外壁の一点を指差して言った。外壁が崩れ、人一人通れるくらいの穴が空いている。
「ずっと放置されててさ。こっち側は見回りもほとんど来ないし、上手く忍び込めるはずだ」
ラディンは顔を隠すように羽織のフードを目深に被ると、身を屈めて穴の向こうへ進んでいく。そんな彼女に続いて進めば、草木の生い茂る狭い場所に出た。建物の影になっていて薄暗く、確かにここなら隠れやすそうだと納得する。ラディンはやけに宮殿内に詳しいようで、迷う様子もなく前を歩いて行く。
「あの、今更なんですけど……。潜り込むのに成功して、次はどうするんですか?」
「そんなの決まってるだろ。ニコレッタを見つけ出して、この弓でこうだ!」
ラディンは素手で弓を引く素振りをして見せた。やけに自信に満ち溢れる様子だが、要するに無計画ということではないだろうか。カルディアは急激に不安になってきたが、ここまで来て逃げ出すわけにもいかず、大人しくラディンに続いて行く。
「とにかくニコレッタを見つけなきゃ始まらない。ほら、あそこの窓から入るぞ」
先に入ったラディンの手を借りながら、少し高い位置にある窓をくぐる。窓枠から慎重に廊下へ降りようとしたのだが、つるりと足が滑ってしまった。頭から床に衝突しそうになるカルディアを、ラディンが慌てて受け止める。その弾みで、彼女の背中が飾られていた花瓶にぶつかった。
「あっ!」
花瓶は盛大な音を立てて床に落ち、バラバラに割れてしまっている。これは大変なことをしてしまったのではないか、さっーと血の気が引いていくのと同時に、慌ただしい足音がこちらに近づいてきた。
「一体何の音――なっ、侵入者だ!!」
片手に槍を携えた見回りの兵が、カルディア達を見て大声を上げた。その声を聞きつけたのだろう、数十秒としないうちに兵達が駆けつけ、カルディア達は完全に取り囲まれてしまった。
「ご、ごめんなさい!私のせいで……」
震え声で言うカルディアを、ラディンは「そんな気にすんな」と小声で励ます。しかし状況は最悪だ。ニコレッタに会うどころか、ここで捕まえられてしまうだろう。どうしたものかと歯噛みするカルディアの前に、一人の男が進み出た。壮年の男は武器を持っておらず、その身なりから身分の高さが窺える。両手を後ろに組んだまま、不遜な視線を向けてくる。
「拘束しろ。特にそっちの黒髪は厳重にな。あの羽織の模様、ウェリスタスのものだ」
「はっ!」
兵士の一人がカルディアの腕を取ろうと手を伸ばしてきた。しかし、背後にいたラディンが、カルディアの腰をぐっと引き寄せる。
「何のつもりだ。無意味な抵抗は己の首を絞めるだけだぞ」
壮年の男が、冷たい眼差しのままそう告げる。ラディンはより強くカルディアの腰を抱き寄せると、小さな笑い声を漏らした。
「アンタこそどういうつもりだ?ナイール」
「…………貴様、一体何者だ」
ナイールと呼ばれた男が、スッと右手を挙げた。兵士たちが一斉に槍先をこちらへ向けて詰め寄ってくる。絶体絶命の気分を味わうカルディアの背後で、ゴソゴソと服を脱ぐ気配がする。
(ラ、ラディンさん?こんな時に、一体何してるの!?)
まさか色仕掛けでもするつもりなのかと疑えば、シュルシュルと音を立てて白い布が床に落ち、綿を詰めた袋が投げ捨てられた。どうやら、服を脱いでいるわけじゃないらしい、首を捻ってラディンを窺えば、首にかけていたネックレスを片手で引きちぎってしまった。
「な、何して……」
繋がっていた宝石や飾りが、バラバラと音を立てて床に落ちる。ラディンが、その顔を隠していた外套を脱ぎ捨てた。ナイールの細い目が、驚きに見開かれるのが見えた。ナイールだけではない、カルディア以外の全員が、まるで息をすることを忘れたように固まっている。手前にいた兵士が、槍を取り落とした。
「ん、んー……あー。うん、やっぱり自分の声はしっくりくるな」
背後から、聞き覚えのない低い声がする。ナイールの瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。カルディアはもう、今ここで何が起きているのか、自分を抱き寄せる腕の持ち主は誰なのか、何も分からなくなってしまっていた。
「貴方、は……」
ナイールの声は震え、語尾が力無く消え去っていく。向けられていた槍先は、いつの間にか全て下ろされていた。
「本当に……あぁ……本当ですか」
「ははっ!何だよそれ。まさかオレの顔、忘れたなんて言わないよな?」
聞き覚えのない男の声があたりに響く。しかし、快活さを感じさせるその抑揚は、慣れ親しんだものだった。




