北の赤い狼
フェンリルの邸宅は、左右に国境壁が繋がるように聳え立つ、ミラフォッサ要塞の中にあった。カザールとの国境の真上に位置しているということだ。いついかなる時でもカザールとの戦いに対応できるよう、広大なアストラ領の中から、国境に位置する要塞都市の中を選んでいるらしい。
「それにしても、すごい場所ですね」
「ミラフォッサは不落要塞として知られる国防の要だからね。これだけの城壁は、そうそうお目にかかれないよ」
馬車から降りて見渡せば、見上げるほど高い壁が都市を囲っている。そのままアストラ邸に足を踏み入れれば、家令の男がカルディア達を迎えた。
「遠いところよりご足労いただき、誠にありがとうございます。しかしながら、閣下は現在前線に赴いておられまして……。もう少しでお戻りになられるかと」
「そうか、どの辺りで戦っているんだ?」
「カザールの本隊は一週間ほど前に押し戻しまして、現在は後方で立て直しを図っている模様。国境門付近に、先遣隊と見られる数百人規模の隊が現れたため、そちらの討滅に向かわれております」
「もしかしてあいつ、また一人で向かったのか?」
「はい、あの程度なら自分一人で十分だと……。全く無理はなさらないで欲しいものです。ベリウス卿からも何とか言っていただきたい」
「はは、俺が言ったところで、聞くような奴じゃないからな」
数百人を一人で相手取るなんて、想像もつかない話だ。しかし、ヴィンセントと家令の会話を聞く限り、割と良くあることのようだった。
「今城壁に行けば、フェンリルの戦ってるところが見られるかもしれない。ちょっと見に行ってみようか」
ヴィンセントはそう言ってカルディアの手を取ると、レオにも声をかける。
「殿下もいかがですか?」
「あぁ、赤い狼の噂には興味がある」
珍しくレオも乗り気のようで、ヴィンセントに続いて城壁へと向かった。城壁では、兵士たちが眼下で繰り広げられる戦いに熱狂していた。恐る恐る覗き込めば、小さく見える一つの人影が、カザール兵を次々に斬り伏せていく。もう半数近くのカザール兵が、地面に倒れ伏していた。
「オイオイ、あれ人間か?」
レオは、身体中を赤く染めるフェンリルを眺めながらそう言う。魔法もなしに敵を蹂躙する彼に少なからず驚いているようだった。フェンリルは前方の兵士から振り下ろされる刃を剣で受けると、長い脚で敵の横腹を蹴り抜いた。そのまま側方の敵を斬りつける。しかし、背後から彼の背を襲う槍があった。
(危ないっ!)
つい身を乗り出してしまう。隣にいるレオも思わず目を見開いている。しかし、ヴィンセントだけは平常な顔つきで見守っていた。
「――え?」
フェンリルの背後にいた兵の持っていた槍が、消えた。正確に言えば、男がフェンリンの背を刺そうとしたはずの槍が、いつの間にか彼の手の中に収まっていた。フェンリルは先ほどまで持っていた剣を地面に投げ捨てると、左手に手にした槍を右手に持ち替え、背後の敵の喉元を刺し抜いた。巨漢の男から流れる血が、フェンリルの頭を濡らしていく。
(いつの間に槍を奪ったんだろう……)
最初はただ、奪う瞬間を見逃しただけだと思った。しかし、すぐにそれは間違いだったと気づくことになる。戦いの中で、何度も似たようなことが起こるのだ。敵の持っていた武器がいつの間にか消えていたり、フェンリルが気づかぬうちに全く違う武器を振るっていたり。極めつけには、城壁で戦いの見物をしていたアストラ兵の持っていた弓と矢が一本、一瞬のうちにフェンリルの手の中にあった。フェンリルは弓を引き絞り狙いを定めると、離れたところにいた将の頭を一矢で射止めてしまった。
「…………」
レオは難しい顔をして、フェンリルを見ている。城壁の下、撤退していく兵をしばらく眺めていたフェンリルは、くるりと城門の方へ体を向けた。そしてパッと消えてしまったと思うと、一瞬にしてカルディアの隣に現れた。
「わぁっ」
あまりにも唐突に現れたので、カルディアは驚き声を上げる。フェンリルの銀色の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
「君は……」
フェンリルが思わずといった様子でカルディアに手を伸ばしてきた。しかし、彼の背後にいた人物がその手を素早く捕まえる。ヴィンセントだ。
「おいフェンリル、用ならその返り血だらけの体をどうにかしてからにしてくれないか」
「……あぁ、そうだな」
「もう屋敷に戻るんだろう?俺たちも着いていくとしよう」
先を歩くフェンリルとヴィンセントの背中を見つめながら、カルディアは未だ押し黙っているレオに話しかけた。
「フェンリルさんって、魔法が使えたんですね。敵の武器がパッと消えたり現れたりしたと思ったら、次は本人がいきなり現れるので、びっくりしちゃいました」
瞬間移動というやつだろうか。アストラ領では魔法士がほとんどいないと聞いていたので、少し意外だった。
「……あれは魔法じゃねぇ」
「え?」
レオの発言が上手く理解できず、首を傾げる。だってあれはどう見ても、普通の現象じゃなかった。あれが魔法でなくて何だというのだ。
「お前に何回も言ってる通り、魔法は万能じゃねぇ。瞬間移動なんて出来るわけねえんだよ」
「でも殿下だって、物を浮かせたり、自分が飛んだりしてたじゃないですか」
「ハァ……。いいか、魔法ってのは地水火風の四大元素の複合と応用。もしくは魔力っていう単純なエネルギー体の発露。それ以上も以下もねぇ。物を浮かせたり飛ばせたりってのは、俺が風の出力やら向きやら丁寧にコントロールしてるだけだ。だがフェンリル・アストラのあれは、そういう次元のものじゃなかった。空間を弄ったとしか考えられねぇ」
「でも……魔法じゃなかったら一体何なんでしょう」
「知るかよ、ンなこと。俺に聞くな」
レオはどうやら考えることをやめてしまったようで、それだけ言うとツカツカと歩いて行ってしまう。カルディアは慌てて彼を追いかけた。アストラ邸に戻ると、フェンリルは身を清めるために浴室へと向かった。しばらく待って彼が戻ってきたところで、大きな机を囲んでの軍議が始まる。そこには騎士やアストラ領の将兵なども揃っていた。カルディアは、なんだか自分は場違いなのではと思いつつ、黙って席に着いている。
「お前が援軍を頼んで来るとは、今回はそれなりに切迫しているようだな」
ヴィンセントがそう言えば、フェンリルは小さく頷いた。
「カザールだけでなく、領内で頻出している魔物にも人員を割かなくてはならない。だが、それ以上に……」
彼はそこで一度言葉を切る。アストラ領の人たちの顔が、一様に曇ったのを感じた。
「魔物のような何かが、カザール軍内にいると報告を受けている」
「魔物のような何か?」
「目撃回数は少なく、確かなことは分からない。目撃者の話だと、魔物に似た人間だそうだ。カザール軍はそれを、魔人と呼称している」
"魔人"。そう聞いて一番に思い浮かんだのは、魔物と化したイザベラの姿だ。同じことを思ったのだろう、レオもその言葉に小さく顔を上げた。
「……実際、いくつかの隊がそれに壊滅的な打撃を受けている」
「ただでさえ人手不足な上に、魔人に苦戦を強いられているというわけか」
魔人による被害は随分深刻なようで、援軍を要請するに至ったらしい。その後もしばらく軍議は続き、一段落着いたところで、旅の疲れもあるだろうからとお開きになった。軍議が終わり、部屋を出るヴィンセントやレオに続こうとしたところで、背後から静かな声に呼び止められた。
「……待ってくれ。少し君に、話がある」
フェンリルはそれだけ言うと、部屋からカルディア以外の人が出ていくのをじっと待っていた。二人きりになったところで、カルディアも座るようにと手で促す。カルディアは一体何の話だろうと疑問に思いながらも席についた。
「君は俺を見て、何か感じることはないか」
(何か感じること……?静かな人だとは思ってるけど、そういうことじゃないよね)
あまりに突拍子のない質問に、困惑しながらも首を振った。フェンリルは相変わらずの無表情で、カルディアをじっと見つめている。
「……そうか」
「は、はい」
「…………」
「…………」
「…………」
(えっ?……まさか話って、これだけ!?)
一向に終わらない沈黙に、席を立って良いものかと迷い始めた頃。ようやくフェンリルが口を開いた。
「滞在中、問題があればすぐに言ってくれ。……対処する」
「は、はい。ありがとうございます」
今度こそ会話が終わったことを感じ取り、そう言えば彼に聞きたいことがあったのだと思い出した。それは他でもない、イザベラのこと。彼女が魔物と化した経緯を聞かせてもらった時、その話の中にフェンリルが出てきたのだ。
(王女は王宮内で見かけたフェンリルさんを追って物置部屋に入った。でも中には誰も居なくて、そこで見えない影からあの腕輪を与えられた……。正直、フェンリルさんは怪しいんだよね……)
「その、フェンリルさん。一つお聞きしたいことが」
「何だ」
「以前、王宮で王女殿下に会われましたよね?その時、物置部屋に入ったりしましたか?」
フェンリルは記憶を探るように目を閉じていた。しばらくしてから、澱みない口調で答える。
「……王への謁見のため、最後に王宮を尋ねたとき、王女殿下とお会いしたのは確かだ。しかし、物置部屋などに入った記憶はない。……何故そんな事を?」
「えっと……実は王女が、貴方の後を追って部屋に入ったのに誰もいなかったと話していて。その時もどこかに瞬間移動で消えてしまったのかなって、気になったんです。さっき城壁の上にパッと現れたみたいに」
「……物置部屋には入っていないし、王宮内で無闇に力を使ったりもしない。王女が見たのは、俺ではないと思う」
「そう、ですか……」
(フェンリルさんが嘘をついているようには見えないけど……。だとしたら、王女が見た銀髪の後ろ姿は何だったんだろう)
幻覚なのか、フェンリルじゃない誰かなのか。いくら考えても、答えの出ないことだ。フェンリルとの話を終えたカルディアは、疑問を解消できぬまま与えられた部屋に戻ったのだった。




