イザベラ・コンコルディア
あれから二週間近く経ったが、フォルトゥナ神殿での日々は平和そのものだった。ヴィンセントがカルディアの秘密を誰かにバラすこともなければ、あの外套の男が接触してきたり、魔物が出たりすることもない。何の変哲もない日々。そんなふうに見えるだろう、カルディア以外には。しかしカルディアは現在、ある問題に頭を悩ませていた。
(また、瘴気だ)
その問題というのが、カルディアの視界に映る瘴気。魔物騒ぎから一夜開けてみると、カルディアは神殿の至る所で瘴気を見るようになった。そのどれも、魔物や外套の男が纏っていたのと比べると、ずっと薄い。薄いとはいえ、今まで全くなかったものをこうも頻繁に目にするようになると、神殿で何が起こっているのではと疑うものだ。カルディアは当然、すぐにヴィンセントやレオに相談した。
(でも、瘴気が見えてるのは私だけなんだよね。殿下もヴィンセントさんも、そんなものはどこにもないって)
「普通は、魔物が発するレベルの強い瘴気しか人の視界に映らないんだ。例の男と接触した影響で、君は瘴気に対して過敏になっているのかもしれない」というのが、ヴィンセントの予想だ。外套の男との接触により、本来見えないような希薄な瘴気まで感じとれるようになっていて、時間をおけば治るのではないかということだった。
(この二週間様子を見たけど、治るどころか悪化している気がする)
最初は視界に映るだけだった瘴気だが、今となっては少し離れたところで瘴気が発生しても感じ取れるようになってしまった。そうして日々を過ごす中で、分かったことがある。瘴気というのは、何も魔物だけが発しているものではないということだ。人間の負の感情や、死の気配、危険なことが起こる場所。そういうマイナスな事柄全てが、瘴気を生み出している。
(まあ、日常生活に支障はないし。それどころか、トラブルを避けられて便利なんだけど……)
瘴気がある場所を避ければ、自然と問題事も避けられる。この二週間でカルディアが学んだことだった。また視界の隅に、瘴気がよぎった。比較的濃いな、なんてそちらに視線を向けてみる。
「イザベラ王女……?」
カルディアは、信じられないものを見た気持ちだった。瘴気を纏う人は、この二週間で何回も見た。鬱屈とした気持ちを抱えている人や、大きな怪我や病気を持つ人、死の近い人。そういう人が瘴気を発するのだと理解もした。しかし、彼女から発せられる瘴気は、他のものより数段重く、強い。思わず見つめ続けていれば、視線に気付いたのだろうイザベラが、笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。
「レーラントさん!そんなところでボーッとして、どうしたのかしら?」
「い、いえ。特に何も」
カルディアに話しかけてくるイザベラの様子は、普段となんら変わりないように見える。お人形のように可愛らしく、にこにことしていた。しばらく他愛ない会話を続けていると、突然背後から影が差した。振り返ってみれば、いつの間にきたのだろうかレオが不機嫌な顔をして立っていた。
「おい、てめぇ。またコイツに絡んでんのか」
「……あら、お兄様」
(王女の瘴気が濃くなった……?)
イザベラの纏う瘴気が、また一段強くなる。あまりに異様な状況に、カルディアは思わず後退る。
「ン?おい、大丈夫か」
「あら、レーラントさん?顔色が悪いわ」
「あっ、大丈夫です。私、用事があるので失礼します。ほら、殿下も!」
カルディアはレオの腕を強く掴むと、引きずるようにしてその場を離れた。何やらレオが文句を言っているが、もちろん無視だ。
「サイラス、テメェ何のつもりだ?この俺を引きずり回しやがって」
とりあえず人気のないところへ、そう思いたどり着いたのは神殿の片隅にある墓地だ。カルディアは周囲に人がいないことを確認すると、手招くような仕草でレオを呼ぶ。
「ンだよ」
「耳、貸してください」
レオはため息をつくと、カルディアの隣まで歩み寄って、カルディアの背に合わせるように、上半身を傾ける。カルディアは少し背伸びをすると、声を潜めて話だした。
「王女殿下のことなんですが、何かありましたか?」
「イザベラ?知るかよ、アイツのことなんか」
「その、強い瘴気を纏っていて……。大丈夫でしょうか」
自分の見たものをレオに説明してみるが、彼はさして関心がない様子だった。結局瘴気の原因はわからないままで、それから数日間、見かけるたびに強くなるイザベラの瘴気に、カルディアは不安に苛まれていた。
*
(建物の向こうに、王女殿下がいる……)
初めてイザベラの瘴気を見てから五日ほど経った。日に日に強くなる瘴気は、近くに居ずとも、イザベラがどこにいるか感じ取れるほどだ。イザベラは表向きには変わった様子を見せないが、何か起きていることは間違いないだろう。
(かといって、私にはどうすることもできない)
瘴気を感じられる距離にいると、どうしても気になってしまう。少しでもイザベラから離れようと踵を返した。しかし、ゾッと背筋を通り抜ける寒気のようなものを感じて、慌てて振り返る。
「イザベラ王女――?」
王女に何かが起きた、その直感とともにカルディアは駆け出した。歩く人にぶつかるのも構わず、建物の向こう側、魔法訓練場の方へと走る。どうにか走り着いたそこでは、倒れ伏す教師と生徒、身を寄せ合い怯える女生徒たち。その中心には、背中に大きく黒い翼を生やし、鋭い爪を振り回しながら鳴き叫ぶイザベラの姿があった。
「あれは、いったい……」
カルディアは放心しかけたのも束の間、近くで腰を抜かしていた女生徒に詰めよった。
「あれは一体、王女に何があったんですか!!」
「ひっ、黒髪金――」
「いいから答えて!!!!」
自分を見て怯えの色を濃くした女生徒の胸ぐらを引っ掴むと、ぐっと顔を近づけて叫んだ。女生徒は、なんどか荒く息をした後、震える声で話し出す。
「わ、私たち……魔法術の、実技試験の最中で。イザベラ様の番になって、それまで普通だったのに、魔法を使ったら、イザベラ様が、イザベラ様が……!」
そこまで言うと、彼女はガタガタと震えて涙を流し出した。カルディアは立ち上がり、イザベラの方を見る。彼女のいる場所の地面は抉れており、ほとんどの生徒、それから教師まで地面に倒れて動かない。
「アァ……。ヴアァァッッッ!!!」
それまでじっと立ち尽くしていたイザベラは、奇声を発したかと思うと、意識なく倒れていた一人の男子生徒の首を片手で掴んだ。背中の翼がバタバタとはためき、イザベラが浮き上がる。凄まじい力なのだろう、首を掴まれた男子生徒の体も空中へと昇っていく。
「だ、駄目……!!」
カルディアは、近くに倒れていた生徒の腰にある剣をどうにか引き抜くと、先ほど話した女子生徒の方を振り返った。
「レオ・コンコルディア王子を呼んできて!!」
「えっ?」
「中庭か……いなかったら図書館の奥で寝てるはずだから!!いなかったら騎士団でもいい!」
「で、でもわたくし、動けな……」
「動けなくても動いて!!早く行って!」
カルディアの気迫に押されたのか、女生徒は震える足で倒れそうになりながらも駆け出した。それを見たカルディアは、改めてイザベラの方へと向き直った。イザベラは苦しそうな断末魔をあげながら、黒い涙を流している。イザベラに首を掴まれている男子生徒は、相当強い力で絞められているのだろう、血の気のない顔色をしていた。
(魔法訓練場は、特殊な仕掛けが施されてるって聞いた。この騒ぎは、外の人には伝わってない……)
正直、魔法も剣もろくに使えないカルディアの手で、あの状態のイザベラをどうにかすることは不可能だ。騎士団の本部はここから遠い。レオが中庭にいてくれれば、それが一番早いはず。しかし、応援が来るまで自分が持ち堪えられる自信はなかった。
(とにかく、王女の手を、あの生徒の首から外させないと……)
カルディアは慣れない剣を両手で握りしめると、異形と化したイザベラに向かって駆け出した。




