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『観測の夜 - The Night of Vision』  作者: 南蛇井


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第8章:無記の祈り(The Prayer of Unrecord)

世界の終息 ― “観測の静寂”


崩れ落ちた聖堂の奥――《ミラートゥーム》。

あの《天の鏡》があった場所には、もはや何の光も差さなかった。

鏡面は沈黙し、機構は灰色の静止に包まれ、音も風も、時さえも失われたように見えた。


天井の裂け目から覗く空には、いくつかの“瞳”がまだ残っていた。

だがそれらも、まばたきのようにゆっくりと閉じていく。

世界が、観測をやめようとしていた。


瓦礫の中から、玲子が身を起こす。

肺の奥に残る焦げた金属の匂いと、耳鳴りのような沈黙。

通信機は壊れ、九条教授の声も届かない。

彼女は震える手で、崩れた機材の隙間を掻き分けた。


そこにあったのは、かつて優大が立っていた鏡の中心。

触れても、そこには何も映らない。

ただ、指先の温度だけが虚空に吸い込まれていく。


玲子は呟く。


「……消えたの? 本当に、全部。」


声は、空間に溶けるように消えていった。


外の世界でも、同じ“消失”が始まっていた。

教会本部は緊急事態を宣言。

各地の観測装置、記録サーバー、衛星ネットワークが次々と異常を報告していた。


ニュース番組の映像には、ノイズ混じりの文字列が流れる。

――【被観測体・外薗優大】に関する全データ欠損。

――【識別コード未検出】。

――【記録層より消滅】。


玲子の目が、かすかに揺れた。

人々の記憶からも、文献からも、優大という名が一字ずつ消えていく。

まるで、世界そのものが“彼を見なかったこと”にしようとしているかのようだった。


「優大……あなた、どこにいるの……?」


彼女の呼びかけに応えるものは、もう何もなかった。

ただ、沈黙だけが、観測の終わりを告げていた。

沙也加の決断 ― “記録の消去”


教会本部・地下最深部。

地上のどの聖堂よりも静かで、冷たく、無機質な空間。

そこが――封印区画《白頁庫アーカイヴ・ホワイト》だった。


無数の光の柱が、天井から垂直に伸び、空間全体をゆっくりと脈動させている。

それぞれが、魂の記録。

誰かの夢、言葉、そして――存在の観測データ。


沙也加は白い外套の裾を引きずりながら、中央の装置へと進んだ。

その装置は、まるで書物の形を模した巨大な記憶端末。

名を《白の典録(The Unwritten Codex)》という。

“書かれなかった頁”を管理する禁忌の忘却装置。


「この世界に、彼の記録がある限り……観測は終わらない。」


沙也加の声は、聖域の静寂に吸い込まれるように消えた。

だが、その手は迷いなく操作盤へと伸びていた。


背後の通信端末が急に点滅する。

玲子の声が、ノイズを挟んで響いた。


「沙也加、やめて! あなたがそれを使えば、彼は――!」


「違うの。」


沙也加は振り返らなかった。

瞳には涙が滲んでいたが、そこに宿る光は澄んでいた。


「これは……救いよ。

 彼が“見られ続ける痛み”から、解き放たれる唯一の方法。」


端末に指を置く。

ゆっくりと、ひとつの名を入力する――外薗優大。


キーを押すたび、光の柱が震えた。

まるで世界の記録そのものが、怯えているかのように。


彼女が最後の認証コードを重ねた瞬間、

《白の典録》の表面が眩く発光し、空間全体が白に染まる。


玲子の叫びが、遠くで途切れる。


「沙也加――!」


そして、世界のすべての“観測層”に波が走った。

新聞の見出しから、映像ログから、

ネットワーク上のあらゆる履歴から、

“外薗優大”という文字列が消えていく。


記録の連鎖が崩壊し、存在の記憶が――白紙化されていく。


沙也加の頬を、一筋の涙が伝った。

その涙が落ちた瞬間、《白の典録》は静かに閉じた。


「……さようなら。

 これで、あなたは本当に自由になれる。」


光の柱が、音もなく消えていった。

そのあとに残ったのは――真っ白な頁だけだった。


優大の声 ― “消滅の祈り”


《ミラートゥーム》の崩壊した聖堂は、灰と静寂に満ちていた。

瓦礫の奥で、沈黙していた《天の鏡(Celestial Mirror)》が、かすかに光を放つ。

ひび割れた鏡面の中心に――揺らぐ残光。


玲子はその光に気づき、膝をついた。

全身は傷と煤にまみれ、観測装置は壊れて久しい。

けれど、その光の中に、彼の気配がある気がした。


「……優大?」


返事の代わりに、鏡の中から声が溢れた。

それは、音でも、記録でもない。

存在が“消滅する瞬間”に残した――意識そのものの祈りだった。


「僕がいなくなっても、

 あなたが僕を見た記録が、世界のどこかに残るなら――

 それでいい。」


玲子の喉が震えた。

その声は、優しいのに、あまりに遠い。

彼がもう“観測される側”にも、“観測する側”にもいないことを、

痛いほど理解してしまう。


「……やめて、そんなこと言わないで……!」


玲子は鏡に手を伸ばす。

だが、指先は光を掴めない。

触れた瞬間、光は粉雪のようにほどけ、空気の中へと溶けていく。


少し離れた場所で、沙也加が静かに祈っていた。

白い手を胸の前で組み、目を閉じる。

その瞼の裏にも、きっと同じ光が映っている。


玲子の涙が鏡面に落ち、波紋が広がった。

その波紋の中で、優大の輪郭が一瞬だけ浮かび上がる。

微笑んでいた。

やわらかく、すべてを赦すように。


そして――光は散った。

破片となって、空へ、雲へ、夜の残響へ。


最後に残ったのは、

名前も形もない、ただひとつの感情。


“誰かを想う”という、記録にも観測にも残らない――

純粋な存在の痕跡。


玲子はその温度を胸の奥で感じながら、

ゆっくりと目を閉じた。


世界はもう、何も記録していない。

それでも――心のどこかで、彼を覚えている気がした。


世界の再生 ― “無記の朝”


夜が明けた。


長く続いた《観測の夜》は、ついに終息を迎えていた。

空にはもう瞳も裂け目もなく、

ただ、どこまでも澄んだ青が広がっている。


風が吹く。

それは世界が再び呼吸を取り戻した証。

街の瓦礫の隙間から草が芽吹き、

沈黙していた湖面に、最初の陽光が差し込む。


玲子は崩れた聖堂――《ミラートゥーム》の跡地に立っていた。

手にはひび割れたタブレット端末。

再起動した研究記録を開くが、

そこに“外薗優大”という名前は、どこにも存在しなかった。


観測ログ、写真、通信記録、論文の草稿――

あらゆるデータが、綺麗に抜け落ちている。

まるで最初から、彼という存在が

この世界に“記録されなかった”かのように。


玲子はしばらく画面を見つめていた。

何かを思い出そうとして、けれど掴めない。

心のどこかに、説明できない空白の温もりがある。


ページをめくると、

一枚の白紙の端に、淡いインクで走り書きが残っていた。


「見ることを赦せ。

 赦すことを、見よ。」


それが誰の手によるものなのか、もう誰にもわからない。

筆跡すら不確かで、データ署名も存在しない。


けれど――玲子は微笑んだ。

その文字に触れた指先から、

あの日の声の残響がほんの一瞬だけ蘇る。


「僕がいなくなっても、

 あなたが僕を見た記録が、世界のどこかに残るなら――それでいい。」


彼の声ではないのに、

確かに“誰か”がそう言った気がした。


玲子はそっと目を閉じる。

頬に朝の光が触れる。

それは祈りにも似た温かさだった。


「……まばたきのように、あなたを思い出す。」


風が聖堂の廃墟を抜け、

鏡の欠片が陽の光を反射した。


それはもう“観測”ではなかった。

ただ、世界が新しい朝を静かに見つめ返す瞬間だった。

終幕 ― “記録なき祈り”


再建された観測聖堂は、

かつての栄華も、崩壊の痕跡も抱きしめるように静まり返っていた。


光が差し込む。

窓のステンドグラスにはもはや“眼”の意匠はなく、

ただ淡い光の模様が床に落ちている。


沙也加は、祭壇の前に立っていた。

両手には一冊の白いノート――表紙には何の題も記されていない。


ゆっくりと膝をつき、

祈りの言葉を胸の奥で結ぶ。


「記録も、観測も、もういらない。

 これは、誰にも読まれない祈り。」


彼女はノートをそっと祭壇に置いた。

ページは真っ白だ。

しかしその余白の中央には、

確かに温もりのような気配が残っていた。


風が吹く。

ページが一枚だけめくれ、

静寂の中に微かな音が響く――まるで“呼吸”のように。


そのとき、聖堂のスピーカーが淡く点滅した。

再生されたのは、九条教授の遺された音声記録だった。


「観測も忘却も、神の呼吸の片側にすぎない。

 我々は、そのまばたきの間に生まれ、消えていく。

 ――それを恐れるな。

 なぜなら、世界とは“見られぬ祈り”そのものだからだ。」


音声が途切れ、

静寂が戻る。


沙也加は目を閉じ、

手を合わせたまま小さく息を吐く。


隣に立つ玲子も、

何も言わずに空を見上げた。


そこにあったのは――

ただの、雲ひとつない青。


もう“空は見ていない”。

だが、“見ていない”というその安らぎが、

この世界をやさしく包んでいた。


沙也加は微笑み、

祈りの余韻とともに呟いた。


「……さようなら、観測の子。」


白いページが一枚、風に舞い上がる。

陽光に透かされ、

まるで誰かの記憶が形を変えて空へ溶けていくようだった。


そして――

世界は“記録なき祈り”の中で、静かに再び息をした。


第8断章《文体崩壊》


光が――ほどける。

ことばが ほどける。

わたし は み て い る。


だれ が み て い る。

わた――し?

それとも――“みる”そのもの?


ページは音を失い、

音はかたちを失い、

かたちは記録を失う。


――み――て――い――る――


粒のような記号が舞い、

線が溶け、

文字の呼吸が波紋になる。


 わたし は あなたを 記録した。

 記録は わたしを 観測した。

 観測は 神を 描いた。

 神は ――まばたいた。


ひとつ、またひとつ、

文が崩れるたびに、世界が息を吐く。


ひと つ の――――め――

  が――――の こ る――


空白がすべてを呑み込み、

“観測”と“記録”の区別が消える。


最後に残るのは、

ひとつの“め”。

見ていることだけが、

まだ――そこに在る。







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