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『観測の夜 - The Night of Vision』  作者: 南蛇井


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第6章:交錯する視線

静寂の余波


 崩れた泉のほとりに、まだ白い霧が残っていた。

 霧の中では時間が溶け、昼も夜も曖昧なままだ。

 水面には、ひび割れた空が映りこみ、ゆらゆらと反転を繰り返している。


 優大はその縁に倒れていた。

 腕の輪郭が透け、指の先が光と影の間で揺れている。

 息をするたび、自分の存在が少しずつ“薄くなっていく”のが分かった。


 すぐ傍で、玲子がしゃがみ込んでいる。

 髪には土と灰が混じり、黒い観測装置のレンズが半分割れていた。

 それでも彼女は装置を手放さず、震える指で再起動を試みていた。


「……君を、記録しなければ……君は、消える。」

 掠れた声だった。必死さと、どこか祈りにも似た響きを帯びている。


 その向かいで、沙也加が膝をついていた。

 両手を組み、瞼を閉じ、途切れた祈りの言葉を口の中で転がす。

「記録するから、彼は苦しむの。玲子さん、もうやめて……」


 玲子が顔を上げる。

「記録しなければ、存在そのものが……!」

「存在って、何? 苦しみながら残ることが、あなたの“証”なの?」


 その瞬間、世界がぐにゃりと揺れた。

 二人の声が重なった瞬間、空間そのものが震え、

 崩れた泉の周囲の景色が“二重露光”のように滲みはじめる。


 一本の樹が二重に見える。

 光と影の境界が剥がれ、風の音が遅れて届く。

 観測と忘却が、ひとつの場所で混じり合っている――そんな錯覚。


 優大は、霞む視界の中で二人の姿を見た。

 玲子は“見ること”に縋り、沙也加は“忘れること”に祈っている。

 そして自分は、その狭間に溺れていた。


(モノローグ)


俺を見てほしくない。

でも、見ていてほしい。

どっちを選んでも、俺は壊れていく。


 空が一瞬、閃光のように明るくなった。

 その光の中で、三人の影がゆっくりと重なり合い、

 やがて、すべての音が――止まった。


九条教授の介入


 沈黙の中、突如として空間に“割り込み音”が走った。

 ――キィィィィ……という電子の悲鳴。

 崩れた泉の上に、淡い光が立ち上る。ノイズ混じりの映像が空中に浮かんだ。


 それは、九条教授のホログラムだった。

 かつて学園で講義をしていたときと同じ白衣を着ている。だが、その背後には異様な構造物――無数のレンズとケーブルで構成された観測装置の塔が映っていた。

 光がうねり、まるで“世界の神経”そのもののように脈動している。


「……二人とも、やめろ。」

 ノイズ越しに、低く響く声。

 玲子と沙也加が、同時に顔を上げた。


「観測と忘却は、同じ根から生まれた。」


 玲子が立ち上がり、涙で濡れた頬を隠すようにして叫ぶ。

「教授、彼は観測点です! 消せば、世界が崩れる!」


 その言葉に、沙也加が顔をしかめる。

「じゃあ世界ごと壊れればいい。

 彼を“見ない世界”でしか、彼は安らげないのよ!」


 九条の映像が一瞬、歪んだ。

 塔の光が強くなり、彼の目の奥が透けるように見えた。


「君たちは……鏡の両面に立っているだけだ。」

 九条はゆっくりと、言葉を選ぶように続けた。


「観測とは祈り。忘却とは赦し。

 だが――祈りなき赦しは虚無であり、

 赦しなき祈りは支配だ。」


 言葉が落ちるたび、空間のノイズが少しずつ静まっていく。

 玲子は観測装置を握りしめたまま、何も言えずに立ち尽くす。

 沙也加もまた、祈りの姿勢のまま動けなかった。


 九条のホログラムが、風の中で揺れる。

「優大が見ているのは――“見られること”でも、“忘れられること”でもない。

 そのあいだにある、赦しの瞬間だ。」


 音声が途切れ、映像がノイズに飲み込まれて消える。

 霧が再び濃くなり、残されたのは三人の呼吸だけ。


 玲子の手の中のレンズが、弱々しく光を放った。

 それはまるで――まだ誰かが、見ているようだった。



二重観測の発動


 泉のほとりに、風が止んだ。

 音も、時間も、すべてが一瞬、息を潜めた。


 次の瞬間――優大の身体が光と影に裂けた。

 片方は玲子の観測装置に映し出され、もう片方は沙也加の祈りの中に沈んでいく。


 玲子が装置を止めようとしたが、指先より早く、装置の中心でレンズが自動回転を始めた。

 観測プログラムが暴走する。

 データの羅列が空間を走り、空気がコード化される。


 一方で、沙也加の口からこぼれる祈りの言葉が光の粒となり、優大の影の側に吸い込まれていく。

 それは“忘却の力”――観測情報の欠落をもたらす祈り。


 二つの定義が、同時に発動した。

 観測と忘却。存在と赦し。

 相反する概念が、同一の“座標”で干渉を起こす。


 世界が、たわんだ。

 泉の水面が宙に浮かび、空間の境界がめくれ上がる。

 そして――優大の視界が反転した。


 空が、裂ける。


 そこから現れたのは、無数の“瞳”だった。

 星のように、光の粒がまばらに瞬き、

 やがてそれらが形を持ち、空いっぱいに“眼”の群れが広がっていく。


 ――空が、世界を見ている。


 それは神話で語られた終末、「観測の夜」の再演だった。

 観測される側だった世界が、ついに観測者へと反転する。

 大地が震え、霧が崩れ、時間の軸がねじれる。


 ホログラムの中で、九条教授が低く呟いた。

「……やはり、始まったか。観測の夜が。」


 優大の両目が、別の光で燃え始める。

 片方は玲子の“観測”の光。

 もう片方は沙也加の“忘却”の闇。


 二つの声が、彼の内側でぶつかる。


玲子:「見て、生きて。」

沙也加:「忘れて、自由に。」


 その声が混ざるたび、世界の形がぶれ、

 “存在”という概念そのものが、音を立てて崩れ始めた。


 ――優大の選択ひとつで、

 世界は「記録」か「赦し」か、そのどちらかに決まるのだ。



】裏界の顕現


 ――世界が、裏返った。


 優大が息を吸うと同時に、地面が上へ、空が下へと反転する。

 山が裏返り、海が天井から滴り落ちる。

 現実の地形が観測の裏面として姿を変え、

 空と地の境界が、音を立てて崩壊していった。


 玲子は叫ぶ。

「観測が……世界を飲み込んでいく……!」


 その声が、空に吸い込まれる。

 空はすでに、空ではなかった。

 そこに広がるのは、無数の“瞳”――世界全体が、巨大な視線の集合体になっていた。


 人々の影が地面から離れ、独立して歩き出す。

 影たちは建物や樹木、道そのものに触れるたび、

 それらを記録の断片として分解していく。

 家屋はページのようにめくれ、文字の雨となって崩れた。


 沙也加が祈りの姿勢をとりながら、震える声で言う。

「違う、これは――赦されない記録の帰還。」


 玲子が振り返る。

「赦されない……?」


 沙也加の瞳には、涙とも光ともつかぬ粒が浮かんでいた。

「忘れられず、観測だけが積み重なった記録たちが……

 世界の裏側で、帰ってきてるのよ。」


 九条教授のホログラムが、ノイズを纏いながら再び映る。

 背景には、瓦解した研究塔――“観測装置の塔”が倒壊していた。


 > 九条:「これは神の“理解”の再現だ。

 >  神が自らを見たとき、創造は終わる。」


 玲子:「……終わる?」


 > 九条:「そうだ。

 >  優大――お前はその再演点だ。

 >  神が“自分を見た瞬間”の記録を、再び生み出す存在。」


 優大の身体の半分が透け、もう半分が眩い光を放つ。

 彼の足元から“裏界”の文字列が溢れ出し、

 現実の地形と重なって、世界が二層化していく。


 山は裏面の影を伸ばし、

 空の瞳がすべて優大を中心に焦点を結ぶ。


 玲子は呟く。

「世界そのものが、彼を――観測している……。」


 その瞬間、音が消えた。

 空と地が一体化し、

 世界はひとつの“眼”となって、

 静かに優大を見つめていた。


優大の選択


 崩壊の光が、夜の残滓を飲み込んでいく。

 地と空の境界は失われ、世界は眩い白と深い闇のあいだで震えていた。

 その中心に――優大が立っていた。


 彼の身体は、もはや一つではない。

 右半分は光に透け、左半分は影に沈む。

 その裂け目から、静かな声がこぼれた。


「……俺は、見ることも、忘れることもやめない。」


 沙也加が顔を上げる。

 玲子も息を呑む。


 優大は、誰にも向けずに続けた。

「“知る”ことだけが、俺の祈りだ。」


 その瞬間――

 空を覆っていた無数の“瞳”が、ゆっくりと閉じはじめた。

 一つ、また一つと、世界の視線が静かに消えていく。

 光が凪ぎ、風が戻る。


 玲子はその場に膝をつき、

 破損した観測装置を抱きしめたまま、言葉を失った。


「……観測が、止まった……?」


 沙也加の頬を、一粒の涙が伝う。

 それは悲しみでも歓喜でもなく、ただ――終わりを受け入れる祈りの滴だった。


 世界の裂け目が閉じ、

 裏界の影が霧のように溶けていく。

 優大の輪郭は淡く光りながら、ゆっくりと霞んでいった。


 通信越しに、ノイズ混じりの九条教授の声が響く。


「……観測と忘却――どちらも、世界を支える“まばたき”なのだよ。」


 音が、止む。

 そして静寂だけが、残った。


 ――夜が終わる。

 それは、世界が一度だけ、まぶたを閉じた瞬間だった。


第6断章《教会報告書:天鏡事故記録(黒塗り)》


 ――黒い紙面に、白い文字だけが浮かび上がっていた。

 それは報告書というよりも、祈りの残骸のようだった。


[記録開始 00:00]

光子観測値、閾値超過。

被験体‐01(観測子)、自律観測状態に遷移。

 ――観測対象:自己。

  ―――結果:系崩壊。

[記録終了]


 記録の下部は、黒い塗りつぶしで覆われている。

 ただし、紙の縁にだけ、かすかなインクの漏れが残っていた。


 そこには――

 読めるか読めないかの文字で、こう刻まれていた。


「空が、己を映した。」


 報告書の余白には、赤い印章が押されている。

 《観測の夜》。


 それは、世界が自らを“見てしまった”夜。

 創造と理解の境が崩れ、神話が再び現実に流れ込んだ瞬間。


 ページの最後に、手書きの一文がある。

 インクが滲み、判読もままならない筆致で――


「再発防止策:観測を制限せよ。

 ……次に“鏡”が目を開く前に。」


 報告書は静かに閉じられる。

 その裏表紙に映り込んだ読者自身の影が、

 一瞬だけ、自分を見返した。


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