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『観測の夜 - The Night of Vision』  作者: 南蛇井


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第5章:忘却の慈悲

逃走 ― “観測者”からの離脱


 夜は深く沈み、街の光が靄の中で滲んでいた。

 電柱の影が歪み、風が吹くたびに、それらがまるで“眼”のように瞬く。


 優大はゆっくりと歩いていた。

 耳の奥に、かすかなシャッター音が残っている気がする。

 振り返っても、誰もいない。

 それでも、“見られている”――そんな錯覚が離れない。


 彼の息が白く伸び、闇に消えた瞬間、声がした。


「……優大。」


 霧の向こうから現れた影。

 黒い外套をまとった少女。沙也加だった。

 制服のリボンも、学校の徽章も、もうどこにもない。

 その代わりに、外套の袖口には細い銀糸の紋が光っていた。


 彼女の瞳は静かだった。だが、何かを決意している色だった。


「来て。」

「……どこへ行くんだよ。」

「“記録”の中には、もういられないの。」


 その声には、微かな震えがあった。

 優大は何も問えず、ただ頷いた。


 二人は霧の中を進む。

 街外れに近づくにつれ、街灯が途切れ、代わりに古びた標識が現れた。

 『立入禁止』『旧山間線トンネル崩落注意』――赤い文字が錆に沈んでいる。


 トンネルの入口は封鎖され、鉄柵には警告の札。

 だが沙也加はためらいなく手を伸ばした。

 金属の錠前が、まるで鍵などなかったかのように“消える”。


 優大は息を呑む。


「ここは……?」

「“観測”の届かない場所。

 記録も、時間も、誰の目もない。」


 壁面には、奇妙な祈祷文が刻まれていた。

 半ば削れた古代語のような文字が、霧の光に浮かび上がる。

 ――〈見ざる者こそ、記録を超える〉。


 トンネルの奥へ進む。

 足音が水に吸われるように消えていく。

 やがて出口の先に、淡い光が見えた。


 霧が開ける。

 そこには、静かな“里”があった。

 灯りの代わりに、水面に反射する月の光。

 風鈴のように鳴る祈祷旗。

 どこまでも穏やかで――どこにも“視線”のない世界。


 沙也加が囁いた。


「ようこそ。“忘れられる場所”へ。」


 その言葉を聞いた瞬間、優大は初めて、

 胸の奥に“安堵”という名の痛みを感じた。


 ――誰にも見られないということが、

 こんなにも静かで、こんなにも寂しいものだとは知らなかった。


忘却派の里 ― 祈りの静寂


 霧の向こうに広がる“里”は、まるで時間の外にあった。

 石畳の小径、崩れかけた祭壇、そして中心には――

 水面に無数の文字が浮かぶ泉。


 その文字たちは生きているように揺れ、

 時折、泡のように消えては、また別の文字が現れた。

 近づくたびに、優大の胸の奥で何かが“ほどけていく”感覚。

 名前を、記憶を、少しずつ水に溶かしていくような。


 石壁には“目を閉じた神”のレリーフ。

 その瞼の下に刻まれた言葉は、読むたびに忘れてしまう。

 だが、そこに確かに“意味”があったことだけは分かる。


 静寂の中――

 白い衣の裾が水を揺らした。


 現れたのは、一人の女性。

 白衣の上に僧衣を重ね、銀色の髪を肩に垂らしている。

 その姿は年齢を超えた存在感を持ち、

 目を合わせた瞬間、優大の思考が一瞬、空白になった。


「ようこそ、観測の子。」


 その声は、穏やかでありながら、記憶の奥を削る響きだった。

 沙也加が小さく頭を下げる。


「この方が――“忘却派”の長、エリザ・アイン様。」


 エリザは微笑む。

 その仕草ひとつで、空気が柔らかく沈んでいく。


「あなたが、“観測の夜”の再演者ね。」


 優大は息を呑む。

「……再演? どういうことですか。」


 エリザは泉の上に指を滑らせた。

 文字が光を帯び、古い記録のように形を変える。

 そこに映し出されたのは――

 無数の“眼”が空に浮かび、世界を照らす幻影。


「かつて、神は自らを見た。

 それは創造の頂点であり、同時に崩壊の始まりだった。」


 その声に合わせて、水面が揺れ、映像が崩れる。


「あなたは――その“見続ける行為”を止める鍵。

 観測を終わらせるために、生まれた存在。」


 優大は、自分の胸の奥に微かな痛みを覚える。

 それは、誰かの視線に焼かれた跡のようだった。


「……止めるって、どうやって。」


「忘れることよ。」


 エリザは微笑み、指先で優大の額に触れた。

 その瞬間、心の奥に沈んでいたいくつかの記憶――

 玲子の声、九条の名、学校の廊下――が、

 ゆっくりと霧に溶けていく。


「忘却とは、神への赦し。

 “観測”とは、罪の継続。

 見ることをやめたとき、世界は初めて眠れるの。」


 沙也加がその言葉を継ぐように囁く。

「だから、私たちは“忘れる者”なんです。」


 優大は泉を見つめた。

 そこにはもう、自分の姿さえ映っていなかった。


 静けさが満ちる。

 風も、時間も、誰の眼差しもない場所。


 モノローグ:


「見られないことが、

 こんなにも静かだなんて――知らなかった。」


 その安らぎは、

 まるで“存在の終わり”を優しく包み込むようだった。


忘却の儀式 ― 名を消す祈り


 夜の里は、風さえも眠っていた。

 泉の上に浮かぶ灯りが、静かな円を描いて揺れている。

 その中央に、優大は立っていた。


 水面には、無数の光の文字。

 どれも誰かの名前――既にこの世にはいない人々の。

 “忘れられた者たち”の残響。


 沙也加が静かに両手を合わせる。

 その背後で、エリザが白い布を広げた。

 そこには一行の祈りの文。


 ――《名を記す者は、名を消す者に赦される》


 その言葉を、エリザは低く唱えた。

 彼女の声が夜気を震わせ、水面が淡い光を帯びる。


 沙也加が指先で、水面に優大の名を記す。

 “外薗 優大”。

 その文字は水の上でかすかに脈打ち、

 まるで彼の心臓の鼓動と連動しているようだった。


「これで、君は“観測の外側”に行ける。」

 沙也加の声は、どこか寂しげだった。


 優大は、泉の揺らぎを見つめながら呟く。

「……俺を、消すのか?」


 エリザは首を横に振る。

 その瞳は、夜の底のように深く静かだった。


「消すのではなく、“赦す”の。

 存在を観測から解き放つ――それが慈悲。」


 その言葉と同時に、エリザが掌をかざす。

 水面が光り、文字がゆっくりと滲み始めた。

 優大の名前が、泡となって消えていく。


 それは痛みではなく、

 心の奥が空白に満たされていくような感覚だった。


 沙也加が囁く。

「忘れるって、怖くないんだよ。

 それは、優しいことなんだ。」


 優大はふと、水面を覗き込む。

 そこに映っていた自分の顔が、揺らぎ、

 次第に透明になっていく。

 指先も、髪も、声さえも――光の粒となって散っていく。


 けれど、その消えゆく瞬間に、

 彼は確かに“安堵”を感じていた。


「忘れられるって……こんなにも、楽なんだな。」


 呟いた声が、水に吸い込まれる。

 波紋が静まり、泉は再び鏡のように凪いだ。


 そこにはもう、優大の名も、影もなかった。


 ただ、エリザの祈りだけが残る。


「忘却とは、終わりではない。

 それは――存在が痛みを超えた証。」


 夜空の星が、音もなく瞬いた。

 まるで、誰かがその祈りを聞いているかのように。


玲子の追撃 ― 教会の観測部隊


 霧の里に、突然“光”が差し込んだ。

 それは朝日ではなかった。

 冷たい、人工の輝き。

 無数の観測ドローンが雲を裂いて降り注ぎ、

 白い装甲を纏った教会の部隊が霧を押し分けて進軍してくる。


 聖印のついた照射灯が、

 “忘却派の里”をまるで手術台の上の標本のように照らし出す。

 光が当たるたびに、祈りの文字が蒸発していく。

 忘却の静寂が、観測の光によって焼かれていく。


 その先頭に立つのは、玲子だった。

 彼女の瞳を覆うのは、黒い観測レンズ。

 光を吸い込み、反射せず、ただ“測る”ための器官のように冷たい。


「観測対象Yを確認。

 忘却派による隠匿行為を確認。――強制観測を開始。」


 玲子の声が響いた瞬間、

 空間がわずかに軋むような音を立てた。

 まるで世界そのものが、焦点を合わせようとしているかのように。


 沙也加が優大の前に立ちはだかる。

 外套の裾が風に翻り、その影が地面に裂け目のような線を描く。


「やめて、玲子! 彼はもう“観測の外”にいる!」


「外には出られない。」

 玲子の声には一片の迷いもなかった。

 彼女はゆっくりと観測レンズを押し上げ、冷たく言い放つ。


「世界は、彼を見なければ形を保てない。」


 その言葉と同時に、ドローン群が一斉に照射を始めた。

 光が爆ぜる。

 それは銃火ではなく、記録の閃光――“観測”という名の攻撃。


 忘却派の僧たちが一斉に祈りの詩を唱える。

 黒い霧が立ち上り、光を吸い込むように広がる。

 鏡のような光と、闇に溶ける影がぶつかり合う。


 音もなく、しかし確かに――世界が裂けた。


 優大の視界が、二重にぶれる。

 玲子の姿と、エリザの姿。

 観測と忘却、記録と赦し。

 どちらが“正しい世界”なのか、もう判別できない。


 玲子の声が響く。

「優大、戻って。君が見なければ、世界は消える!」


 エリザの声が重なる。

「見続けることこそが呪い。忘れよ、優大――それが救い。」


 優大は頭を抱える。

 光と影が交錯し、世界がノイズ混じりの映像のように乱れていく。


「どっちが正しい……?

 見られることと、忘れられること。

 俺は――どっちを選べばいい……?」


 その問いに答えるように、

 空が裂け、眩い閃光が全てを白く塗りつぶした。


 観測の光か、忘却の闇か。

 その境界は、もはや誰にも見分けられなかった。


終場 ― 慈悲の中の崩壊


 光の渦が、空と大地の境を呑み込んでいく。

 昼でも夜でもない――世界そのものが“観測不能”になる瞬間。

 時間が流れているのかさえ、もう分からない。


 優大の足元から、現実が剥がれ落ちていく。

 砂のように、あるいは文字が風に散るように。

 形を失った街の断片が宙を漂い、霧の中へ消えていった。


 その中で、沙也加の声だけが残る。


「優大、忘れて……!

 忘れれば、この世界は癒える――!」


 彼女の瞳は涙に濡れていた。

 だがその涙さえも、光に溶けて消えかけている。


 対する玲子の声が、鋭く空を裂く。


「見るんだ、優大!

 お前が見ている限り、世界は続く!」


 両者の言葉が交錯する。

 祈りと命令。赦しと執着。

 そのどちらもが、同じほどの切実さを孕んでいた。


 優大は両手を伸ばす。

 けれど、その手は光に掴まることも、影に触れることもできない。

 指先が、世界の“境界”に触れた瞬間――空が反転した。


 上下が入れ替わり、海が天に浮かぶ。

 すべての音が途絶える。

 鳥も、風も、心臓の鼓動さえも。


 静止。


 玲子の声も、沙也加の声も、もう届かない。

 ただ一つ、内側から響く声がある。


「忘れられることと、生きること。

 その境目に、俺はいる。」


 光の渦がゆっくりと収縮し、

 最後に残ったのは、優大の輪郭だけだった。

 やがてそれも、霧のように溶けていく。


 ――そして、すべての光が沈んだ。


 その瞬間、観測記録は途絶える。

 忘却派の祈りも、教会の記録も、何も残らなかった。


 けれど、誰かの心の奥で、微かに声が囁いた。


「見ることも、忘れることも、きっと同じ祈りなんだ。」


 世界は再び、静かに息をした。


忘却の慈悲


 夜の帳が降りるころ、世界は静かに息を潜めていた。

 観測実験のあと、優大はまともに眠れなかった。

 瞼を閉じても、無数の“視線”が闇の奥から覗いている――そんな感覚が消えない。

 街の灯りが星のように瞬くたび、それがすべて“眼”に見えてしまう。


 そのとき、霧の中から声がした。


「……まだ、ここにいたんだね。」


 振り向くと、沙也加が立っていた。

 制服ではなく、黒い外套に身を包み、まるで別人のようだった。

 その瞳に宿るのは、優しさではなく決意――赦しを超えた“覚悟”の色。


「来て。もう“記録”の中にはいられない。」

「どこへ……?」

「“忘れられる場所”へ。」


 彼女はためらうことなく歩き出す。

 優大は導かれるようにその背中を追い、

 街外れの封鎖された旧トンネルへとたどり着いた。

 壁には古い祈祷文。

 “見ることをやめよ。さすれば、世界は息をする”――そう刻まれていた。


 トンネルを抜けると、霧の中に広がる静寂の集落。

 崩れた石柱と、水面に文字が浮かぶ泉。

 そこが“忘却派の隠れ里”だった。


 そして、彼らの長――エリザ・アインが現れた。

 白い僧衣に身を包み、年齢を超えたような声で言う。


「あなたが、“観測の夜”の再演者ね。」

「再演……?」と優大が問うと、

 エリザは微笑みながら、水面に指を滑らせた。


「かつて神は、自分を見て世界を壊した。

 あなたは、その“見続ける行為”を止める鍵。

 忘却とは、神への赦し。

 観測をやめることこそ、世界を癒す祈り。」


 その言葉に、優大の胸が静かに波打つ。

 誰にも見られず、誰も見ない――その孤独の中に、

 なぜか“安らぎ”のようなものがあった。


 玲子の観測に縛られた日々から解き放たれ、

 自分の輪郭が世界に滲んでいく感覚が、

 不安ではなく、むしろ“救い”のように思えた。


 モノローグ:


「見られないことが、こんなにも静かだなんて……。」


 だがその静寂は、長くは続かなかった。


 霧の外――光が差し込む。

 白い装甲の観測部隊が、山を包囲していた。

 無数の観測ドローンが空を覆い、

 その中心に立つのは、黒いレンズを装着した玲子。


「観測対象Y、確認。

 忘却派による隠匿行為を検出。強制観測を開始。」


「やめて!」沙也加が叫ぶ。

「彼はもう観測の外にいる!」

玲子の声が鋭く響く。

「外には出られない。

 世界は、彼を見なければ形を保てない!」


 光と影がぶつかり合う。

 観測と忘却――二つの祈りが交錯し、空間が裂けた。


 優大の視界が二重化する。

 玲子とエリザ、光と闇、観測と忘却。

 どちらが正しいのか、もうわからない。


 沙也加が震える声で祈るように言う。

「優大、忘れて……! そうすれば、この世界は――」

 玲子が叫ぶ。

「見るんだ、優大! お前が見る限り、世界は続く!」


 優大は、どちらの声にも手を伸ばせない。

 空が反転し、世界が静止する。


 モノローグ:


「忘れられることと、生きること。

 その境目に、俺はいる。」


 光が沈み、闇が満ちる。

 観測の記録も、忘却の祈りも、同時に消えていった。


 ――それは、“慈悲”と呼ばれる崩壊の始まりだった。

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