第3章:忘却派の影 ――「記録を消すことは、祈りを断つこと。」
教室から消える席
春の終わり。
窓の外では風が柔らかく、桜の残骸がまだ空中をさまよっていた。
いつもの教室、いつもの朝――のはずだった。
優大は席に座っていた。
机に肘をつき、ぼんやりと黒板を見ている。
クラスのざわめきが、透明な膜を隔てたように遠い。
担任の三島教諭が点呼を始める。
「……外薗、優大。」
一瞬の間。
だが、返事をしたのは優大だけだった。
教室の誰も、顔を上げない。
まるでその名前が、耳に届かなかったかのように。
三島は名簿に目を落とし、
眉をわずかに寄せた。
「……ああ、欠席か。」
そう言って、さらりと次の名前を呼ぶ。
優大は思わず笑いそうになる。
冗談だろう、と思った。
だが、机の上の出席簿を覗き込んだ瞬間、
血の気が引いた。
――そこに、自分の名前はなかった。
印刷のずれでも、消し跡でもない。
最初から存在しなかったように、
“外薗優大”の行だけが、抜け落ちている。
昼休み。
クラスメイトの笑い声がこだまする。
机を囲んで弁当を開く彼らの輪の中に、
優大は座っている。
けれど、話の流れに“自分”が出てこない。
思い出話の中に、
空席が一つある。
「去年の体育祭さ、リレーで誰が走ったっけ?」
「えっと……一人足りないよな。まあいいか。」
誰も疑問を深追いしない。
“違和感を流す”ことが、当たり前になっている。
モノローグ:
「俺はここにいる。
でも、“記録”の上では、もういない。」
放課後。
教室には西日の光が斜めに差していた。
黒板の影が机の列を切り裂き、
その中で、ひとつの視線だけがこちらを見ていた。
高峰玲子。
彼女は、いつもの黒いカメラを胸に提げ、
ファインダー越しに優大を見つめていた。
「……観測のノイズが、出てる。」
その声は、教室の空気に溶けるほど小さい。
優大:「ノイズ?」
玲子:「削除の痕跡。
記録が、誰かの手で“剥がされてる”。」
優大は思わず笑いを作る。
「削除って……俺が、消えてるってことか?」
玲子は首を横に振る。
その仕草は、まるで祈りのように静かだった。
「違う。
あなたの“記録”が、世界から剥がれてるの。
――まだ、あなた自身は残ってる。」
言葉の意味が分からないまま、
優大は机の木目を見つめた。
その表面に刻まれた小さな彫り傷。
昨日まで“自分が刻んだ”はずのそれが、
今は、どこにも見当たらなかった。
沙也加の再会
放課後の校舎裏。
光が沈みかけ、鉄柵の影がアスファルトを切り裂いていた。
その影の端に、ひとりの少女が立っている。
沙也加――。
記憶の中の彼女は、いつも笑っていた。
春の空のように明るい声で、優大をからかっていた。
けれど今、その面影は薄く、
まるで“別の記録”に上書きされたようだった。
「……沙也加?」
彼女はゆっくりと振り向く。
その瞳は、どこか焦点が合っていない。
「覚えててくれたんだ。」
声は低く、乾いていた。
優大:「……当たり前だろ。」
沙也加:「――そう。なら、まだ間に合う。」
風が吹き抜け、制服の袖口がわずかにめくれる。
そこから、冷たい金属の光がのぞいた。
沙也加は細い指でそれを取り出す。
銀色のカード。
表面には、斜線の入った“目”の印。
「Nullist。」
彼女はそれを掲げ、淡々と告げた。
「私たちは“忘却派”。
世界を保つために、記録を削る者たち。」
優大は息を呑む。
その言葉が、現実と夢の境を踏み越えてくる。
沙也加は続ける。
「玲子の“観測”が進めば、
世界はまた“観測の夜”に沈む。
光がすべての影を焼き尽くす前に、
記録を消さなきゃならない。」
優大:「……それで、消すって? 俺の“記録”を?」
沙也加は頷く。
その横顔には、かすかな震えがあった。
「記録は、神の眼の延長線。
見続けることは、存在を固定すること。
でも――固定されたものは、やがて壊れる。
だから、私たちは見ることをやめるの。」
沈黙が落ちる。
遠くでチャイムが鳴る。
それがまるで、二人を別の世界に閉じ込める合図のようだった。
優大は言葉を探す。
けれど、何を言っても届かない気がした。
沙也加の眼差しは優しく、
しかしその奥には、
“決意”と呼ぶには冷たすぎる光が宿っていた。
「優大。
あなたを、壊れないように“忘れてあげる”。」
その言葉のあと、
沙也加の姿は風の中に溶けていった。
残されたのは、彼女が落とした銀のカード。
地面に転がり、斜線の“目”が逆光に光る。
モノローグ:
「忘れられることが、救いなのか。
それとも――終わりなのか。」
記録削除の儀式
夜。
世界が夢と現実の境を失いはじめる時刻。
優大は誰かの声に導かれるように歩いていた。
校舎の裏手――廃棄された旧校舎。
閉ざされた扉の奥から、かすかに灯が漏れている。
その灯は、記憶の底で見た“空の目”と同じ色をしていた。
階段を下りる。
足音が、重く湿った空気に吸い込まれていく。
地下には、小さな祈祷室のような空間があった。
石壁には、反転した“眼”の紋が描かれている。
それが淡く光り、呼吸するように脈打っていた。
その中心に――沙也加がいた。
白い息を吐きながら、
掌の上で古い金属カードを光らせている。
「来てくれたんだね。」
優大:「……ここは、何だ。」
沙也加は少し寂しそうに笑う。
「“記録削除の儀式”。
あなたを“忘れる”ための場所。」
優大:「忘れる? 俺を……?」
「そうすれば、あなたはもう“観測”されない。
誰の視線にも焼かれずに、生きていける。」
彼女はゆっくりと近づき、
指先で優大の頬に触れた。
その指の温度は、かすかに震えていた。
「怖くないよ。
ただ、少しずつ“名前”を消していくだけ。」
彼女は囁くように言葉を紡ぐ。
「外薗……優大。」
一文字ずつ、唇から漏れる音が、
吐息のように空気へ溶けていく。
「外」――壁の光が一瞬、弱まる。
「薗」――優大の影が、床に落ちなくなる。
「優」――心臓の鼓動が遠のく。
「大」――世界が、静かになる。
「沙也加……やめろ……!」
優大の声は、届かない。
空気がゆがみ、言葉が“音”として存在できない。
沙也加は泣いていた。
けれど、その涙さえ祈りの一部のように静かだった。
「忘れてあげる。
あなたが壊れないように。」
その瞬間――
優大の手が透けていった。
骨も皮膚もなく、ただ“光の残像”だけが残る。
祈祷室の壁に刻まれた“反転の眼”が、
ゆっくりと閉じる。
モノローグ:
「消えることが、救いだというなら、
俺の存在は、誰の祈りでできていたのだろう。」
静寂のあと、
闇の奥で鐘が鳴る――。
その響きが、次の断章《観測者の遺言》へとつながる。
観測と忘却の衝突
祈祷室を満たす沈黙の中――
ひとつの光の閃きが落ちた。
シャッター音。
乾いた、だが神聖にも似た音。
「……観測、開始。」
闇の奥から現れた玲子は、
黒いカメラを胸の前に構えていた。
瞳の奥に、かすかな金色の光が宿っている。
シャッターが切られるたび、
光がねじれ、空間がわずかに震えた。
優大の身体が、その振動に合わせて“二つの層”に割れていく。
片方は確かな輪郭を持ち、もう片方は淡い影となって壁の向こうに滲む。
「玲子……?」
彼の声が二重に響く。
片方は空気を震わせ、もう片方は“記録”として紙の上に刻まれる。
玲子の声が重なる。
「やめろ、沙也加! 彼を削除したら、世界の記録が破綻する!」
沙也加は一歩も退かない。
彼女の指先には、未だ儀式の光が灯っている。
「記録がある限り、彼は観測に縛られる。
あなたたち《観測者》が見続ける限り、
この世界はまた“夜”を迎えるの!」
玲子:「それでも――消すことは、殺すことよ!」
二人の声がぶつかる瞬間、
空間の光が静止した。
光と影、観測と忘却。
二つの祈りが干渉し合い、
現実の織目が――“音”を立てて裂ける。
優大の周囲に、無数の眼が浮かんだ。
それは空の裂け目から覗く“観測の残響”。
玲子のカメラが震え、レンズが軋む。
沙也加の金属カードが砕け、銀色の粉が宙に散る。
そして――
音が消えた。
世界が一拍、息を止める。
優大の視界の中で、
二人の姿が遠のいていく。
声は、もう言葉として聴き取れない。
ただ、一つの音だけが響いた。
──鐘の音。
それは、どこか懐かしく、
まるで“始まり”を告げる音のようだった。
(モノローグ)
「観測されることと、忘れられること。
どちらが、生きるということなんだろう。」
光が崩れ、闇が反転する。
やがてすべての色が消え、ただ“白”だけが残る――。
終場:忘却の祈り
視界が暗転した。
優大の意識は、深い闇の底へ沈んでいく。
その闇の中で、唯一残る声があった。
沙也加――冷たく、しかしどこか切ない声。
「忘れることは、赦すこと。
でも、赦されないこともある。」
優大は言葉の意味を飲み込めず、ただその声を耳に留める。
全身の感覚が淡く溶け、手足の感触も、存在の輪郭も、少しずつ薄れていく。
最後に視界に映ったのは、
沙也加の瞳に溢れた光――
涙が空気に溶け、光の粒となって降る瞬間だった。
目を閉じると、鐘の音が耳をくすぐる。
それは、夢か現実か、もう判別できない響きだった。
――そして、朝。
玲子の観測記録のノートには、淡々とこう書かれていた。
『観測対象Y:存在認識率 14%。
記録消失。
夢層に沈降。』
ページの余白には、黒く焼け焦げた痕跡が残る。
まるで、記録の残滓だけが世界に刻まれたかのようだった。
優大の存在は、観測と忘却の間に消えた。
ただ、断片として、夢の層に生き続ける――
観測者と忘却者の祈りに挟まれて。
第3断章《九条祐一・音声記録》
音声記録は、かすれた磁気テープの向こうで震えていた。
九条祐一の声は低く、慎重に、しかしどこか諦観に満ちている。
――神話とは、観測が崩壊した瞬間の記録である。
天の鏡が破裂したわけではない。
ただ、神が己を――理解してしまったのだ。
理解とは、観測の最終形態である。
誰かが見つめ、誰かが覚え、そして誰かが記録する。
その連鎖の果てに、世界は自らを映し出す。
九条の声が一瞬途切れる。
微かなノイズの間に、言葉が落ちていく――
「理解した瞬間、創造はもはや自由ではなくなる。
観測されたものは、もはや滅びることを知らない。」
テープの再生が止まる。
静寂だけが残る。
しかし、そこにあるのは虚無ではない。
記録された声が、世界の裏側で光を帯びて生き続ける。




