第1章:記録にない一年 ──「あの夜、空に何かが“見ていた”。」
① 朝、名簿の欠落
春の光は、少し眩しすぎた。
冬の名残を探すようにして、外薗優大は校門をくぐった。
アスファルトには、まだ昨夜の雨がうっすらと残っている。
濡れた靴底が鳴るたびに、時間が“新しい学期”に書き換えられていく気がした。
教室の扉を開けると、すでに半分ほどの席が埋まっていた。
カーテンの隙間から差す光が黒板を斜めに照らし、チョークの粉が金色の埃のように浮かんでいる。
いつもの顔ぶれ。いつもの机。
ただ、どこか“並び順”が違って見えた。
「おはよう、外薗」
後ろの席の佐原が手を上げる。
「おう。久しぶり」
「なあ、三島先生、今日テンション低くね?」
「いつもだろ」
そんな他愛ない会話で、少しだけ安心する。
春は、何かを新しくする代わりに、何かを消していく季節だ。
チャイムが鳴り、担任の三島教諭が入ってきた。
灰色のスーツ。淡い表情。
教科書の背表紙のように、感情の輪郭が薄い人だった。
「――じゃあ、出席取るぞ」
教壇に立った三島は、分厚い名簿を机に置いた。
ページをめくる音が、教室の空気を一枚ずつ剥がしていく。
名前を読み上げる声は、どこか録音のように均一だった。
「……外薗、優大。去年は転入扱い、で良かったな?」
呼ばれた自分の名前に、一瞬だけ違和感を覚える。
優大は笑って言った。
「え? 俺、去年もここにいましたよね?」
三島は目を細め、ほんの一拍遅れて答える。
「……そうだったか? ああ、そうかもしれんな。」
その一瞬、教室が妙に静まった。
空調の音すら止まったような気がした。
隣の席の女子が、ペンを握ったまま動かない。
誰も、何も言わない。
やがて、誰かが乾いた笑い声を立てた。
それを合図に、空気がゆっくり動き出す。
「まあ、システムのバグかな」
優大が軽く言ってみせると、三島は決まり文句のように頷いた。
「そういうこともある」
その口調が、妙に機械的だった。
まるで、あらかじめ用意されたセリフを再生しているような。
出席が終わると、授業の予定や連絡事項が淡々と読み上げられた。
黒板に書かれる日付は、四月十日。
だが、その数字の下に、誰かが鉛筆でうっすらと別の数字を書いていた。
「二〇二三」――消し残したような年号。
今は二〇二五年のはずなのに。
優大は一瞬だけその数字を見つめ、それから視線をそらした。
誰も気づいていない。
あるいは、気づいていないふりをしている。
昼休み、校内の情報端末で自分の生徒データを確認してみた。
成績も出席も、部活動の記録も、すべて「二年生から」始まっている。
一年生の記録が、綺麗に抜け落ちていた。
削除の跡も、上書きの痕跡もない。
まるで、初めから存在しなかった一年のように。
「……おかしいな」
呟いた声が、静かな廊下に吸い込まれていった。
帰り際、職員室で確認してみたが、三島は同じ表情で言った。
「そういうこともあるよ。データベースの誤作動だろう。
去年の分は“記録されてない”だけだ。」
「だけ?」と優大が問い返すと、
教師の顔が、まるで型にはめたように笑った。
「“そういうこともある”。」
その瞬間、優大は確かに思った。
あの笑顔は、どの教師も、どの生徒も、同じ形をしている。
まるで、同じ“観測者”がコピーしたかのように。
(モノローグ)
“そういうこともある”なんて、便利な言葉だ。
でも、その言葉を使う顔が、全員同じに見えた。
春の光の下で、僕だけが、ひとつの影を踏み外していた。
② 日常のズレ
昼休み。
校庭のざわめきが、窓の外から柔らかく流れ込んでくる。
チャイムが鳴り終わっても、教室の空気はどこか浅い眠気を含んでいた。
外薗優大は、弁当箱のふたを開けながら、
友人の佐原と、斜め前の渡辺、それにクラスの女子・里見らと他愛もない話をしていた。
「今年の文化祭、出し物どうする? 去年、けっこう評判良かったよな」
「去年? あれ、何やったっけ?」
「たしか――演劇じゃなかった?」
「いや、バンドだろ? ……いや、あれ? どっちだっけ?」
笑いが起きる。
だがその笑いは、何かを誤魔化すように、
音だけが上滑りしていた。
「まあ、忘れたってことは、そんなに面白くなかったんだよ」
「そうそう、どうせ来年も同じでしょ」
冗談のやり取りの中で、
誰かが“去年の修学旅行”の話題を出した。
が、その瞬間、全員の表情が一瞬だけ止まる。
ほんの刹那。
時間が、呼吸を止めたように感じた。
「……去年、旅行あったっけ?」
「あったよ、たぶん。京都……だっけ?」
「いや、北海道じゃなかった?」
「あれ? そうだっけ……?」
曖昧な声が重なり、そして、
何かに“上書きされるように”笑い声が再び流れる。
誰も、本気で思い出そうとしない。
まるで、思い出すこと自体が禁止されているかのように。
優大は箸を止め、ふと窓の外を見た。
グラウンドでは野球部が練習している。
打球の音が届くたびに、
空の青が一瞬だけ“古い映像の色”に見えた。
(モノローグ)
「みんなの記憶の形が、少しずつ擦り切れている。
それでも、誰も気づかない。
いや、気づかないふりをしているのかもしれない。」
放課後、優大は一人で図書室に向かった。
窓際の席では、数人の生徒が静かにノートを開いている。
奥の棚、新聞の縮刷版が並ぶ一角で、
彼は“去年”の記録を探した。
四月号。
次の月。
――そのあたりで、指先が止まる。
そこだけ、抜け落ちていた。
綴じひもの跡だけが、むき出しのまま残っている。
紙の断面は、不自然に黒ずんでいた。
インクではない。
焼け焦げたような、煤の跡。
優大はそっと触れた。
ざらついた感触が、指先に冷たくまとわりつく。
その瞬間、背後で声がした。
「その年はね、“空白年度”って呼ばれてるんだよ。」
振り向くと、図書委員の女子が立っていた。
無表情な顔に、淡い微笑だけを貼りつけている。
見覚えがない――ようで、どこかで見たことのあるような顔。
彼女は淡々と続けた。
「火事があったとか、データが壊れたとか、いろいろ言われてるけど……
結局、全部“なかったこと”になったみたい。
先生もそう言ってた。
“そういうこともある”って。」
「それ、便利な言葉だね。」
優大が皮肉っぽく返すと、
彼女は一瞬だけ首をかしげた。
「便利、ってなに?」
問い返す声は、まるで録音の再生のように、
わずかに間延びしていた。
そして、彼女は静かに去っていった。
優大はもう一度、欠けた新聞の跡を見た。
焦げ跡は、よく見ると円形を描いている。
中心が最も黒く、外側ほど薄い。
まるで何かがそこに“焦点”を合わせたように。
(モノローグ)
「忘れることが、制度として受け入れられている。
そんな気がした。
きっと、誰かが“見られた”ままなのだ。
だから、見た記録を消さなければならなかった。」
図書室を出ると、窓の外は薄暮だった。
夕焼けの色がゆっくりと滲み、
西の空に、光の筋のような線が走っていた。
それは飛行機雲にも見えたが、
どこか“目の輪郭”にも似ていた。
風が通り抜け、
ページの焦げ跡がふっと黒く光った気がした。
③ 沙也加の違和感
放課後、校舎の影が長く伸びていた。
西日がガラス窓を透かし、廊下に黄金の筋を落とす。
その光の中を、外薗優大はゆっくりと歩いていた。
教室に残る声のざわめきが、遠くでゆらめいている。
昇降口を出ると、制服の裾を風が撫でた。
桜の花びらはもうほとんど散り、舗道には淡い花屑がまばらに残っている。
その花びらを追いかけるようにして、
天野沙也加が歩いていた。
「……外薗くん。」
声をかけられて、優大は振り返る。
夕陽の逆光の中、沙也加の輪郭は光に溶けかけていた。
穏やかな微笑み。
けれど、その笑みはどこか“現実にうまく馴染めていない”ように見えた。
「一緒に帰っても、いい?」
「うん、別に。」
二人は並んで歩き出す。
住宅街へと続く坂道。
風に揺れる電線が、かすかな唸りをあげている。
最初は、他愛もない話だった。
クラスのこと、授業のこと、食堂のパンが変わったこと。
でも、ふとした沈黙の後で、
沙也加が小さく言った。
「みんな、去年のことを“消された”んだよ。」
その声は、笑いとも涙ともつかない微妙な調子だった。
「……消された?」
優大は苦笑しながら言った。
「それって、記録ミスとかそういうのじゃ――」
「違うの。」
沙也加の声が、風の音に溶ける。
彼女はゆっくりと空を見上げた。
夕焼けの空。
橙と群青の境界線が、かすかに波打っている。
「あの夜、空に“何か”がいた。みんな、見たはずなのに。」
「……何が、いたんだ?」
沙也加は答えず、
ただ、両の手を胸の前で重ねた。
その仕草は、祈りにも似ていた。
そして、ぽつりと。
「空が、こっちを見てたの。」
その言葉を聞いた瞬間、
優大の背筋を、冷たいものが走った。
まるで、言葉そのものが“思い出しかけてはいけない映像”を呼び起こすように。
記憶の奥で、何かがざわめく。
音のないノイズ。
夜の色。
その向こうに、巨大な“眼”のような光。
(モノローグ)
「空が、見ていた――。
そう言われた瞬間、胸の奥で何かがずれた。
たぶん、思い出したらいけないものを、
思い出しかけた気がした。」
気づくと、沙也加は立ち止まっていた。
風が彼女の髪を揺らす。
その瞳は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「優大くんだけは、覚えてると思ったのに。」
「え?」
返事を待たず、沙也加は歩き出した。
夕陽に背を向ける彼女の姿が、影の中に溶けていく。
優大はその場に立ち尽くしたまま、
彼女の言葉の意味を考えた。
(モノローグ)
「“覚えてると思った”――
俺は、何を覚えているんだろう。
何を、忘れたんだろう。」
そのとき、風が吹いた。
遠くの空で、雲の形がゆっくりと変わっていく。
まるで、空そのものがまばたきをしたかのように。
④ 放課後、夢の予兆
夜。
部屋の明かりを消すと、壁紙の模様がゆっくりと溶けるように暗闇に沈んでいった。
時計の針の音が、一定のリズムで小さく響いている。
外薗優大は、布団の中で目を閉じた。
今日の出来事が、頭の奥でぼんやりと反芻される。
名簿の欠落。
図書室の焦げた記録。
沙也加の言葉――「空が、こっちを見てたの。」
その声が、眠りの境目でゆっくりと輪郭を変えていく。
闇が、沈む。
光が、裏返る。
夢の中。
世界が、音もなく裂けた。
真上――空の中央に、ひびのような線が走る。
そこから零れ落ちるのは光でも闇でもなく、“視線”だった。
無数の瞳。
形を持たない観測の集合体。
それらは個体ではなく、意志そのものの群れだった。
瞳たちは、同時に瞬きをする。
その瞬きが夜空の星座を形づくり、
やがて一つの“円環”を描く。
(モノローグ)
「夢の中で、誰かに見られている。
それなのに、見ているのは自分のほうだという気もする。
目と視線の境界が、どこにもない。」
空の裂け目の向こうで、
“何か”がゆっくりとこちらを覗き込んでいた。
形はない。
言葉もない。
ただ、観測するという事実だけが存在している。
そして、音にならない声が、頭の中に降りてきた。
「記録を失った者よ。
おまえは、“裏界”に片足を残している。」
その声は、空の奥から響いているのか、
それとも自分の記憶の奥から聞こえるのか分からなかった。
世界が、ゆっくりと反転する。
上下が消え、重力がほどけ、
自分の身体が“視線そのもの”になっていく感覚。
“見る”という行為が、
“存在する”という意味と重なっていく。
そして、世界が静かに閉じた。
優大は跳ね起きた。
胸の奥で心臓が、異常なリズムを刻んでいる。
呼吸が浅い。
部屋の中は、薄い灰色の闇に満たされていた。
時計の針は、午前三時を指している。
秒針の音が、やけに鮮明に響く。
外の空気が、妙に“生きている”気がした。
窓のほうに目をやる。
カーテンの隙間から、月光のような光が差していた。
それは、月ではなかった。
雲の切れ間――
そこに、円形の光が浮かんでいた。
白く、静かで、恐ろしいほど澄んだ光。
中心には、黒い点があった。
まるで“瞳”のように。
その“目”が、確かにこちらを見ていた。
見つめ返すと、胸の奥で、何かがざわりと蠢いた。
呼吸の音すら、世界の外側から聞こえるようだった。
(モノローグ)
「あの目は、夢の中にも、現実にもあった。
どちらが先だったんだろう。
夢が現実を見たのか、
現実が夢を記録したのか――。」
光の輪は、ゆっくりと薄れていった。
残された夜空は、ただ静かに、
何事もなかったように広がっていた。
優大は、再び眠れなかった。
⑤ 終場:観測の囁き
朝の光は、静かに街を洗っていた。
通学路のアスファルトには、まだ夜の冷たさが薄く残っている。
外薗優大は、鞄を肩にかけ、いつもの道を歩いていた。
川沿いの桜並木は、もう花を落とし、
若葉の緑が朝の風に揺れている。
それは、何の変哲もない朝のはずだった。
けれど――ふとした瞬間、
彼の足が止まった。
空を、見上げた。
青。
どこまでも澄みきった、春の空。
だが、その中心に、ごく微かな“歪み”があった。
まるで透明なレンズのように、
空気が、光をゆらりと曲げている。
それは形を持たず、
ただ“ある”という事実だけが存在していた。
(モノローグ)
「何かが、空の奥から、こちらを見ている。
いや――“見ようとしている”のか。」
通学路を行き交う生徒たちは、誰一人気づかない。
談笑の声。
靴音。
そのすべてが、どこか“半拍遅れて”響いている。
鳥の声も、風の音も、
世界のテンポがわずかに狂っているようだった。
優大は立ち止まったまま、
その歪みから目を離せなかった。
そして、通りの向こう。
電柱の影の向こうに、天野沙也加が立っていた。
制服のスカートが風に揺れている。
彼女は静かにこちらを見ていた。
その瞳は、朝の光を吸い込んで、
どこか遠い場所の色をしていた。
彼女は口を動かした。
声は、届かない。
しかし、唇の動きがはっきりと分かった。
「――見ては、だめ。」
その瞬間、空気が“止まった”。
風が凍り、音が消えた。
遠くの犬の鳴き声が、途中で切れる。
葉の揺れが空中で静止する。
世界が、まるごと“観測”をやめたように。
優大は息を吸った。
その呼吸すら、音を立てない。
目の前の景色が、薄い膜越しに見える。
自分の存在までもが、
誰かの“視界”の外側に押し出されていくようだった。
そのとき――
鐘の音が、どこかで鳴った。
遠く、深く、
まるで水の底から響くような音。
一度、二度。
ゆっくりと間を置いて、三度。
空の歪みが、ふっと脈打つ。
沙也加の姿が、光の粒となって滲み、消える。
そして、音の残響だけが、優大の耳に残った。
(モノローグ)
「あの音は、夢の中でも聞いた気がする。
これは始まりなのか、それとも……記録の再生なのか。」
光が、再び空を満たしていく。
鳥が鳴き、風が動き出す。
何事もなかったかのように、朝が続いていた。
優大は、自分の手のひらを見る。
そこに、白い“灰”のような粒がひとつ、落ちていた。
触れようとした瞬間、
それは風に乗って消えた。
そして――ページが、静かに反転する。
第1断章《夢:優大の記憶》
世界は、己を映した。
神は己を観た。
観られた瞬間、神は“二つ”になった――




