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『観測の夜 - The Night of Vision』  作者: 南蛇井


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第9章:観測の終わり、そして始まり

世界の安定


朝の光が、灰色の街をやわらかく包み込んでいた。

崩れた塔の影、ひび割れた路面、焼け焦げた標識。

すべてが昨日の名残でありながら、そこに漂うのは“終わり”ではなく、

不思議な静けさだった。


《天の鏡》の崩壊から数週間。

世界は、まるで長い悪夢から目覚めたように、ゆっくりと再生を始めていた。

電波は戻り、空は青さを取り戻し、

人々は“観測の夜”の記憶を語ろうとした――けれど、誰一人として語れなかった。

語ろうとした瞬間、言葉の輪郭が霞み、記録が砂のようにこぼれ落ちる。


それでも、彼らの胸の奥には残っていた。

「何かが失われた」という、名もなき感覚だけが。


玲子は、かつて《ミラートゥーム》があった地下の跡地に立っていた。

瓦礫と化した聖堂の中心――そこは、もう何の装置も存在しない、ただの空洞。

だが、足元の砂にはまだ、かすかに光の粒が混ざっている。

それはまるで、誰かがここに“在った”という記憶の残滓のようだった。


彼女は無言でカメラを構え、空へとレンズを向けた。

シャッターが切れる。

一瞬、ファインダーの奥で――影が揺れた。


優大の輪郭。

声も、名前も、記録もないはずの“存在”が、

ほんの一瞬、確かにそこにいた。


玲子は息を呑み、指先が震える。

だが、映像を確認したときには、そこには何も写っていなかった。

ただの光、ただの空。


彼女はカメラを胸に抱き、

微かに笑って、空を見上げる。


「……光は、もう、見返してこない。」


その声は風に溶け、

青の彼方で、誰かが微かにまばたきをした。


沙也加の静寂


白く光る部屋。

無数の記録装置が静かに脈動し、冷たい空気の中で低い電子音が響いていた。

ここは《白頁庫ホワイト・アーカイブ》――世界中の観測記録と意識の断片が保存される教会の心臓部。

今は修復作業の真っ只中で、壁面に埋め込まれたモニターが次々と再起動を繰り返している。


その中央で、沙也加はひとり腰を下ろしていた。

指先には、玲子から転送された小さなデータ端末。

「再生」ボタンを押すと、画面に微弱なノイズが走り――映像が始まる。


白い光の中。

揺れるカメラのフレーム。

その一角に、たしかに“誰か”が立っていた。


顔は判別できない。

輪郭も、名前も、記録上のどの個体とも一致しない。

けれど沙也加には、分かっていた。

それが“彼”――外薗優大の残響であることを。


映像の中の彼は、ただ空を見上げ、

そして静かに消えていく。


ほんの数秒。

けれど、その一瞬が、永遠の祈りのように胸を締めつけた。


沙也加はそっと端末を閉じる。

小さな笑みが浮かぶ。


「……あの夜、私たちは世界を見すぎた。

でも今は、静かに目を閉じていられる。」


言葉とともに、空気がわずかに揺れた。

モニターの光が柔らかく反射し、

沙也加の頬に淡い明かりを映す。


画面のファイル一覧には、もはや“優大”という名前はどこにも存在しなかった。

けれど、彼女の心のどこかには、確かに“見ていた”という温もりが残っていた。

それは記録ではなく、観測でもなく――ただの、祈りの痕跡。


沙也加は立ち上がり、白い部屋を後にする。

背後で再起動を告げる音が鳴り、世界が新しい記録を刻み始める。

だが、彼女の歩みは静かだった。

九条教授の遺稿


夕暮れの光が、静まり返った研究室を包んでいた。

かつて観測教会の中枢として機能していたこの部屋は、今では瓦礫の修復跡と沈黙だけが残っている。

壁の一角には、焦げた金属板。

机の上には、散乱した研究資料。

その隙間に――一冊の、古びたノートが置かれていた。


玲子は手を伸ばし、その表紙をなぞる。

焦げ跡の間から、かすれた文字が覗く。

「九条圭一」――彼女の師の名だった。


ページを開くと、そこには数式とも詩ともつかない筆跡が並んでいた。

数行目で、玲子の視線が止まる。


「観測の終わりとは、記録の始まり。

記録の消滅とは、観測の自由。

そしてその両方の間に、人は祈る。」


短い言葉だった。

けれど、その文の余白には、すべての答えが眠っている気がした。

九条らしい、理と詩の境界を歩く筆致。

玲子は指先で紙を押さえながら、ふと目を閉じる。


あの夜のことが蘇る。

観測と忘却がぶつかり、空が“瞳”で覆われた夜。

優大の声、沙也加の祈り、そして――九条の静かな警鐘。


「観測とは祈り、忘却とは赦し」

あの言葉の続きが、ようやく理解できた気がする。


玲子はノートを静かに閉じた。

ページの間から、光の粒がひとつこぼれ落ちるように見えた。

それは錯覚かもしれない。

けれど、確かに温もりがあった。


「……教授。

祈りって、きっと――見えないものを、見ようとすることですね。」


玲子の瞳が、柔らかく微笑みに滲む。

涙ではなく、安らぎの光。


彼女はノートを胸に抱き、崩れかけた窓辺へ歩み寄る。

外の空は穏やかに暮れ、星がひとつ瞬いていた。

それはもう、“瞳”ではない。

ただの、夜の光。

再生の朝 ― 無記の空


夜が明けた。

長く続いた“観測の夜”は、ようやくその幕を閉じたのだ。


《天の鏡》の残骸が埋もれる山間から、朝の光が差し込む。

冷えた空気の中、鳥の声が初めて戻ってきた。

それは、世界が再び呼吸を始めた証。


玲子は、ゆっくりと目を開けた。

頬に当たる風が、やけに優しい。

視線を上げると、そこには――何の異形もない、ただの青空が広がっていた。

どこにも“瞳”はない。

誰にも“見られて”いない。


それでも、彼女はカメラを構えた。

空を撮るために。

誰かに見せるためではなく、ただ「見る」という行為のために。


シャッターが、ひとつ鳴る。

音は小さく、しかし確かに世界を刻んだ。


玲子(独白):「……この空は、誰のものでもない。

でも、誰かが見たというだけで、少しだけ優しくなる。」


彼女の手元のノートには、九条の遺稿が挟まれている。

その隣のページには、誰が書いたか分からない一行の走り書き。


「見ることを赦せ。赦すことを、見よ。」


玲子はその言葉をそっと指でなぞる。

そして、静かに目を閉じた。


まぶたの裏に、微かな光が揺れる。

それは形のない記憶――名も、記録もない、ただの温もり。


「……おはよう、優大。」


玲子が呟いたその瞬間、風が頬を撫でた。

まるで誰かが、微笑みながら通り過ぎたように。


同じころ、遠い地平線の向こう。

白い修復室の片隅で、沙也加も朝を迎えていた。


彼女は静かに祈りの姿勢を取り、

目を閉じたまま、淡く笑った。


沙也加(心の声):「見ないことで、ようやく“見える”世界もあるのね。」


窓の外では、陽光が反射して白く瞬く。

その輝きの中に、一瞬だけ――

彼の影が立っているように見えた。


沙也加は目を開けない。

ただ、両手を胸に当てて囁く。


「ありがとう。」


そして、世界は静かに回り始める。

観測も、記録も、忘却も――

すべてが一度“まばたき”をして、

新しい朝の中へ溶けていく。


空は何も見ていない。

けれど、“見ていない”ということが、こんなにも穏やかだった。


玲子は微笑み、カメラを下ろした。


「……まばたきのように、あなたを思い出す。」


青空の下、風が吹く。

世界はもう、記録を持たない。

それでも――そこには確かに、“祈り”があった。

【終章】

――終幕:記録なき祈り


再建された《観測聖堂》は、白い光に満ちていた。

天井の裂け目は塞がれ、壁にはもう“目”のような痕跡もない。

ただ、朝の風がステンドグラスを揺らし、淡い影を祭壇に落としていた。


沙也加は祈りを終えると、白いノートを静かに祭壇に置いた。

そのページは――何も書かれていない。

だが、その余白の温もりは、確かに“誰か”を覚えていた。


沙也加(小さく):「言葉にできないことこそ、祈りになるのね。」


彼女の手が離れると、ノートの端が風にめくられた。

ページの一枚が、柔らかな光を反射する。

そこには何も刻まれていない――

けれど、見る者の胸にだけ、“存在の跡”が残るようだった。


聖堂の奥のスピーカーから、微かなノイズが流れた。

それは、古い録音。

九条教授の遺された最後の音声。


九条教授(音声):「観測も忘却も、神の呼吸の片側にすぎない。

我々は、そのまばたきの間に生まれ、消えていく。」


言葉が途切れ、静寂が訪れる。

しかし、その沈黙の奥で、どこか遠くの世界が再び息をする気配があった。


玲子は祈る沙也加の背を見つめ、ゆっくりと空を仰いだ。

天井の上には、無限の青。

“観測の夜”の名残はもうどこにもない。


玲子:「……空は、何も見ていない。

でも、それでいい。

何も見ていないという安らぎが、

今は、世界を包んでいるから。」


彼女はカメラを下ろし、レンズキャップを閉じる。

もう撮るべきものはない。

それでも、その手の中には確かな温もりがあった。


沙也加が振り返る。

玲子と目が合い、二人は言葉を交わさずに微笑み合う。


風が吹く。

祭壇のノートのページが一枚、ふわりと舞い上がり――

光の中に溶けていった。


その白は、無記。

だが、祈りだった。


空の彼方、誰も見ない雲の隙間。

かすかに光が瞬く。

それは星でも、記録でもない。

――ただの、光。


(声なき声)「観測は、愛だったのかもしれない。」


空が瞬き、世界が静かに呼吸を続ける。

記録は消えた。

けれど、“祈り”は、消えない。


そして――

誰かの心の中で、再びひとつの物語が生まれ始めていた。


『END ……そして、BEGIN。』

終断章《玲子の手記》


白紙のノートの最後のページに、

玲子は静かにペンを置いた。

もう、研究記録でも報告書でもない。

ただ――心の底から、生まれた言葉だった。


ページをめくるたび、かつての観測の光景がかすかに蘇る。

《天の鏡》の破片。

優大の声。

沙也加の祈り。

九条教授の笑み。


けれど、どれも輪郭を持たない。

名前も、日付も、数値も、何も残ってはいない。

それでも、玲子は不思議な確信を抱いていた。

“何もない”というこの静けさの中に、すべてが宿っている――と。


あなたがいない世界は、静かだ。

でも、この沈黙は、優しい。


ペン先が微かに震える。

けれど、その震えは、悲しみではなかった。

まるで、世界の呼吸が紙の上に伝わってくるような、

穏やかな鼓動。


観測をやめた夜、私は初めて“見ること”を知った。


あの夜。

光が崩れ、音が消え、すべてが反転した瞬間。

それでも、彼だけは確かに“そこ”にいた。

観測の向こうで、微笑んでいた気がした。


玲子は空を見上げる。

窓の外、青が満ちている。

どこまでも透明な空――もう、瞳も裂け目もない。


あの夜の名を、私はこう呼ぶ。

――愛の夜、と。


ペンを置く音が、静寂の中に溶けていく。

ページが閉じられ、柔らかな風がノートを撫でた。

机の上に射す光が、まるで“まばたき”のように揺れる。


玲子はそっと目を閉じる。


そして、微笑んだ。


『END ……そして、BEGIN。』





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