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村の記録  作者: 山谷麻也


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第3話 山村今昔

挿絵(By みてみん)



 その1


 小杉は昭和二〇年代の半ば、四国の中央部に位置する小さな村に生まれた。

 村は大河、四国三郎・吉野川の支流・祖谷(いや)川流域にある。村の奥には森林地帯が連なり、大きな谷が秘境・祖谷との境界になっている。古来、その名も境谷(さかいだに)と呼ばれてきた。


 一九二〇年(大正九)に街道が開通するまでは、祖谷は文字通り「陸の孤島」だった。

 境谷が祖谷川に注ぐあたりに「田丸(たまる)」と呼ばれた小さな村があった。罪人はここに流された。流刑地だったのだ。そこに留められることから「田丸」という地名になったとされる。


 明治以降、受刑者を公共工事や鉱山の採鉱などの労働に投入する機会が増えた。「囚人労働」と呼ばれたものだ。境谷の上流には「囚人小屋」の跡があった。林業に従事させるため、小杉の生まれた村を経由して囚人が移送された。


 北海道の開拓には多くの囚人が駆り出された。「囚人道路」として名高い道もあった。ここで落命した囚人は数えきれない。

 境谷での作業はそれほど苛酷ではなかったものの、移送途中で脱走する囚人もいて、村じゅう総がかりで山狩りをした話が残っている。


 街道が開通してから、麓の商店街は秘境の中継地点として繁栄した。一九二〇年代には水力発電所が建設され、多くの人々が行き交った。郵便局や農協、医院、食堂、商店、散髪屋、美容院などもあって、一帯はさながら繁華街の様相を呈していた。



 その2


 一歩、山に足を踏み入れると、そこには昔ながらの生活が営まれていた。

 ほとんどが農業と林業(炭焼き・木こり)あるいは土木業(技術者・作業員)との兼業だった。林業で栄えた一部の村、一握りの家を除いて、多くは貧困にあえいでいた。


 村人は麦を主食とし、時にはイモ類などの雑穀が取って代わることもあった。頼みのイモ類にしても、空腹のために収穫期が待ちきれず、生育途中のものを掘って食べた村民も多い。


 ましてや、米を口にすることは悲願だった。祖谷地方では今はの際に、米を入れた竹筒を枕もとで降り、米の音を冥土(めいど)土産(みやげ)にしたなどという話が、まことしやかに伝えられてきた。


 祖谷川、さらには支流の松尾川の左右に、険しい山肌を拓いて、一〇あまりの村落が点在していた。

 学校は一校だった。幼稚園・小学校・中学校が同じ校地にあった。校長は一人で、小学校と中学校の校長を兼務していた。当然ながら、運動場は共用、その上、狭く、直線で五〇メートルコースを取るのがやっとだった。


 勢い通学範囲は広くなり、二時間前後かけて通学する生徒もいた。

 学区によっては通学は苦行だった。後に知ったところでは、隣の学校では一〇キロあまりの道のりを登校していた生徒がいた。日が短くなる季節は、提灯(ちょうちん)()けて家を出る。道が明るくなると、提灯を消して、道端の木の枝に架けておく。下校してくる頃には日が暮れかかる。再び提灯に灯を入れて家路を急いだ。


 その生徒はよく学校を休んだ。担任が家庭訪問し、通学の大変さを身をもって知ったらしい。遅刻・欠席しても、(とが)めなくなったと言われている。


「卒業アルバムには顔写真が載っているのに、あまり見かけたことのない子だった」 

 同級生が述懐していた。



 その3


 松尾川のはるか上流にも小さな集落があった。

 東洋一の渓谷美を誇った龍ケ岳(りゅうがだけ)のさらに奥、仙人しか棲まないようなその地にはさすがに、小杉の通った小学校の分校が設けられていた。


 小杉が中学生の時、見知らぬ子が小学生たちとソフトボールをしていたことがあった。その子の打順になり、ヒットを放った。歓声と拍手が沸き起こる中、分校生とおぼしき子は喜び勇んで三塁へと疾走した。


 はじめてのソフトボール、おそらく初体験の集団競技だったのだろう。卒業証書か何かを受け取りに来たものと思われた。


 第一次ベビーブームが沈静化してきた時期とは言え、本校には相変わらず、生徒の歓声が絶えなかった。小杉の学年でも二クラス編成だった。狭い教室に三〇近い机が並べられ、生徒がひしめきあっていた。


 小杉の生まれた村には、二二軒の家があった。五、六人の子持ちは普通だった。祖父母が健在な家庭も多く、大家族だった。当時が村の人口のピーク時に当たった。


 進学・就職あるいは出稼ぎなどで故郷を離れることがあっても、過疎になるなどとは誰も予想していなかった。



 その4


 中学校卒業式の前日、小杉のクラス担任がある提案をした。タイムカプセルを花壇に埋めようというものだった。

「何を書いてもいいぞ。みんなが二〇歳になったら、集まって、掘り出そう」

 担任は興奮気味に語った。


 配られた紙片に、小杉は建築士になる夢を書いた。当時、男の子に人気の職業だった。

 紙片を集めて粉ミルクの缶に入れ、花壇に掘った穴に埋めた。土がかぶせられるのをクラス全員、神妙な面持ちで眺めていた。


 タイムカプセルは小杉たちに掘り出されることはなかった。

 二〇歳になる直前の一九七〇年(昭和四五)、母校は町の中学校と統合された。一寸先も読めない時代になっていた。


 世の中は高度経済成長を謳歌していた。引き換えに、地方では人口流出が加速し、小杉の生まれ故郷でも一軒あった個人医院は閉院、商店も次々に灯を消していた。

 少子化に伴い、分校は一九八二年(昭和五七)にいち早く廃校となった。二〇〇一年(平成一三)に幼稚園が休園(一二年廃園)、〇五年(平成一七)には小学校が休校(一三年廃校)となった。


 地域から子どもたちも、瞬く間に姿を消した。

 過疎化・少子化の大波は小さな山村を一呑みにした。

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