第1話 インターバル
その1
世紀が改まった二〇〇一年の四月上旬。埼玉県I市中心部を流れる川の土手に、小杉の姿があった。
I市は銘茶・狭山茶の主産地として知られる。都市化が進んで茶畑は少なくなったものの、川岸には見事な桜並木が続く。この日は平日であり、花見客はまばらだった。
風が川面を渡る。花筏がゆっくりと流されていく。
感謝の集いを開いた夜、いつまでも寝つかれなかった。
(まだ、引き返せるのでは…)
小舟から飛び移ろうにも、岸は見る間に離れていく。やがて、小杉は大海の波間に浮かんでいた。
(これから、どうなるのだろう)
小杉を漠然とした不安が襲っていた。
つい二、三日前の集いさえ、遠い昔の一コマに思われた。
入学を予定している専門学校は地元駅から二〇分ほど、同じ県内のT市にあった。
リハビリ施設として国が設置したもので、小杉の入る課程は修業年限が三年だった。
寄る辺のない数日が過ぎ、四九歳の新入生は四二歳のママに付き添われ、白杖を手に、入学式に臨んだ。
その2
一学年の定員は四五人、三クラスに分かれた。寄宿舎が整備され、自宅通学が可能な者を除いて、入寮を原則とした。
高校新卒から高齢者まで年齢層は幅広く、小杉のクラスの平均年齢は、小杉と同じ四九歳だった。クラスに女子が四人いた。
授業が始まり、近くの居酒屋でクラス担任を交えて懇親会が開かれた。
クラスを引っ張っていたのは、元ゼネコン社員の中年男だった。
「みんな、三年後には全員、国家試験受かって卒業しようぜ」
自ら乾杯の音頭を取った。全身、ファイトのかたまりみたいな男だった。
学生は全盲から弱視までいて、見え方はさまざまだった。このため、点字図書、録音図書を利用している者もいれば、拡大読書器やルーペを使っている者もいた。小杉のほか数人は裸眼で教科書が読めた。
学内は白杖歩行が禁止だった。右側通行の上、接触しないように、曲がり角では声出しを奨励していた。
「右に曲がります」
「左に曲がります」
「渡ります」
という具合だ。
学生の何人かは通学時、白杖を突いていた。白杖は段差や障害物を確認するだけでなく、視覚障害者であることのサインの役目を果たす。このため、人ごみの中でも安心して移動できる。
白杖歩行の初日、小杉はさすがに近所の目が気になった。想定問答も準備していたが、声をかけてくる隣人はいなかった。
その3
クラスには、小杉を含めて元気のよい中高年が五人いた。学業に熱心なことに加え、クラス委員をはじめ学友会役員を買って出るなど、学年の牽引役となっていた。
五人はよく、そろって飲んだ。年齢も近く、話題に事欠かなかった。
「G5」(ゴールデンファイブ)を自称するも、若い学生の間では「爺5」と身もふたもなかった。
ともあれ、G5は遅い青春を謳歌していた。一年の修了時には、卒業旅行ならぬ進級旅行に出かけ、夜遅くまで飲み、語り合った。
リハビリ施設の性格からか、入学式は暗いムードに包まれた。厚労省や地方自治体の来賓が居並ぶ中、粛々と式が進行する。
卒業式も同じだった。
絶望の淵から這い上がってきた学生が、ほとんどだった。
「もう、暗い話はたくさんだ」
と、参列を敬遠する在校生がいた。それでも、式には在校生は全員参加とされ、欠席するわけにはいかなかった。
二年生の二月、教務課から小杉に呼び出しがあった。なんと、卒業式で送辞を述べろというものだった。
小杉は引き受けるか迷った。小杉を推薦してくれた者のことを考えると、引き受けざるを得ない。小杉は、あることを期して卒業式に臨んだ。
先輩の学年には皆勤者が多いことを例に、職住近接ならぬ学住近接とはいえ、いかに学業熱心か讃えた。さらにスポーツ大会など課外活動にも積極的だったことにも触れた。
「お陰で、私たちのクラスでは勝利の祝杯をあげるどころか、敗戦の苦杯を浴びたのであります」
笑いを取るところだった。
「いいぞ! 小杉爺!」
反応したのは、小杉のクラスの長老ひとりだけだった。
静まり返る中を、失意の小杉は在校生の席に戻った。
途中、「ありがとうございます」と小声で言い、頭を下げた卒業生が一人いた。
小杉は緊張の糸が切れそうになった。
その4
G5を筆頭に、中高年が頑張っていたのは、後がないことも大きかった。
家族もあり、鍼灸マッサージ師(注一)の免許を取って、生計を立てていかなくてはならないのだ。
小杉は元々、開業を目指していた。就職しても、遅くない時期に定年退職となる。子供たちは就学期にあり、リタイアしたら後はのんびりというわけにはいかなかった。それに、高齢になっての就活は困難を伴う。
クラスの長老はそのことを最も心配していた。ある時、長老はご機嫌だった。
「オレは就職が決まったよ。知り合いの社長が治療院を開くことになってね。そこの院長で行くんだ。こんなジジイが最初に決まって悪いね」
長老はクラスへの気配りを忘れなかった。
ところが世の中、そうはうまく運ばない。社長は会長職に退き、社の方針転換となった。会長は長老を慰めた。
「あんた、文章がうまいから、作家になってはどうだい」
長老はその気になってしまった。
「小杉爺なら分かってくれるだろ。そういう道があるとは、オレもかねがね考えていたんだ」
小杉は賛成も反対もしなかった。
「鍼やりたいのなら、あんまやっとけよ」
という教官のアドバイスに従い、小杉は入学早々、部活はあんま研究会に入った。毎月、新宿で開かれる鍼の研究会にも通った。また、週末や長期休暇を利用して温泉地でアルバイトするなど、わき目も振らず技能の修得に励んだ三年間だった。
卒業を間近に控えた〇四年の正月、散歩がてら、小杉は妻と地元の不動産屋を訪ねた。
不動産屋に案内されたのは、デパートの前に建つビルの一室だった。市内の一等地の割に、賃料は高くない。オーナーの女性も
「私、肩こりなの。ぜひ入ってよ」
と一石二鳥の様子だった。
二月初め、不動産屋から、手付金だけでも入れるよう電話があった。国家試験は二月末だった。小杉は勇気を奮い、手付を打った。
試験日を迎えた。初日のあん摩マッサージ指圧師試験は時間ギリギリまで試験場に残っていた。この先、国家試験を受けることもないだろう、と思ったからだ。二日めのはり師ときゅう師試験はそこそこで切り上げ、級友が待つ飲み屋に急いだ。
その5
四月半ば、小杉は「開業披露の集い」をデパートの宴会場で開いた。
前職の関係者のほか親友、恩師とクラスメイト、部活の後輩など多数が参集し祝ってくれた。
小杉は謝辞を述べていて、さすがに言葉が詰まった。
立地のよさもあって、多くの患者さんに恵まれた。秋にはスタッフを雇った。
鍼の研究会には引き続き出席し、めぼしいセミナーなどがあればどこにでも出かけて行った。
ある日、あんま研究会の後輩が二人やって来た。
「何か勉強会をやってくださいよ」
という。単なる思い付きではなく、二人は会の名前まで考えてきていた。
母校から職場見学にやってきた。また、研修会の講師として、母校に招かれることもあった。
地元マッサージ組合の会長とは専門学校時代に知り合いになっていた。会長は小杉に期待するところがあったらしく、小杉が開業するのと同時に組合に入会が認められた。組合では市の事業を委託されていて、小杉の治療院も市の指定を受けることとなった。
組合の方は後に副会長に推された。委託事業は難しい時期に差し掛かっており、小杉は責任の重さを痛感していた。
(このまま埼玉に骨を埋めるのかなあ)
小杉はそんな感慨にふけることが多くなっていた。開業して七年目を迎えようとしていた。
(注一)鍼灸マッサージ師:あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律(昭和二六年)に定めがある。国の指定した養成施設を修了し、それぞれの国家試験に合格すると資格が付与される。通称、あはき師。




