街が死ぬ音
何も変わらない夜だった。いつも通り、演奏が終わり、彼と外に出た。それだけだった。
―でも、街は確かに、死にかけていた。
シアトルの片隅で、私たちは“音”を聞いた。
軽蔑でも、絶望でもない。ただ、静かな“終わり”の音だった。
レイとロイはライブハウスの演奏が終わり
演奏が終わった瞬間、耳鳴りが消えたようだった。
ロイが「帰るか」と呟いたのを、私は聞き取れなかったふりをした。音の残響がまだ脳内に張り付いている感じだったから。
ステージのスポットライトに照らされていたバンドの残像。ギターのハウリング。酔っ払いの笑い声。私たちは煙草の臭いとスニーカーの擦れる音に包まれて、外に出た。
外の空気は、冷たく乾いていた。
シアトルの夜はいつも灰色だ。でも今日のそれは、灰じゃなかった。何か、黒く濁っていた。
「なあ…あれ…」
ロイが立ち止まって、指さした先。路地の向こう、コンビニの明かりが点滅していて、その前に人が倒れていた。血のようなものが地面に滲んでいる。誰も近づかない。車も通らない。
遠くで銃声がした。でも誰も驚かない。誰も走らない。ただ、避けて歩く。
「行こう」
私はロイの手を強く引いた。手袋越しでも冷たさが伝わるほど、彼の手は冷えていた。
「見なかったことにしよう、な?」
でも、見てしまったものは見なかったことにはできない。
私の目の奥に、あの倒れていた人の指がゆっくりと動いていたのが焼き付いていた。生きていた。
道端にはいくつかの人影があった。いや、“人”と呼んでいいのかもわからない。
骨の浮き出た背中、レジ袋を抱え、口元を覆って何かを噛んでいる者。うずくまって笑っている少女。
街は明らかに壊れていた。
それでも、人は生きている。
それが余計に怖かった。
「ここももう、持たないな…」
ロイがぼそっと呟く。
彼の声は普段より少し掠れていた。音楽に包まれていた時だけは、何もかもが“まとも”だった。でも、現実はこんなにも音がしない。いや、してるのか——街が“死ぬ音”が。
私たちは高架下の歩道を歩く。
ロイは黙ったまま。たまに、後ろを振り返る癖がある。誰かに尾けられてるとかじゃない。ただ、そういう時代なのだ。誰もが「死なないように」歩いている。生きるためではない。
「レイ」
「ん」
「さっきの、ライブさ」
「うん」
「…良かったよな」
「うん」
それだけだった。でも、それだけで良かった。
それだけが、私たちを“こっち側”に引き留めてくれる気がした。
道端に落ちていた空き缶が、誰かの足に当たって転がった。
バス停には誰もいなかった。
その代わりに、壊れた公衆電話の受話器が揺れていた。
その“カチン…カチン…”という音が、この街の心臓の鼓動に聞こえた。
「レイ、逃げ場ってあるのかな」
「さあね。わたしは……ロイがいるなら、どこでもいいけど」
「お前さ、そういうのズルいわ」
「知ってる」
私たちは笑った。笑えた。
それだけが奇跡だった。
歩いているとき、橋の上から遠くの工場が燃えているのが見えた。
夜の煙は星を隠し、街の心音をさらに鈍くさせた。
誰かが死んだ音だった。
でも誰も泣かない。誰も叫ばない。
その代わりに、スーパーの駐車場ではラジオが鳴っていた。
“本日の気温は4度、乾燥注意報が出ています——”
街は、死につつある。
でも、私たちはまだ生きてる。
その温度があるうちは、たとえどれだけ小さくても、希望に似た何かが灯ってる。
だから私はロイの手を強く握り直した。
「帰ろう」
彼は頷いた。
私たちは、壊れかけた街を抜けて、少しでもあたたかい場所へ向かった。
——そのとき、誰かが空を見上げていた。
見えない星に願うように。
死にきれない街の、その最後の声を聞くように。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
街の死は、音でやってくるのかもしれない――そんな思いつきから書いた短編です。
主人公レイの目を通して、「崩れていく世界に、感情は置いていけるのか」という問いを投げたつもりですが、読者の皆さんの心に少しでも何か引っかかれば幸いです。
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