0
行き倒れていたところを助けられた。僕が、彼に。それが初対面だった。逃げ出したんだ、自分を囲う檻から。そうしてもどうにか生きていける年齢になったから。だけど僕の体は自覚していた以上に弱く、逃げるのに必死で三日ほど食事を摂らなかっただけで、貧血で動けなくなった。公園のベンチ。座り込んだ位置からふと空を仰ぐと、真っ黒に塗りつぶされていた。その瞬間は思わず息を呑んだものだ。突然闇の世界に落っこちたのか、貧血で目の前が真っ暗になったのか。視界が暗転する病気か何かか。そのどれでもなく……真っ黒な空は、彼が僕に差し伸べた傘だった。傘をどけて見えた空は、真っ暗な雨雲のはずなのに明るく見えた。
連れて行かれたのはボロいアパートだった。寂れ切っていて、人の気配どころか、生活感が全く感じられない、そんな木造のアパートの一室。ワンルームで同じ空間に仕切りがあるだけのキッチンとシャワー室がついていて、玄関横には洗濯機の設置スペースだけが何も置かれずに存在していた。……今思えばそこは廃屋だったのかもしれない。あの後いくら探しても訪ねようとしても、取り壊されてしまったのか勝手に倒壊したのか、そのアパートには辿り着けなかったから。彼は畳に直接あぐらをかいて座り込んでいた。電気もつけず、窓の外から雷雨の明かりだけ。換気扇がゆっくり回転していた気がする。だったら電気もガスも通っていたはずなのに、僕の記憶の中で勝手に書き換わっているかもしれない。彼はヤカンのお湯をカップラーメン二つに注ぐと、それを直に畳に置いた。低い台のようなものに卓上コンロがあって、その上がヤカンの定位置だった。
「食べな」って二つのカップ麺のうち片方を示されて、彼はさっさと食べ始めたけど、僕は三分待ってから食べた。彼が食べおわってシャワー室に入っていく。口を開きかけたけれど間に合わず、後ろ姿を見送る。二人ともズボンの裾が濡れたままだった。彼が脱ぎ捨てていったジーンズは裾がほつれていて、履き古したのかそういうデザインなのかわからないなと思った。
シャワーの音。いや、外で降っている雨の音かも。ケータイを確認したら幼馴染からの連絡があった。その連絡を見た途端、どっと疲れが押し寄せる。実感。自分が生き延びたっていうような。疲れで体が重たくなるのに目は妙に冴えていて、畳に横になっても凝視するように彼が消えていったドアを見ていた。
彼は知らない人だ……だった。赤の他人だった。ついさっきまで。ここが自宅じゃない仮の宿だとしても……急にこんな無防備な、パーソナルな空間まで、出会ったばかりの相手を引き入れるなんて、変な人だと思う。冷静になった今でこそ何か裏があるのかとも疑ってしまうけれど、僕に求められる見返りなんて自分でも思いつかないし、彼が自分と同じくらいの年齢だということもあって、あまり過剰な警戒はしなくてもいいか、みたいな気にさせられた。
後で思えば。道端で行き倒れてるやつを拾って帰るなんて、ヤバい奴に決まってる。
……でも道端で行き倒れるような事情の奴に、誰に助けられるかを選ぶ余裕なんてない。あの時現れたのがセキだったのは 僕にとっては多分、幸運だった。
しばらくしてガチャ、とドアが開き
「あれ、寝てないね」
戻って来た彼は上半身に何も着ていなくて、真っ黒な髪はまだ湿っていた。
ぽたり、と落ちる雫に
ぞくっとする。
暗い部屋なのに窓の外から雨の夜が 反射して彼を浮き上がらせた
ベッドに近寄り床に跪き、僕に手を伸ばす、その手で僕の額に触れて、彼は嬉しそうに微笑った。
「熱高ーい」くすくす、喉を跳ねさせるように笑うのが小さな子供みたいだ。「今日はきっとすっごく汗かくね。明日になったらちょっとよくなるよ、よかったねえ」
至近距離。焦点がぼやける彼の笑顔
熱。熱が出たのか。安心して気が緩んだのか……?
ほぅ、と息を吐く。彼はそんな僕の様子を目を細めて見つめ、そのまま僕の頭を撫で、頬を撫で、首にぎゅうっと抱きついてきた。
「ちょ……っ!?」
思わず突き返しそうになったはずだ。スキンシップも僕は好きじゃ無いはずだった。なのに不調でいまいち動きの鈍い両手は中途半端に布団を持ち上げただけだった。
いや 違ったかも
どこかそうするのが自然な流れを、雰囲気を 彼は纏ってた。そういう触れ合いをしても僕が 拒絶しないって、……お互いに暗示を掛け合っているような……
少し抱き合った姿勢でいた後、顔を上げた彼はもう一度にっこり笑った。
「おやすみ。ぼくは隣の部屋に居るから何かあったら呼んで」
「…ま、って」
自分でも無意識の内に、
「待って!」
僕は 彼の腕を掴んで引き止めた。まるでそうするのが今この場で一番ふさわしいみたいだった、決められた台本を演じる役者みたいだった。
「……うん。何?」
……彼が 予想した通りに応えてくれる
僕は……だけど、自分から引き留めた途端に、この距離感のおかしさに戸惑った。距離を詰めて当然みたいな こんな感覚にさせられていたことに一歩、引いた。
「……呼ぶって、なんて呼べば、いいんですか」
苦し紛れに口にしたのはそんな言葉。まだお互いの名前もしらなかったんだ、そんなことにようやく気付いて、彼の方も「あそっか」なんて名前なんてどうでもいいみたいにつぶやいた。
そしてもう一度僕の目の前にかがみ込み
「セキ」
そう 言った。
「……セキ くん」
「うん。関って呼んで。すぐに来るから」
「関くん。……僕は、森島静、です」
そう、ともう一度笑って、
「じゃあおやすみしずちゃん。ちゃんと寝るんだよー」
いきなり愛称で人を呼んだ彼は 今度こそ部屋を出て行ってしまった。