10
1限終了の時刻になって秀十さんと分れ、2限は真面目に参加した。講義の後、知り合いと話しながら緩慢に立ち上がる学生を尻目に、さっさと出口へ向かってひらけた場所まで抜け出す。
教室のドアが並ぶ廊下を通り過ぎ、エレベーターホールも通り過ぎて階段の踊り場まで来たところで、階下のエントランスから聞き覚えのある声がした。
吹き抜けから顔を出し覗いてみると、眼鏡を外した見慣れた姿。
聞き覚えの通り そこには関がいて
声をかけようか迷ったけれど、向かい合う誰かが居るのを見て躊躇う。
さっき半ば無視のような真似をしたばかりだし、僕は一対一でしか、関を知らない。どういう態度を取れば良いかわからなかった。他人と居るのに割り込む気にもなれない。
知らないふりをして通り過ぎよう、と そのまま階段の続きを降り始めた、その時。
「…は……の?」
「……と…だよ…」
莉亜くん?
覚えのある声がもう一つ、聞こえてきた。
僕の居る階段が死角になって相手が誰なのかは見えなかったけど、莉亜くんだったのか。遣史郎も一緒にいるのか?
気になってもう一度視線を落とす。よく見たら窓から差し込む光で階下に二人の影が伸びている。遣史郎はいない……莉亜くんと関。
随分近い距離で向き合っているみたいだった。
「じゃあ壬慈……遣史郎だって……じゃねえのかよ」
「彼は……。……も、莉亜も……ってる」
会話に遣史郎の名前が出てきた。
思わず足音を忍ばせて階段を降りる。一歩、一歩 二人がいる階段下に近付いていく
「秀十先生……みんな、森島くんも、俺も」
「どうしてしずちゃんのこと知ってるの」
「今も今朝もしずちゃんて呼ぶからわかった」
……僕?
僕の名前も出てきた?
いや、立ち聞きはよく無いんだろうけど
直接聞くべきなんだろうけど
直接言葉を交わしたところで、彼の気持ちも考えも見えた気がしない
それなら目の前に僕がいない時に何を口にするのか
知りたい。
「森島くんも親友なわけ?だから傷つけられてもゆるすって?」
「しずちゃんに傷つけられたことなんてないけど」
「じゃあ身体中の疵は何!?」
「愛の証?」
「はぐらかすなよ。誰とでも寝るくせに」
「酷いなあ」
……は?
え?何?なんなんだこの会話
傷、身体中の…… 誰とでも?え?
確かに関は身体中に傷がある
――――服に隠れて見えないところに。
莉亜くんと、関は、
「しずちゃん抱いたことなんてないし誰とでもなんてしないよ。すれ違う人全員としてたらそりゃ無差別だけどさー」
「関」
まさか。
まさかこの二人、いや、でも
「ふざけてないで、こっちは本気で……、お前が怪我をするのも、人を好きになるのもお前の勝手だよ。だけどお前が人の好きにされるのなんて嫌だ。そんな風に相手の顔色窺って萎縮してたことないだろ、自分のこと自分で決めれなくてどうすんだよ。好き勝手やってんのはいいけど最近のは違うだろ。心配なんだよ」
莉亜くんが話す声に紛れて 階段を降りきった。
そっと階段下を振り返る
「……!」
関の表情からは笑みが消えて、長い前髪に隠れた目ははっきりと開かれていた。
莉亜くんの表情は見えない。けれどどういう顔してるかなんて想像に難くない。真剣に話してた、むしろついさっきまで茶化すようだった態度の関が、笑顔のカケラすらないのが意外だった。
二人は真っ直ぐ見詰め合って……睨み合っていて、僕が覗いていることには気付いていない。
「心配?どうして」
「……どうしてって……」
「親友だから?好きだから? ……ずるくない?そういうの」
「はあ……?」
「好き、を言い訳にするのはずるいよ。」
「言い訳なんて」
「言い訳だよ。好きだから傷つくな、傷付けられるな、なんて」
「だから前から言ってるだろ……自分を大事にしろ。お前は俺の大事な親友なんだぞ」
「やーだよ」
「はあ?!」
「莉亜が心配してくれるのは嬉しいでしょ?」
やめられないなぁ。
笑み。
ああ、……莉亜くんの表情、見えていないけど きっと僕と酷く似てるんだろうな。
結局、関はわらった。いつものように、不真面目に、茶化すように、優しげに。
そんな風に笑われると 真剣なこっちが大げさなだけみたいに思わされて 虚しくなって 確かに些細なことかもな、なんて 想いを矮小化されていく
関の方こそ、ずるいと、思う。
優しげな素振りで受け流して 全部特別じゃないみたいに、取り合わずに
その負荷を全部 相手に背負わせる。
「ずるいのはお前だろ……」
莉亜くんのつぶやく声が、異様な程耳に響く。
「うん。ごめん」
でも好きなんだろ、俺のこと?
笑いを含んだ声。
笑み。
白い手が伸びて 莉亜くんの首筋を関の指先が撫でた。仕草も笑みも酷く柔らかなのに、硬質な人形にも、綺麗なだけにも、醜悪にも、見える
ずるい。ずるい。
酷い。
二人の顔が近付いて、キスをする様子から、目がそらせない。
逃げ出してしまいたかったのに、
長い口づけの間
瞬きすら忘れたように
ぼんやりと、呆然とその場所で立ちすくんでいた。