おいで
少年はオールで海水の堅い部分を掴み、小さな舳先をその光の方に向けようと、オールを持ち直す。盛んに燐光を放ち、黄緑色に揺れている、星空に向かって揺れている、そんな光を、少年は向こうに見たのだった。
「ほら、あそこに光が見える、ずいぶん大きいなぁ、綺麗だなぁ。あの緑色の星につながっているみたいだ」少年はオールを強く握ったまま、けれど先よりか弱く漕ぎながら、少女に言う。
「そんなの見えないよ、お兄ちゃん。それより、おなか減ったよう」少女は、人差し指を時々海面に浸して味を付け、それをしゃぶりながら言う。
「よしな。そんなことしていると指が取れてしまうぞ、理性が無くなれば本当に」
「リセイ?」
「そうさ、もう少し待っていな。すぐに綺麗な風景が見れる、この星空よりもっと綺麗だぞ。痛みも多分ないんだから」時間のダイヤルを強制的に速く回すかのように、少年は更に強くオールを握る、ただ、時間は腰を据えたまま滲にじむように進むだけであったし、また小舟もずいぶん丁寧に進むだけであった。少年はもっと黄緑色の光を目指して、もっとザアザアと漕いでゆく気持ちになるのだけれど。
小舟の低い唸りは、少年にはもう聞こえていなかった。そして小舟を出した砂浜は、既に海にのまれてしまったか、若しくは小舟が遠くに行きすぎてしまったかで、少年にはもう見えていなかった。
「あと、どのくらいで着くの?」少し上品に唇をとがらせながら、少女は海原を滑走する風で前髪を掻き上げる。眉毛は2つ、夜に浮かぶこの小舟のように、しんと其処に置いてあった。
「僕はたぶん、もう少しだよ、ほら、だってもうこんなにも光が近い」少年は、哀愁と期待を、布切れのような黒目に浮かべながら言う。また、軌跡が一本、夜の海の上に添えられ、左右に酔いながら、途切れる、それがまた、また、繰り返される。
すると突然、小舟は唸るのをやめ、終着駅に着いたかのように止まる、そしてどこからかやってきた1つ、2つの波で、上下にリズムを刻む。
一方小舟の脇では、無音を鳴らしながら大きな波紋がシンと広がり、どこかの舟をまた揺らす、そして遠くの、2人の知らない舟に乗った誰かがまた揺れる、かもしれなかった。
「それにしてもおなかすいたなぁ、けれどきっとすぐに腹一杯食えるぞ。あぁ、おい、だからやめておけって言ったのに、血が出ているぞ」少年は、もうすっかり神経を捨ててしまったかような腕を精一杯伸ばして、少女の人差し指をつまむ。「強く噛んでしまったんだろ?」
少女は口をすぼめながら顔を上げた、丸く世界に顔を出した鮮血が途端にはじけ、形を崩し、少年の指にも温かく伝わる。それは心地よく月光のもとに照らされ、生の意思が実体化したもののように見えた。
「うん、痛かったけど、おいしいよ」少女はまだ、黄緑色の、そして先より大きく盛る光を見ていないし、知らない。
少年は鮮血を海水で注いだ後、もう指を食うな、と念を押す。そしてすっかり機能しなくなった腕を両肩に抱えながら、仰向けになろうと背を付けた。小舟の曲がり具合に合わせて少年の身体は綺麗なカーブを星達に見せる。
「あぁ、もうこれ以上は進まないなぁ。ほら、オールをいつの間にか海に落としてしまったらしい」
少女は、もう、縄を怖がることはなかった。少年のように縄を無視して、仰向けになってみる。
「私、あの星がほしい、あの貝殻みたいな星」それこそ、少女の瞳は星のようだった。「明日の誕生日プレゼントはあれがいい」
「あぁ、そうだね、去年は何もやれなかったからね、今年はきっと届けるよ」少年は、もの悲しげに言った。「他にもいっぱいしてあげるさ。誕生日なんだからな」
「ほんとう?」
「もちろん」
少女はケケケと、ずいぶんと水気のない声で笑った。それは、少年がずいぶん長い間、聞いていなかったものかもしれなかった、欲していたものかもしれなかった。そして、多分これからは頻繁にそれが見れるだろう、みずみずしい唄のような笑い方に変わって、という期待が少年にはあった。
その格好のまま、2人はずいぶんと時間を流していった、時間に流されていった。そして少女が身体をのっそりと起こす。それは、誰かに起こされたかのような動作に見えなくもなかった。そして少女が少年に言う。
「お兄ちゃん、あそこに変な光が見えるよ。緑っぽくて、ぼぅとした光が」
少年は何かを決めたように、またゆっくりと上体を起こし、
「見えたか……」
と、重い荷物を下ろすときのように、息を含ませながら言った。