貝殻
貝殻が間違えて落ちてきそうな、そんな澄んだ夜だった。一つ一つはたいしたことは無いけれど、そいらが集まってしまえば、本当に其処に行ってみたい、あっちに行ったり、こっちを試してみたり……冒険をしてみたくなる。水平線が分かってしまう程、星々がリンリンとしたかすかな光を放ち、2人を誘う。海原は静かに波打ち、2人を砂浜から遠ざけようと、そしてオールを手にした少年は、波を怒らせないようにドロドロと岸から遠ざかるように、漕いでいく。2人を運ぶのに精一杯といった感じの小舟は、すっかり精気を失った木の板で張られており、進むたびに怪しげなメロディーを夜に刻んで、空との境目に向かって航跡をばらまいていく。本当は誰かに追ってきてほしいというように、或いは2人がまだ存在していることを確かめるように、柔らかく、空気を含んだ泡が形成されてははじけ、波に揺れることを意味も無く繰り返している。
やはり、うっかり貝殻が落ちてきそうな、そんな澄んだ夜だった。2人はそんな広さに負けていた。数に負けていた。それでも、進んでゆく、漕いでゆく。夜空との境目に向かって漕いでゆく、進んでゆく、ドロドロとオールを動かして、少年と、もっとか弱い少女が、小舟を頼りにして砂浜から離れてゆく。星達を線でつないでゆくかのように、小舟がギイギイと音を立てながら、航跡を残しながら。
小舟には、頼りない縄が一本うねっておいてあった。少女が、縄に触れたくないというように、脚を折りたたんで窮屈そうに腰を据え、そして縄が少女の方にいってしまわないよう、少年は素足でそれを踏みつけながら、星を眺めている。足裏の砂がすっかり落とされてしまう前に何処かへ辿り着いてしまえ、と少しオールを強く握ったようだった、小舟を誘う波の数が多くなる。
航跡に、もう一本の跡がゆるりと追加された。それは流麗な詩を読むかのように、繊細さを途切れさせないように、海に乗っかっていた、波に消されんと耐えていた。光を求めたプランクトンがそれに群がり、そしてプランクトンの群れを見つけた小魚が集まりだし、月光に照らされる、そんな軌跡だった。小舟の酔い方に従って、その一本の軌跡も左右に揺れる。だが少女の一際小さな人差し指が海から離れると同時に、儚い夢であったかのようにそれは消える。そして、プランクトンは目的を失い、海の中に降る。初めは月光に照らされて貝殻のように降り、広い海に負けてすっかり消える。そして、目的を見失った小魚たちは、丸い群れをそのまま保ちながら、月光を海の少し深い所にまで届けつつ、遠くの方に消えていく、2人よりも先に。
少年は、また、空を見上げた。月光を添えて、本当に貝殻が降ってきそうな、そんな澄んだ夜空であった。そして、遠くの水面のうろこに光が反射し、それは2人の道しるべとなろうとしていた。