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九 詐称

   九  詐称


〈なにしてるんですか〉

〈今どこですか〉

 いつのころからか、早苗から頻繁に電話がかかってくるようになった。初めのうちは携帯電話へのメールだったはずだが、鍛冶は、着信に気付かなかったり、気付いても急用じゃなさそうだから返信が遅れ、そのまま忘れてしまったりしていた。なにしろ、電話やらメールやらが来るのは決まって締め切りを過ぎた、心身の緊張が弛緩する時間帯なのだ。

「クラブを出たとこだけど」

〈栗坂くんも一緒ですか〉

「栗坂は悪い子だから居残りをさせてる。今ごろ、全社のブースを罰掃除してるな。ほんで、他社が温めてるネタをこっそり盗み出すんだ」

〈栗坂くんの話はもういいですよ〉

「なに言ってんだ。おまえから振ってきた話じゃないか」

〈そんなことより、お腹すきませんか〉

「いや、まったく」

〈わたしはすいてるんです。バイパス沿いのラーメン屋さん、おいしいんですって〉

「じゃ、行けばいいじゃないか。行って食ってこいよ」

〈こんな夜更けに女子が一人でラーメン屋さんになんか行けませんよお〉

「取材って言えばいいだろ。『ミシュランガイド』の覆面調査員だって」

〈覆面調査員が名乗って取材なんかしませんったら〉

「もう車、走り出してるんだけどな。道路交通法(どうこうほう)の罰則が強化されたの知ってるか。今、県警庁舎前の守衛小屋の立ち番のお巡りがおれに敬礼したけど、ながら運転なのばればれだわ」

〈きょうも会社に帰ってこないんですか〉

「さいころでぴったりの目が出ないからすごろくのゴールに上がれない。毎回ニアミスはするんだけどな」

〈待ってますから帰ってきてください〉

 こんなやりとりを何度が続けて、鍛冶はついに根気負けした。会社に寄って早苗をピックアップし、二人でバイパス沿いのラーメン屋に行くことにさせられた。

「あそこのラーメン屋さん、鍛冶さん行ったことありますか」

「そりゃこの土地に十年近く暮らしてるからね。あるよ」

「タウン誌で紹介されてたんですよ。おいしいって」

「新聞記者がタウン誌の情報に振り回されてどうするんだ。デスクや読者がおまえの原稿を信用するようなもんじゃないか」

「ラーメン屋さんは栄枯盛衰が激しいんですよ。十年もってるってことは、それなりにお客さんが着いてるってことに決まってます」

「遅くまで営業してるからな。引きこもりの自宅警備員が仕事帰りに食べに来るんだろ」

「好きじゃないんですか」

「なにが」

「今、向かってるラーメン屋さん」

「おれの生まれを知ってるか」

「九州だって聴いてます」

「博多文化圏なんだよ。ラーメンっていったらとんこつスープだ。とんこつ以外のラーメンは認めない。東京やら大阪やらで乱立してる、もどきも邪道だ」

「あらら。ラーメンやめますか、別の物でもいいですよ」

「一度食べると決めたら体がラーメンしか受け付けなくなってるから、ラーメンでいこう。おまえが毎晩のようにラーメン、ラーメン言うから、おれもラーメンのことしか考えられなくなった」

 深夜だというのに店は繁盛している。あまり清潔ではない二人掛けのテーブルに向かい合って着き、壁に張ってあるメニューを見回した鍛冶は、メニューの一点から目が離れなくなった。

《ビール》

 ごくりと自分がつばを飲み込む音まで聴こえた気がした。

「剣城」

「なんでしょう」

「おまえ、おれの車、運転できたりするか」

「できますよ」

「まじでか」

「まじでです。大丈夫です、任せてください。ビールでしょ。好きなだけ飲んでください」

「おれ一人だけ飲んでいいか」

「鍛冶さん、そんなの気にしない人ですよね」

 鍛冶は、ジョッキのビールを注文した。


「鍛冶さんって、編集局でいうとどなたと同期なんですか」

 先に運ばれてきたビールのジョッキを傾けながら、鍛冶は早苗のどうでもいい質問に応じた。

「同期はもう誰もいない。みんな他社に移った。うちが新人記者養成機関だとか人材出荷工場だとかやゆされてんの知ってるだろ」

「知ってますよ。マスコミ就職サイトの掲示板にも載ってます。それで鍛冶さんだけ置いてかれたんですか」

「おれは社長から直々に、会社に残ってくれって言われたんだ。将来を嘱望されてるんだよ」

「ジュニアに?」

「先代だな」

『県民タイムス』はオーナー企業で、鍛冶が入社したころは、今の社長の実父が社長として辣腕を振るっていた。息子が東京の大学を卒業すると、跡を継がせるため友好関係にある全国紙『日日(にちにち)新聞』に修行に出し、『日日新聞』の中枢で帝王学を学ばせた。鍛冶の入社は息子の修行最終期に当たる。

 息子は三十歳を前に『県民タイムス』に呼び戻され、編集、営業、販売、事業の各部門で局長に付いて実務を教わり、会社の全容を掌握し副社長の座に着いた矢先に、父親である社長が倒れた。息子は三十代で、実父の遺志を受け社長に就任した。

『日日新聞』から戻ってきたころから『県民タイムス』の従業員は、社長の息子という意味合いで「ジュニア」と陰で呼んでいたが、本人には聴かせられないその呼称は、社長就任後も改まらない。実際に会社を動かしているのは、ジュニアの社長就任と同時に専務から副社長に繰り上がった、新旧社長と縁戚関係にある実力者だからだ。

「鍛冶さんって、学生結婚だったんですってね」

「そう。中学生のころ女子高生の嫁をもらった」

「お子さんいるんでしょ。一人ですか。男の子ですか、女の子ですか」

「子の数ははっきり分からんなあ。多すぎで数えきれんよ。みんな何度も性転換してるから、男か女かももはやなんとも」

「どうして別れちゃったんですか。あれ? 離婚されてますよね」

「今どうなってるのかおれにも分からん。戸籍抄本取ったらばつがいっぱい付いてて数えきれんかった」

「鍛冶さんの年齢が謎なんですけど、結構いってるって話も聴きました」

「就職したのが二十六歳の時だったからな」

 鍛冶は思わず本当のことを口走った。冗談を繰り出すのにくたびれて乗せられてしまった。その後は質問攻めの早苗のなすがままだ。

「修士課程とか博士課程とか行ったんですか」

「いいや、学部だけ」

「どこでそんなにだぶったんですか」

「だぶってはないよ。大学の卒業証書を三枚もらった」

「学士入学を繰り返したってことですか。どこからどこに」

「同じ大学に八年在籍したんだ。最初に入学したのは経済学部で、次が文学部の国文学科。最後が、同じ文学部の哲学科」

「勉強が好きだったんですね」

「社会人になりたくなかったんだよな。バイトで潤ってたし」

「アルバイト? どんな」

「学習塾で講師やってたんだ。経済学部の一年のころから七年間働いた」

「七年も働いてたらもはやバイトの域を超えてますね」

「そうなんだよ。最初は授業のこま数で給料もらってたんだけど、こまが増えすぎて、すぐに月給制になった。所得税を払わされてたし、労災保険にも入れられてた。健康保険証だけは親の遠隔地のを使ってた」

「そのまま塾に就職するっていう話にはならなかったんですか」

「少子化で受験作業は将来性がないし、塾講師って三十歳にも四十歳にもなってできる仕事じゃないんだよ。話の分かるお兄ちゃん、お姉ちゃんっていう立ち位置が求められるんだ」

「へええ」

「会社に入ってすぐの時にさ、総務に呼び出されたんだ。経歴詐称の疑いがあるって」

「なんでそんな」

「厚生年金を払ってた記録があるんだって。年金機構のデータにそう残ってるんだって」

「総務にはなんて説明したんですか」

「あるがままだよ。バイトの給料を月給制でもらってたって。だから厚生年金を払ってたって」

「総務の言い分は」

「大学の卒業証明書を出せってさ。採用試験の段階で出してなかったんだな。いくつも会社を受けたから、どこに出してどこに出してないか覚えてなかった」

「出しましたよね」

「出したよ。大学に請求して郵送してもらって。卒業証書は三枚あるけど、卒業証明書は一通なんだ。同じ大学だから、一通に前科三犯が漏らさず記されてる」

「なんでずっと同じ大学だったんですか。学士入学なら別の大学に行った方が楽しそうだと思うんですけど」

「モラトリアムの時間を延ばしたかっただけだからな。それにバイトの待遇も良かったし、女房と結婚するつもりがあったから」

「奥さんとは大学時代に知り合ったんですか。同じ大学だったんですか」

「うん。あっちは、下宿のおれと違って自宅通学だった」

「どの学部の時に」

「最初の経済学部三年次のころなんだけど、学内で知り合ったんじゃないよ。塾のバイトで一緒だったんだ。女房は教育学部だった」

「奥さんは今、なにされてるんですか」

「地元で教員」

「学校の先生。小学校の」

「うん」

「鍛冶さんは教員免状取ってないんですか」

「持ってるよ。中学校の社会科と高校の公民。最初の経済学部の時に教職課程を一回挫折したんだ。二番目の国文学科じゃ国語の免状しか取れないから方向転換するのが面倒で教職課程は履修してない。塾でも教えてたのは英語と社会科だったしさ。最後の哲学科の時に、教職課程を復活させて社会科と公民で取った。うちの大学は経済学部も文学部哲学科も取れる免状は同じだったんだ」

「教育実習にも行ったんですね」

「行った。母校に行く連中が多いんだけど、おれは大学の近所の中学校で受け入れてもらった。教育学部の付属中学じゃ、最後の実習は受けられないんだ」

「四年遅れで母校に行くのは気が引けたとかですか。教育実習ってどこも一斉にやるんでしょ。ほかの実習生は最大四つ下ってことですよね。小学生のころはかぶってて中学時代にはかぶってない地元の後輩と一緒に実習をするのが嫌だったとか」

「それもあるんだけど、働いてた塾を長期で休めなかったからね。帰省できなかった」

「教育実習に通いながら塾でも勤務してたんですか」

「うん」

「すごい働き者だなあ。でも、一歩間違ってれば鍛冶さんは中学校か高校の先生になってたわけですね」

「それが二歩も三歩も間違って、縁もゆかりもないエリアの地方紙記者だ」

「奥さんとはいつ結婚していつ別れたんですか」

「哲学科の一年目に子どもができちゃったんだ。そのころ女房はまだ臨時的採用教員(りんさい)だった。臨採って分かるか」

「正規雇用の先生じゃないんでしょ」

「そう。だからいったん仕事を辞めさせた。二年目に、おれが『タイムス』の採用試験に受かって就職することになった。女房の父親からは二回殴られたよ。女房をはらませた時と、遠隔地に就職するって話した時」

「へええ。入社時は子連れですか」

「そうだな。会社借り上げの広い部屋を用意してもらった」

「なんで離婚しちゃったんです?」

「女房が地元の教員採用試験に受かって正規採用された。二歳だった息子を連れて帰ってった。息子を両親に預けたり保育所に通わせたりして、小学校で働いてた。少し遅れて、正式に離婚した」

「離婚は回避できなかったんですか」

「おれはこっちで女房は地元だからな」

「奥さんの地元の地方紙に移るとか」

「採用試験は何度か受けたよ。駄目だったから今ここにいる」

「すごい歴史だなあ」

「おまえより十年長く生きてるからそうなるわさ」

「どの辺りが同期に当たるのか分からないはずですね。誰の上なのか下なのか、誰に聴いても釈然としなかったんですよ」

「四年遅れだしな」

「先輩記者が年下ってこともあるわけですよね」

「うん。おれが新人で県警クラブに入ったころは、うちの会社からは三人記者を出してたんだ。キャップは年上だったけど、二番手は年下だった」

「やりにくくなかったですか」

「向こうはやりにくかったかもな。向こうって年下の先輩のことな」

「鍛冶さんは年下の先輩に敬語ですか」

「そりゃそうだよ。向こうはおれに呼び捨て、命令口調。でも、クラブにいる限りは各社とも年齢やら記者歴やらクラブ歴やらがばらばらだから、先輩との年齢の逆転はあんまり気にならなかったかな」

 鍛冶と早苗は、ラーメンとギョーザの器を空けても話し込んだ。鍛冶はジョッキのビールを三杯飲んだ。


 ラーメン屋の駐車場で、鍛冶は早苗に運転を任せ自分は助手席に乗り込んだ。小柄な早苗はシートを前にスライドさせた。

「今どきマニュアル・トランスミッションの免許を持ってる若い女なんてめったにいないぞ。おまえ、相当の変態だな」

「わたし、大学時代は体育会自動車部だったんですよ。学内のサークルで」

「それみろ、やっぱり変態だ」

「車が好きなんです。あれ。この車、ヘッドライトのスイッチどこですか」

「右手でインパネ探ってみろ。ウインカーレバーも右だからな。おまえの愛車は逆だろ、間違えるなよ」

「そうそうそう、そうなんです。左なんです、ウインカーレバーが。大問題ですよ。なんで輸入車は、右ハンドルでもウインカーレバーは左のままなんですか」

「それはだな、国際標準化機構と日本工業規格との間で深くて広い溝と高くて厚い壁があって――」

「――マニュアルシフト版を買いたかったんです。でもそうすると、ウインカーレバーもシフトも左手で操作しなきゃならないんですよ。どう考えてもむちゃですよね。交差点で曲がるとき、ウインカー出しながらどうやってシフトダウンするんですか。追い越し掛けるときはどうするんですか。その国際なんとかがおかしいんですよ」

「おれもおまえの意見には賛成だ。ヨーロッパにも左側通行で右ハンドルの国はあるだろ。おまえの愛車ももともとはイギリスで作ってたんだよな。イギリスは右ハンドルだろ。あいつらいったいどうやって運転してるんだ。ヨーロッパじゃ日本やらアメリカやらほどオートマが浸透してないっていうじゃないか」

「並行輸入で左ハンドルを買おうって考えたこともあるんです。もちろんマニュアルシフトですよ、そのための左ハンドルなんだから。でも、並行輸入だとアフターサービスの不安があって泣く泣く正規輸入のオートマですよ」

「左ハンドルは危ない。運転したことあるか」

「あります。国内で。確かに見通しが悪くて怖いですね。だけど、左ハンドルの車は運転席より助手席の方が怖いんですよ」

「そうなのか」

「免許取るまでは気付かなかったんです。自分でも運転するようになって、右側の助手席に乗せられると足がブレーキを探しちゃうんですよ」

「どういうことだ」

「対向車が突っ込んできそうな、対向車に突っ込んでいきそうな錯覚に陥るんです。だから、手はハンドルを探してますね。ブレーキを踏んでハンドルを左に切ろうって脳が反応してるんですよ」

「そりゃ面白いな。おれ、左ハンドルの車の助手席に乗ったことないよ。間違った、乗ったときないよ」


 初めて運転する鍛冶の車を早苗は巧みに操る。シフトアップ、シフトダウンが軽快だ。ところが、声のトーンが急に変わった。

「鍛冶さん」

「なんだ」

「間違ってたら指摘してください」

「おまえの言うことはたいがい間違ってる」

走行距離計トリップメーター、四万キロですよね」

「四十万キロだな」

「あああ、こんなメーター初めて見た。見たことない車だとも思ってたんですよ。なん年式なんですか」

「車検証の表記を信じれば、おれと同い年。それで気に入ってるんだ」

「もはやクラシックカーじゃないですか。いつから乗ってるんですか」

「大学のころから。卒業して東京で就職する同級生から買い取った。そのころからすでにクラシックカーだったよ」

「お子さんと暮らしてる時はどうしてたんですか」

「後ろの席にチャイルドシートで縛りつけてたけど」

「こんな狭い後部座席に」

「子どもは小さいからこれくらいでちょうどいいんだよ。軽量(ライトウェイト)スポーツカーは子持ちに優しい」

「当時の軽量スポーツカーはみんな、ライトのスイッチがこんな所に付いてたんですか」

「この車が特別だな。当時からウインカーレバーと一体化してるのが標準だったはずだ。左側にワイパーを操作するレバーが付いてたのも今と一緒。この車はハンドルの軸左側からレバーが出てないだろ。ワイパーのスイッチもインパネに埋め込まれてる。左手でウインカーレバー探すなよ」

「走り出したらもう慣れました。左手はシフトノブしか探してません。そんなことより、四十万キロってタクシーでも走りませんよ。ずっと乗っててトラブルなしですか」

「消耗品は何度も換えたよ。おれの手に渡ってからタイミングベルトが二回、走行中に突然切れた。それから、トランクに雨水がたまるんだ。灯油用のポンプでぱこぱこ定期的にくみ出してる。次の車検はもう通さないかな」

「いつですか、次の車検」

「来年の一月」

「それまでにまた運転させてください」


(「十 用語」に続く)

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