八 柳眉
八 柳眉
最初見た時、ノリかワカメだと思った。
秋口のことだ。用があって朝の早い時刻に、鍛冶は県警記者クラブに出向いた。クラブは無人だろうと漠然と考え、庁舎一階の受付カウンター裏にある当直室にかぎを借りに寄った。
「記者クラブなら開いてるよ」
制服の当直勤務員にそう言われたから、誰かが来ていることは分かっていた。来庁時、報道用駐車場の車の有無は気にしなかった。いつも開け放しの状態の部屋のドアは閉まっている。施錠はされていない。ノックせずに入った。人影は見えない。照明はともっていなかったから、鍛冶がドアのそばのスイッチを入れた。
出入り口からは背もたれで座面が見えない、四脚ある三人掛けソファのうちの一脚に、薄手の毛布にくるまって誰かが寝ていた。毛布の端から黒くて長い髪だけがはみ出し、ソファの座面から垂れて床につきそうになっている。顔は毛布に隠れたままだ。毛布はもぞもぞと動き出した。
「あ、鍛冶さん。おはようございます」
毛布から顔を出したのは、『エヌ』の有紀だ。ノリかワカメのような頭髪は若干乱れている。
「泊りかよ」
「はい」
寝言の続きのようなことをごにょごにょ言いながら有紀はスチールロッカーの『エヌ』のスペースに毛布を畳んで収納し、歯を磨きに部屋を出ていったようだったが、すぐに戻ってきたのが足音で分かった。
「鍛冶さん、早いですねえ」
「起こして悪かったね」
「いいんです。寝坊を防いでいただいて、ありがとうございます」
「よく泊まるの」
「局内だとよけいな仕事を押し付けられちゃって、自分のやんなきゃならないことがちっとも進まないんですよ」
「どこも一緒だな」
「家に帰って寝ちゃうと、誰も起こしてくれないから寝過ごしちゃうんです」
鍛冶がいる『県民タイムス』のブースから物陰になっていて様子はうかがえないが、音とにおいから、有紀はコーヒーをいれているようだ。
「ふうん。おれはなにかあったら栗坂に起こしてもらってる。栗坂は誰が起こしてるんだろうな」
「わたしが今朝みたいにここで寝てる時、栗坂さんに起こしてもらったことありますよ」
「鷺沼さん、そんな連日連夜ここに泊ってるの」
鍛冶は驚いた。
「車に着替えを一週間分積み込んで、局内の泊まり勤務用のシャワーを使わせてもらって、ここで寝てって感じですかね。鍛冶さん、ブラックですか」
自分の分だけでなく他社のキャップである鍛冶の分のコーヒーも用意してくれていることに鍛冶は感銘を受けた。
「うん、ありがとう」
女性にしては長身の有紀は、片方の手にクラブの共用湯飲みを、もう片方の手に自分専用のマグカップを持って、『県民タイムス』のブースに来た。
「濃いかもしれません」
ブースの机の隅に共用湯飲みを置いた。そして、『県民タイムス』ブース隣の、記者が常駐せずいつも無人の『亜細亜通信』ブースの席に腰掛け、自分のマグカップのコーヒーをすすりだした。
「鍛冶さん、ここのクラブじゃ一番の古株なんですって」
「いや。今いる中じゃ、『ふそう新聞』の岩崎さんの方が長いな。岩崎さんがうちの会社出身だってことは知ってるかい」
「はい。聴きました」
「あの会社、全国紙なのに外様の記者は異動が少ないし範囲も狭いんだ。岩崎さんはあっちに移って一度県外に出てから、また戻ってきて県警クラブを出たり入ったりしてる」
「取材はよその先輩から学べ、盗めってよく先輩記者に言われます」
「記者クラブは、部外者にはちょっと理解できないそういう不思議な師弟関係が成立するからね。そんなことも知らないのかって怒られそうで怖くて自分とこのキャップには聴けないようなことも、他社のキャップに聴いたら優しく教えてもらえたりとかさ。おれも岩崎さんからいろいろ教わったよ」
鍛冶の用は差し迫ったものではないから、有紀のどうでもいいような話に付き合った。ところが、有紀の顔をよく見て鍛冶は、吹き出しそうになった。有紀は、眉毛じゃないところから眉毛が生えている。正確に言うと、なにかの美的感覚を根拠に設定したであろう額の上の方に眉を描いているのだが、抜いたかそったかした本来の眉毛が目のすぐ上から黒々と伸びてきているのだ。眉が、二枚歯のげたの足跡のように左右二本ずつ並んでいる。何日も帰宅していないというのは実際その通りなのだろうと、鍛冶は仕事熱心なこの新人記者に賞賛を送りたかった。
「鍛冶さんのうわさ話をあちこちでよく聴くんです」
「悪口だな」
「それもあります。お巡りさんから嫌われてるって」
「好かれたくもないね」
「事件記者はお巡りさんから嫌われてなんぼの世界だってうちのキャップがよく言います」
「当たってるとこも、そうじゃないとこもあるかな」
「わたしたちは転勤族だから、嫌われたり好かれたりする前に次の任地に異動させられちゃうんです。わたしはここが初任地でまだ入局して半年だから実感はわかないんですけど、先輩記者の話を聴いてると、もっと地域に根を下ろして取材に当たるべきなんじゃないかって思うことがあります。『ふそう新聞』の外様の記者みたいに」
「おれはおたくらがうらやましいよ。世界中が舞台でさ。それに、東京に上がればそこで根を張れるじゃないか」
「わたし、ずっと関西なんです。生まれてから大学まで。だから東京は土地勘がないし、東京に行くことになってもそこにしがみ付くことはないと思います」
「ああそう。でも、大阪だってBKがあるじゃないの。東京のAKに次ぐ、おたくの拠点局だ」
「大阪は、大きな田舎なんですよ。名古屋もそうだけど。一地方に過ぎないんです。だから結局、大きな仕事をするには東京に行くしかないんですけど、東京で記者活動ができる自信もするつもりもないんですよね。しょせん根なし草なんだなって思います」
「そのうち気分も変わるんじゃないかな。経験積んで、どっかのクラブのキャップになったり他社の後輩に頼られたりするようになればさ。今は思いつかないような目標もできるよ」
高給取りでどこに行っても取材拒否に遭うことが少ないはずの公共放送の記者にも悩みがあることを、鍛冶は知っている。有紀の言うことはもっともだし、同じような話を同じようなシチュエーションで他社の記者から聴かされたこともある。ただ、有紀は、自分が女だから取材に困難を極めるというような言い訳めいたせりふを吐かないし、そんな素振りも見せない。鍛冶は有紀のことを、一本筋が通った新人記者だと評価している。
「さてと。鍛冶さん、お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
「面白い話が聴けて良かったよ。県内三千人のお巡りさんから毛嫌いされているなんてちっとも知らなかった。全ておれの片思いだったんだな」
「またまたあ。これから朝回りですか」
「いや、行かない」
会社が夕刊の発行をやめ、それと時を同じくして記者クラブ常勤を三人から二人に削減したのを機に、『県民タイムス』県警担当記者は、ルーティンワークの朝回りをやめた。昼に締め切りが設定される夕刊を出さないのなら、朝の気ぜわしい出勤時間帯の県警幹部を襲撃する必要性に乏しいからだ。クラブの人員を減らされたことに対する会社への抗議の意味合いもある。
会社は無反応だった。県警担当記者が捜査関係者への夜討ち朝駆けでネタを取っていることを会社はまったく理解していなかった。編集局の上層部に、事件取材の経験者はいない。会社への抗議は意味をなさなかった。
鍛冶がキャップを任されるようになってからも、特異事案を除いては夜回りに重点を置くよう手下に指示し、鍛冶自身もそうしている。
朝回りしないことを周囲に公言したわけではないが、誰も回っていないから他社は知っているだろうし、誰も来ないから当の県警幹部も分かっているだろうと鍛冶は思っていた。
「そうですか。栗坂さんとはよく鉢合わせしますよ」
初めて聴かされた。栗坂は指示されてもいないのに自主的に回っているのだ。栗坂は栗坂で、鍛冶には聴けないこと、鍛冶の目の届かないことを、他社の先輩や同期と切磋琢磨し成長しようとしている。たくましい手下だと鍛冶は栗坂のことを見直した。
有紀は鍛冶の湯飲みと自分のマグカップを廊下を挟んで記者クラブの向かいにある給湯室で洗って、出掛けていった。眉が四本あることを教えてやるべきだったかどうか、鍛冶には判断がつかない。
(「九 詐称」に続く)