六 尊厳
六 尊厳
捜査一課管理官、畠山の自宅前には、各社の記者の自家用車やタクシーが並んでいる。栗坂と同じように、鍛冶も他社とバッティングだ。
「なん分ですか」
先着していた社の記者に聴いてみた。
畠山の自宅に夜回りを掛ける記者は、先着順に、決まった時間のみ畠山との面会が許される。一社あたりの持ち時間は、畠山の都合に合わせて長くなったり短くなったりする。短ければ、玄関扉の内側で立ち話だ。
「5分。集まってる社が多いからね。これからもっと増えるだろうし」
5分で十分だ。流れが早い方がありがたいとも鍛冶は思った。
順番はすぐに回ってきた。畠山は上下そろいの、パジャマ用らしいトレーニングウェア姿だ。
「管理官、妊婦殺しの件だけです。マルヒはゆすられてましたね」
「確かに、ゆすられていたと供述してる。イエスだ」
「腹の子の本当の父親だからですね」
「それをネタにゆすられたと供述しているのも、あんたの言う通りだ」
「それが動機ですね」
「イエスとは言えない」
畠山に仮説を否定され、鍛冶は脳みそが一瞬、空になった感じがした。
「ほかにどんな動機が」
「やったとは吐いてない。ただ、腹の子のことでゆすられていたことを認めてるだけだ」
もう一つの仮説は正しかったと鍛冶は気を持ち直した。
「逮捕はフライイングでしたね」
「どういうことだ」
「警察は証拠を固めきれていない。マルヒを落とせないまま令状を執行するしかなかった」
「刑事手続きは正常に機能している」
「午前4時に令状を執行することが正常ですか。警察は、任意で調べを進める方針を転換しなければならかった」
「なぜ方針を転換しなければならなかったと思うんだ」
「けさの朝刊に載るかもしれなかった。任意捜査のままでは、ぼくたちの中の誰かがマルヒに接触する可能性があった」
「邪推だ。あんたらの動きなんかにうちは関心がない」
うそだ。警察が報道機関の動きに常に敏感に反応するのは、鍛冶のそう短くもない警察取材経験でよく分かっている。
「それはそれでいいでしょう。拘留期限内に落とせますか」
「落とす」
「動機は解明できているんだから大丈夫ですね」
「それが動機だとは言い切れん」
「なぜですか」
「供述の内容にいくつも矛盾がある。信ぴょう性に欠ける」
「信ぴょう性とは、ゆすられていた事実がということですか」
「父親が誰かということもだ」
「そのことは確実に裏が取れています。腹の子の父親は、被害者の夫ではありません」
「書くのか」
「書くか書かないかはこちらで判断します」
「書くな」
「なぜですか」
「死人に口なしだ。ゆすられていたという証拠もない」
「腹の子の父親が夫ではないという証拠はあります」
「仏さんは抗弁できないんだぞ。妊婦の名誉を、尊厳を踏みにじるつもりか。遺族のことを考えたか」
そうだった。鍛冶は衝撃を受けた。自ら立てた仮説の検証に成功し、特ダネを上げられるという栄誉に舞い上がっている自分に気付かされた。畠山の言うように、書くべきではないのかもしれない。
「分かりました、よく考えます。上の者と相談します」
「上とも相談するな。あんたで食い止めろ」
「それも含めて考えさせていただきます」
「鍛冶さん」
「はい」
「あんたのその出所不明の話は、どこの社の誰からも当てられていない」
「そうですか」
「あんたが書かなければ、妊婦は成仏できる」
「でも、いずれ公判が始まれば、供述の内容もその真偽も明らかになります」
「供述はあくまでも供述だ。それに、父親が本当にマルヒなのかはまだ分かってない。あんたにも分かってないはずだ」
その通りだ。科学捜査研究所の所長は、容疑者のサンプルがそろわず本当に腹の子の父親なのか分からないと言っていた。
「しかし管理官、腹の子の父親が夫でもマルヒでもないとすると、妊婦の不貞の度合いがますます深まることになります。そのことが記事を書かない理由にはなりません」
〈鍛冶さあん。時間オーバーしてるよお〉
玄関の外から次の順番の記者が催促しだした。
「鍛冶さん」
「はい」
「書かれた者の心情をくみ取るんだ。ペンの力の恐ろしさを、あんたほどの経験がある記者ならよく知っているはずだ」
「知っているつもりです。管理官、ありがとうございました。書くか書かないか、慎重に検討します」
鍛冶は、畠山の自宅をあとにした。いつもより早い時刻で夜回りを切り上げ、県警クラブに戻った。クラブは無人だ。広報室も明かりが消えている。鍛冶は栗坂をクラブに呼び戻した。
「北署の署長の官舎に行ったんですが」
「いたか」
「いました。事件のことはなにも報告を受けていないの一点張りでした。帳場の本部長なのにしらばっくれて。報道対応は副署長だから副署長に聴けと」
「副署長は」
「居留守です」
「刑事課長は」
「帳場に入ったままです」
「成果なしか」
「すいません、なしです」
「まあいい。こっちでネタはつかんでる。書くべきか書かないべきか、デスクにどう報告するか、おまえも一緒に考えろ」
鍛冶は一通り栗坂に説明した。
容疑者がゆすられていたと供述していることは、動機につながるから書くべき。ゆすられていたネタである、腹の子の父親問題については慎重に扱うべき。しかし、腹の子の父親問題を抜くと、ゆすられていたという記事が成立しない。
そんな結論に至った。締め切り時刻が迫っている。
《交際をめぐるトラブルでゆすられていたと供述》
仮見出しをこう付け、オブラートに包んだ記事を出稿した。デスクに全容は伝えなかった。上とも相談するなという畠山の言いつけを、鍛冶は守った。
翌日の朝刊で動機の解明にまで踏み込んだのは、『県民タイムス』だけだった。
各紙の記事を、行間やその裏まで込みで比べると、容疑者を任意捜査のまま帰宅させようとしたが報道が張っていたから逮捕令状を執行し拘留するしかなかったという鍛冶の読みは当たっていた。張っていたのは『中京新聞』のようだ。畠山の取材対応が終わった際、『中京新聞』の女性記者がクラブに戻っていなかったことを鍛冶は思い出した。クラブ員のもう一人の女性である『エヌ』の記者は、応援に来ていた早苗とのんきに茶を飲んでいたから覚えている。
容疑者は拘留期限中に落ちたが、畠山が言っていた矛盾や供述の信ぴょう性は埋まらないままだった。容疑者は起訴され呼称が被告に変わり、公判は、被告の供述内容に沿ったストーリーで展開された。死人に口なしだ。
妊婦の子の父親は被告だった。結果的に、『県民タイムス』を含む事件報道をする県内全てのマスコミが、刺されて死んだ妊婦や遺族の名誉と尊厳を著しく踏みにじった。
(「七 放送」に続く)