五 供述
五 供述
県警本部とは別庁舎にある科学捜査研究所に、鍛冶は赴いた。医師である所長との面会を求めたが、予測していた通り、かなわない。
「これだけお渡し願えませんか」
対応に出た所員に、会社の名刺を委ねた。裏面にメッセージを記しておいた。
《カエルの子はカエルですか オタマジャクシですか》
仮説が正しければ、これで所長は理解してくれるはずだという確信が鍛冶にはある。メッセージを委ねた所員によって情報が他社に漏れることもないはずだ。
科学捜査研究所から県警本部庁舎に戻った。夕刊がある社の締め切り時刻は過ぎている。九階の捜査一課をのぞくと、畠山は席にいた。庶務の職員に畠山との面会を要請した。畠山は、卓上で広げていた書類のファイルを閉じて隅に置き、両肘を卓上に突き鼻の前で腕を組むいつものポーズで鍛冶を迎えた。
「手短に頼む。仕事が立て込んでるんだ」
いつものように畠山が言い、いつものように鍛冶が承諾した。
《あけぼの北署の妊婦殺し 容疑者はゆすられていた》
事前に大きな文字で記していた取材用ノートのページを、鍛冶は畠山に示した。課内の捜査員に聴き耳を立てられないための筆談だ。
畠山は表情を一切変えない。
「聴いていない。そんな報告は上がってきていない」
「そう供述しているはずです」
フライイングで畠山を動かそうと鍛冶は考えた。
「どこからの情報だ」
「県内某所です」
「確かめておく。それでいいか」
「もう一つだけ」
「なんだ」
《腹の子は夫の子ではない 容疑者の子》
ノートのページをめくった。
「どういうことだ」
「マルヒはそう供述しています」
「それも県内某所から聴いてきたのか」
「別の県内某所から」
「それも確かめておく」
「お願いします」
「鍛冶さん」
「はい」
「気になることだろうから教えておく。どこの社もそんな与太話はしていない」
「ありがとうございます」
少なくとも夕刊には、この仮説は載らないであろうことだけは分かった。
栗坂からの報告は、はかばかしくない。あけぼの北、あけぼの南の両副署長から仮説を完全否定されたと鍛冶に電話を寄越してきた。交友関係も産婦人科も他社に荒らされた後で取材拒否の連続だと、鍛冶にはあらかた予測できたことを栗坂は逐一言ってくる。
「夕刊を見てから、仕切り直すかどうか判断しよう。それまでは当初の方針を続行」
代案があるかと聴いてもないと栗坂は言うから、鍛冶は、少し自信をなくした自分の仮説を引き続き検証させることにした。
夕刊各紙は、容疑者の逮捕という横並びの内容だ。鍛冶は、会社に出稿予定をパソコンの電子メールで送信した。
《妊婦殺し続報 50‐70行 写真なし 社会部・鍛冶俊作》
夕刊が出そろった後の時間帯に社内で開かれる編集会議に合わせて、毎日提出が義務付けられている。
〈新事実はあるのか〉
社会部デスクから鍛冶に電話がかかってきた。
「今のところ確定的なものはありません」
〈栗坂もなしか〉
「ぼくがなしだったら栗坂もなしです」
〈紙面はいくらでも空けられるぞ。でっかいネタ引っ張ってこいよ〉
いつもの調子で電話は切れた。
「鍛冶さん。定時レクを要請しようっていう社と、希望しない社があるんだけど、どうするね」
記者クラブに戻った鍛冶は、年配の記者に持ち掛けられた。大事件が発生すると、記者クラブが広報室を通じて要請し、毎日決まった時刻に担当部署の幹部が記者クラブに下りてきてレクチャーを行う習わしがある。「記者会見」ではなくあくまでも幹部による取材対応だから、広報室メンバーは出席しない。
県警サイドにとって定時レクチャーは、各社ばらばらに取材に来られるより一度で済むというメリットがある。記者クラブサイドにとっては、個別取材が難しい陣容の薄い会社が特落ちを防ぐことができるというメリットがある。
半面、毎日決まった時間を拘束されるという県警幹部にとってのデメリットがあり、独自ネタを仕入れている社にとっては、それがレクチャーで明らかになってしまうとスクープ記事が書けないというデメリットがある。
鍛冶は、定時レクチャーの開催を避けたい。自分で仕入れたネタで記事を書きたいという思いもあるのだが、それよりむしろ、定時レクチャーを開催すると幹事として広報室や今回の場合捜査一課との調整役に徹しなければならず、得なことはひとつもないからだ。
「決を取りますか」
そう応じたが、その決を取るのも、クラブ全加盟社に文書を送達して回答を集計するのは幹事の仕事だ。大事件が起きた時の幹事社は損な役回りだと、キャップの鍛冶は改めて思い知った。
過去の同様の書式を参照し、副幹事の民放テレビ局記者の了承を電話とメールで得て、正副幹事連名で各社宛ての文書を作成した。返ってきた回答は「希望しない」が過半数で、鍛冶は胸をなでおろした。
捜査一課管理官の畠山とは結局、その日は庁舎内での二度目の面会の機会は与えられなかった。
取材がうまくいかず意気消沈していた栗坂を鍛冶は県警本部に呼び戻し、駐車スペースの車の中で話を聴いた。
「新事実は」
「ありません」
「おれもない。認否と動機は」
「認否は答えない、動機は解明中。朝と一緒です。あ、北署の副署長の話です。最後に寄ってきました」
「分かった。夜回りに勝負をかけよう。所轄は全ておまえに任せる」
鍛冶と栗坂は夕刻、いつもより早めに記者クラブを離れた。
科学捜査研究所に行って所長が退庁しているのを確認してから、鍛冶は、市内の高級住宅街に車を走らせた。所長が家族と暮らす広い一戸建ての前を、一度車で通り過ぎた。他社の記者の姿も車も見当たらないのを確かめ、所長宅から少し離れた場所に車を路上駐車し、所長宅前に歩いて戻り玄関のインターホンを鳴らした。夫人らしい女性から、インターホン越しに面会を断られた。
「カエルの件だけでいいんで、お願いします」
鍛冶は食い下がった。
〈カエルですか…。聴いてみます〉
夫人らしい女性はインターホンの受話器を置いたようだ。外のスピーカーからはなにも聴こえなくなった。
玄関の引き戸が開いた。浴衣姿の所長が手招きしている。アルコールを摂取しているような顔の色と息のにおいだ。
「鍛冶くん。昼間カイシャに来てもらったみたいで、すまんかったね」
「いいえ。アポイントを取らずに申し訳ありませんでした」
「会う約束もできないからしょうがない。こっちの都合だ」
「お忙しいのは重々承知しております」
「上がってくかい」
上がりかまちの所長は、暇を持て余しているようだ。普段の鍛冶なら喜んで上がり込む。酒の相手をして、他社の知らない情報を収集することができるからだ。
「せっかくのご厚意なのですが、仕事が残っておりまして」
「そうか、残念だな。カエルの話ね。カエルの子は、ナマズの孫だったよ」
「妊婦の子の父親は、夫じゃないってことですね」
仮説が当たっていたことで鍛冶は上気した。
「妊婦? 夫? そんなことは知らない。そういう話題には応じられない」
興奮して前後不覚になってしまったと鍛冶は反省した。
刑事部の付属機関である科学捜査研究所の所長は、県警の幹部職員でありながら、他の同等幹部と異なり、記者との接触が制限されている。報道対応をする立場でもない。下手をすると地方公務員法に抵触してしまう。あくまでも、個別取材に当たる鍛冶に厚意でヒントを与えてくれているだけだ。
「申し訳ありません、その通りでした。カエルの話です。カエルとカエルの子をあやめたのは、ナマズの息子ですね」
「あやめたかどうかなんて知らないよ。カエルの子の父親が、捕らわれの身のナマズの息子かどうかはまだ分からない。ナマズの息子のサンプルがそろってないんだ。別のナマズの息子かもしれない」
「いつ分かりますか」
「サンプルがそろえば」
「いつそろいますか」
「わたしには分からない」
所長は警察官ではないから致し方ない。容疑者のDNAのサンプルを採取するのは捜査員たる警察官の役割だ。採取していたとしても、まだ科学捜査研究所に持ち込んでいないかもしれない。持ち込まれていてもデータが出ていないかもしれない。出ていても、所長に伝わっていないかもしれない。
「所長、ありがとうございます」
「うん、じゃあね。女房が無礼なこと言ってすまんね」
鍛冶は走って車に戻り、栗坂の携帯電話を鳴らした。
「被害者の子の父親は夫じゃない。裏が取れた」
〈えっ、どうやって〉
「後で話す。残ってるのは動機だけだ。そっちはどうだ、なにか分かったか」
〈夜回り先はどこも留守か、居留守を使われてます。あちこちで他社とバッティングしてます〉
「そうか。でかいネタ引っ張ってこい」
鍛冶はデスクの口癖をまねてみた。
(「六 尊厳」に続く)