二 応援
二 応援
「みなさん。そろってますか」
隣の部屋の広報室長が係長を従え、扉が開け放しの記者クラブに入ってきた。鍛冶は腕の時計を確認した。7時を少し回っている。クラブの女性事務員はもう退勤していて席は無人だ。クラブ員は、室長と係長の元に集まった。ブースにいた栗坂も駆け寄っていった。『県民タイムス』の締め切り時刻にはまだ十分な余裕があるから、鍛冶は落ち着いていた。
係長が、束にして携えている報道メモを集まってきた記者に配りだす。昼間なら中高年の女性事務員がする仕事だ。
「殺人ですか」
他社の記者のせりふに鍛冶は反応した。ソファからはね上がり、栗坂の後ろに回り込んだ。栗坂は、肩越しに鍛冶にも見えるよう、受け取ったばかりの報道メモを傾ける。
《女性変死事案 第1報》
横書きの報道メモのタイトルは無機質だ。発出元は、あけぼの北署。本文には、警察が通報を受けた時刻と発生場所のみが記されている。死んだ女性の年齢も職業も名前も死因も書かれていない。ただ、警察が、しかも所轄だけでなく県警本部が並行して発表するからには事件性があるということだ。
「まだ分かりません。うちからは刑事部捜査一課が出てます。それから今、第二報を準備していますが、死んだ女性は腹部に刺創痕が認められます。懐妊中でした。胎児の安否は不明です」
記者の何人かが記者クラブの部屋を飛び出していった。庁舎九階にある捜査一課に向かったのに違いない。残りの記者は、ブースに戻って報道メモをファクシミリで会社に送信しているようだ。
「会社に流します」
そう言って栗坂もブースに戻った。係長は、記者クラブに残っている記者を手元の名簿で確認している。記者がいない会社に、記者クラブにある共用の複合機から直接ファクシミリを送信するためだ。これも昼間なら事務員が任される。
「室長、ほかには」
鍛冶はじれた。
「今のところそれだけ」
ファクシミリが届いたか携帯電話で会社に確認しながら、栗坂が鍛冶の元に戻ってきた。
「栗坂、現場に向かえ」
電話を終えた栗坂に鍛冶は指示した。栗坂はきびすを返し、ブースに戻って荷物をまとめだした。
「到着して写真を押さえたら電話を寄こせ。おれが出なかったら会社にかけろ。おれもデスクも捕まらなかったら、そのまま雑観と写真を会社に送れ。同じ物をおれのパソコンにも送れ」
うんうんと栗坂は鍛冶の指示一つ一つにうなずき、ノートパソコンを詰めかさばるリュックとカメラを右片方の肩だけに掛けクラブ室を飛び出した。
捜査一課がある九階に向かうため、鍛冶はエレベーターホールに走った。降りてきたかごからは、先ほどクラブを出ていったはずの記者数人が吐き出された。
「駄目だ。一課は封鎖されてて入れない。門番も立ってる」
やはり殺人なのだと、鍛冶は身震いした。
人が足りない――。
鍛冶はやるべき仕事を頭の中で整理しながら、自分の置かれている状況を改めて認識した。『県民タイムス』はその月と次の月の二カ月間、クラブの幹事当番に当たっている。クラブを代表して、広報室や、今のところ捜査一課とされている担当部署と折衝する任務がある。自社業務とクラブ業務の二つの仕事を並行して行わなければならない。幹事当番は原則、新聞一社とテレビ一社の正副二社体制だが、副の民放テレビ局は記者の陣容が薄く当てにできない。
栗坂は現場に出してしまった。しくじったか。鍛冶は舌打ちをした。携帯電話で、会社の社会部デスクを呼び出した。
〈殺人か〉
報道メモを見たらしいデスクは開口一番聴いてきた。
「その疑いが濃厚です。デスク。今、うちが幹事なんです。応援を寄越してください」
〈栗坂は〉
「現場に向かわせました」
〈分かった。なん人必要だ〉
「こっちに連絡要員を一人、北署にもう一人」
〈誰を送る〉
「できる方を北署に、そうじゃない方をこっちに」
県警記者クラブには、早苗が来た。
記者クラブでは、現場に行かず残った記者がパソコンに向かっている。ブースに引かれた固定電話なのか携帯電話なのかにコールセンターのオペレーターのようなヘッドセットをケーブルでつなぎ頭に装着し、現場に到着したらしい通話相手に怒鳴りつけながらキーボードをたたく記者もいる。
全国紙は県内に印刷工場がなく刷り上がった新聞は遠方からトラックで配送されてくるから、県内版の締め切り時刻が早い。その分だけ、県庁所在地のあけぼの市に立地し本社地下の工場で印刷する『県民タイムス』は遅い時刻でも記事をぶち込める。ただ、県内に支社と印刷工場を置く『中京新聞』との間では、地域面を除く一面、社会面の「本版」と呼ばれるページに『中京新聞』が載せる、つまりネタが大きな事件であるほど、締め切り時刻をめぐる有利、不利は生じない。それだけに、鍛冶は常に『中京新聞』記者の動きに気を配らなければならない。
鍛冶は分かっていることだけで原稿をまとめ、《続報、改稿あり》の注釈を付けて電子メールで会社に送信した。
「ここで電話番してろ。うちの固定にも警電にも、全部おまえが出るんだぞ」
「警電ってどれですか」
「そこらじゅうにあるクリーム色の内線電話だ。他社のブースの固定電話には触るなよ」
鍛冶は記者クラブを早苗に任せ、封鎖されているという捜査一課がある九階までエレベーターで上がってみた。
刑事警察の花形である捜査一課は九階の広いフロアを占有している。通常なら記者の出入りが許される唯一の扉の前には、確かに門番がいた。若い課員だ。屋内だというのに、木製の長い警杖を構えている。
「近づくな。去れ」
明らかに鍛冶より若い門番は、鍛冶をどう喝した。
一階の記者クラブに戻り、なにもなかったか早苗に確認してから、鍛冶は隣の広報室の扉をノックした。ソファは、各社の記者に占領されていた。本来なら報道発表がある直前には、記者は広報室を締め出される。捜査一課が閉まっているから、室長は仕方なく広報室を開放したようだ。
「まもなく、第三報を発表します。被害者の人定が入りました」
奥の自分の席でパソコン画面を見ていた室長が、座ったまま、画面から顔を上げずに言った。
「室長、第一発見者は。通報者は」
「ここでは分かりません」
「被害者の家族構成は」
「ここに座ってるだけのわたしにはなんにも分からんよ。手足が多くて長いみなさんの方が詳しく把握してるでしょ」
ソファにいた各社の記者は、広報室内では使用が禁止されている携帯電話を握って廊下に出たり入ったりだ。
《県警捜査一課とあけぼの北署は、殺人事件とみて関係者から事情を聴いている》
取材で手が回らなくなると予測していた鍛冶は、すでに飛ばし記事を書いて送稿していた。紙面を割り付ける整理部に大きく扱ってもらうためのアピールでもある。
廊下から、栗坂を現場に向かわせて数度目の電話を鍛冶は鳴らした。
「被害者の人定が間もなく出る。そっちはどうだ」
〈夫と二人暮らしですが、夫の年齢が不明瞭です〉
「一課の部屋が閉鎖されてる。明らかに不慮の事故やら自殺やらの類じゃない。殺人ではないとしても、傷害致死か業務上過失致死だ。おまえの見立ては」
〈物盗りや流しによる犯行ではありませんね。近親者による怨恨じゃないかと思います〉
「なぜそう思う」
〈鑑識の対象が狭すぎます。屋外をほとんど調べていません。隣近所も、言い争う声やら物音やらを聴いてません。現場はアパートで規制線が張られてて建物には近づけないんで、アパートを出入りする住人やら建物周辺やらからの聴き取りです〉
「ほかの社はまだいるか」
〈います〉
「分かった。もうしばらくそこで続けてくれ」
クラブに戻ると、記者のいるブースではその主が電話とパソコンにかかりっきりになっていたが、電話番を申し付けた早苗だけは、手持ちぶさたさそうにブースの席に座っている。
「なにかあったか」
「なにもありません。鍛冶さんの方はなにかありましたか」
「あってもおまえには教えん」
殺人の可能性が高い事件を取材しているキャップが戻ってきたというのに席を立たず、しかも本気でそう思っているのか分からないが、キャップの取材成果を聴いてやろうという神経の図太さに、鍛冶は軽いめまいを覚えた。
報道メモは次々に出たが、いずれも細切れの情報の更新だけで、事件の本筋はなにも分からない。
〈副署長席に近づけません。署の玄関で待ちぼうけです〉
あけぼの北署に向かった記者によれば、署も記者の立ち入りを制限している。現場の栗坂からの断片的な情報だけが頼りだ。
(「三 任務」に続く)