序 / 一 午睡(シエスタ)
序
トンネルのような薄暗い廊下で、ストレッチャーの脚の先に付いたキャスターがきゅるきゅる不快にうなる。彼女と彼女を乗せたストレッチャーは、扉の向こうに消えた。彼女は結界を踏んでしまった。
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一 午睡
かりかりと音を立てヒマワリの種をかじるリスかハムスターが、じっとこちらを見ている。前足で上手に種をつかんで、かりかり、かりかりかじっている。ほお袋を膨らませている。かじりながら、大きな目で見ている。うまそうだなと声を掛けようとしたら目が覚めた。鍛冶俊作は、昼間だというのに白くともる天井の長い蛍光管を見上げている自分に気付いた。
腕を組んで寝ていた。左肩がソファの背もたれに圧迫され血流が悪くなったためか、そこだけしびれを切らしている。ヒマワリの種をかじる歯の音はいつの間にか、パソコンのキーボード操作音に変わっていた。ぱちぱち、ぱちぱち、何人もがキーボードをたたいている。腕時計の針は、2時を指している。
「そうか」
誰に聴かせるでもなくつぶやき、鍛冶は上体を起こした。
向かい合わせで二脚ずつ並ぶ計四脚の三人掛けソファに横になり寝ているのは鍛冶だけだった。残る三脚のうち一脚には、他社の男が座位でやはり腕を組んで目を閉じている。背もたれが低いので首から上だけあおむけになり、見るからに苦しそうな姿勢だ。もう一脚では、別の社の男が読み物をしている。読み物をする男は、鍛冶が目覚めたことに関心を示さずなにも話しかけてこないし、鍛冶もなにも言わない。最後の一脚は、誰も座らず横たわらず、無人だ。
黒いフェイクレザー張りのソファ表面には所々、鍛冶のかいた汗が残る。このままではこの部屋の庶務を担う中高年の女性職員から当て付けがましくぞうきんを掛けられるとこれまでの経験からよく分かっているので、鍛冶はズボンのポケットからタオル地のハンカチを取り出し、丁寧に汗の跡をぬぐった。
「むむむ。結構な美女が、ノーマスクで来ますよ」
ソファとは別の場所にいた他社の男が、小学校の教室ほどの広さの、部屋の端から端までガラスがはめ込まれている見通しの良い窓の外に目を向け、なにかに感心するように言った。好ましい情報を誰かと共有したそうな明るい口調だ。
「まじですか」
「どれどれ」
室内にいた何人かが窓際に寄っていった。鍛冶も加わった。十一階建てビル一階のその窓からは、白いブラウスにグレーのパンツ姿の剣城早苗が、右脇に大きな箱を抱え、左手で箱の底を支え、窓と並行する通路を決してさっそうとは言えない足取りで歩いているのが見える。
夏の強い日差しを浴び、まぶしそうだ。暑そうだ。左肩には仕事用らしい革のトートバッグが不安定にぶら下がっている。
「ああ、あれは電気屋の娘ですね」
シリアスな案件に関することを含めそうするいつものように鍛冶は、まじめを装い周囲をけむに巻いた。
「電気屋? 報道用の駐車スペースから出てきましたよ」
早苗を最初に視認した男が言った。この男はいつも外ばかり見ているのだろうかと、鍛冶は、この男とこの男の所属する会社の行く末を案じた。
「うちのファクシミリが故障してるんで、取り換えにきてくれたんです」
「でも、『ミニ・クーパー』から降りてきましたよ」
窓から見える駐車場の報道機関に割り当てられたスペースには、オレンジ色の欧州製小型車が止まっている。蜃気楼で、派手なカラーリングの車体は揺らめいて見える。
「最近の電気屋は、おしゃれですからねえ」
鍛冶たちが一階の部屋の窓からがん首そろえて自分を見ているのに早苗は気付いたようで、まるで機嫌を損ねた子どものようにぷいと顔をそむけた。早苗はげっ歯類の小動物をイメージさせる容貌なのだなと、鍛冶は先ほどまで見ていた夢の中身を思い出し納得した。
「あれ、剣城さん」
鍛冶の配下たる唯一の手下で鍛冶よりこぶし一つ分ほど背の高い、早苗と同期入社の栗坂が、周囲につられ窓際に吸い寄せられてきて間の抜けた声を上げた。
女性職員の卓上で、全国の警察組織と専用回線でつながる警電が、ころころと鳴った。
「はい、記者クラブです」
緑色の制服の中高年女性は、なんの意味があるのかいつも三コール待ってから取る。
「鍛冶さん、『タイムス』の剣城早苗さんって方が受付にいらしてるんだけど、お通ししていいの」
受話器の口を押さえもせず、たぶん保留ボタンも押さず、女性職員は、中高年特有のだみ声を上げた。
「お願いします。室長には話してあります」
鍛冶は、「電気屋の娘」の来訪を承諾した。軽快とは言えないヒールの音がこつこつとすぐに廊下から聴こえてきて、開け放しの出入り口に早苗が姿を現した。屋内ではそうするよう受付で指示されたのだろう、新型コロナ感染対策用のマスクで顔の下半分以上が隠れている。
「ちょっと、鍛冶さん、どういうことなんですか。なんでわたしがこんな重い物を一人で、こんな所まで。どこに置けば」
早苗は息も絶え絶えだ。白いマスクが荒い呼吸でぺこぺこ膨らんだり口と鼻に密着したりを繰り返す。
「栗坂っ」
鍛冶が声を上げる前に栗坂は出入り口に駆け寄り、早苗から箱を受け取った。
「おまえが大役を命じられたのには、深い深い理由があるんだ。それはな、おまえが会社で一番暇そうだからだ。暇で暇でしょうがなさそうだからだ」
紛れもない事実を鍛冶はややオーバーに早苗に語って聴かせた。
県警本部記者クラブの『県民タイムス』ブースにある、固定電話機を兼ねる家庭用ファクシミリが紙詰まりを起こし使い物にならなくなっていることに、鍛冶はその日の昼前、気付いた。『県民タイムス』県警クラブ現場責任者たるキャップの鍛冶は、いつも本社編集局フロアにいる上司の社会部デスクに、新しいのを買ってくれと電話で申し入れた。デスクは、会社に使っていない物があるからそれと交換しろと、当然のことのように言った。
記者クラブに詰める鍛冶もその手下の栗坂も、時を問わず発生する事件、事故への対応で昼間はクラブから離れられないという大義名分を日々、会社に対して主張しているから、誰か社内で暇そうにしている記者に届けさせてくれと鍛冶は頼んだ。鍛冶が早苗を指名したわけではない。
窓から「電気屋の娘」を眺めていた他社の連中は、早苗の正体が判明し興味を失くした者と余計に関心を示した者に大別されたように、鍛冶は感じた。
「剣城。おまえ、みなさんに、お名刺をお交換させていただきなさい」
あわてた様子で早苗はトートバッグをまさぐり名刺入れを取り出した。各社に当てがわれているブースや共用机、ソファに散らばっていた十五人ほどの記者のうちの何人かがばらばらと立ち上がった。
「『県民タイムス』の剣城早苗です。よろしくお願いいたします」
入社してまだ数カ月の早苗は、よそ行きのあいさつを覚えていた。自分が預かっている栗坂も外では同様のことができているだろうかと、鍛冶はちょっと心配になった。
「一年生ですか。今年は『タイムス』さんには女性記者、なん人入ったんですか」
「鍛冶さんにいじめられてるでしょ。陰湿だからねえ、鍛冶さんは」
他社の記者は、どうでもいいようなことを早苗に尋ね、いらぬ知恵を付けさせる。
会議室で使うような脚が折り畳み式の細長い共用机で壁に向かってキーボードをたたいていた、ブロック紙『中京新聞』と公共放送『エヌ』の新人女性記者二人が、そろって立ち上がった。後ろに目が付いているのではないかと鍛冶は驚いた。ブースの席から腰を上げぬ者も含め一通り男性記者が早苗との名刺交換を終えたのを見ていたかのような正確さだ。
「どういった部門を取材なさってるんですか」
「社会部で主に文教関係を担当してます。市政クラブに名前だけ入ってはいるんですけど」
『エヌ』の記者に問われた早苗は、ソファに深く腰掛けていた鍛冶をちらりと見た。助け舟を出してやるべきだと鍛冶は思った。
「うちの社は、市政クラブは政経部が仕切ってるんだよ。社会部から一人だけ仲間に入れてもらってるから、市政クラブじゃ肩身が狭いんだ。剣城、そういうことだよな」
キャップの鍛冶は、このクラブのおおむねの慣習通り、他社のキャップ格には「ですます」調で、平の記者にはタメ口で接している。
「東京じゃあ霞が関の中央官庁も、各社とも政治部からも社会部からも相互乗り入れでクラブに記者を出してるらしいですよ」
全国紙の記者が口を挟んだ。
県警クラブに所属する記者の多くはここが初任地の若手だから、この記者を含め、ほぼ全員が東京での勤務経験を持たない。そして、大手メディアの地方の取材拠点では、そこに本社を構える『県民タイムス』のような、社会部、政経部といったセクション制を敷いていない。
「良かったな、剣城。市役所は東京の中央官庁と一緒だ」
鍛冶の出した助け舟に早苗は頓着せず、県警クラブでは全所属記者を合わせても二人のみの女性記者とのやり取りに熱中しだした。
「文教というと、大学とか回ってるんですか。うちの西塚と同じかしら」
「あ、はい。西塚さんにはお世話になっています。いろいろ教えていただいてます」
西塚という名の『中京新聞』の中堅記者を、鍛冶は知っている。今はどこのクラブにも所属しない遊軍のはずだ。大学を回っているとは知らなかった。
『中京新聞』の新人は、自社の記者をきちんと敬称なしで呼び捨てた。栗坂はこれができない。他社の記者に、自社の人間である鍛冶のことを「鍛冶さんが」と敬称を付けて話す。中学から大学までずっと上下関係の厳しい野球部に所属していて先輩を呼び捨てにすることなど考えられなかったというのが栗坂の言い分だ。
所属する会社は違えどもクラブ員同士は身内のようなものだから他人行儀を貫く必要はないという意見を、鍛冶は何人もの記者から聴かされた。自社の上役を三人称で呼び捨てできないクラブ員は、栗坂に限ったことではない。うちの鍛冶がと言いにくいならうちのキャップがと言えと鍛冶は栗坂に何度か注意したが、周囲の同業他社の若手もできていないだけに矯正は難しい。
早苗はそんなビジネスマナーを習得できているだろうかと、鍛冶は三人のやり取りを観察していた。
県警記者クラブという未知のテリトリーに足を踏み入れているのだから仕方のないことかもしれないが、早苗は、同じようにこの春からの社会人経験しか持たぬ『中京新聞』と『エヌ』の女性記者に気後れしているように感じられる。身長差のせいか、小柄な早苗が二人の不良に絡まれているような構図にも見える。自己紹介だけはよくできたが、記者としての修練は、直属の指導者が付いていないこともあり、キャップに厳しく指導を受けている『中京新聞』や『エヌ』の女性記者に遅れを取っているのではないかと思った。記者クラブでライバル各社の記者にもまれ、指導者役の自分から日々いじめられている栗坂の方が恵まれていると考え直した。
「あれ?」
大事なことを忘れているのではないかと、鍛冶は思い当たった。
「おい、剣城。おまえ、ここに来る前に広報室に寄ったか」
三人の話に割って入った。
「どこにも寄ってませんよ、あんな重い荷物持たされて」
「そらまずいな。ちょっとおれと一緒に来い」
「荷物は」
「持て。ファクシミリは持たんでいい」
記者クラブを出て隣にある広報室に入る前に、鍛冶は確かめた。
「名刺、まだあるか」
「五枚くらいに減りました」
「十分だ」
ノックして、返事を待たずに扉を開けた。
ソファセットを挟んで正面に、巡査部長の女性係員が制服姿でこちら向きの机に着いている。奥には室長の警視が私服姿で、やはりこちらを向く机に座っている。二人の間には、女性係員に隠れるように、係長の警部が室長同様に私服で横の壁向きに座る。三人は「コ」の字型に机を並べる。
「鍛冶ちゃあん、困るじゃないの。お嬢さんが車で入ってくるのも、荷物を抱えてここの前を歩いていくのも、ちゃんと窓から見えてるんだからさ。クラブ員以外の方は、最初にこっちに来てくれなくちゃ」
室長が愛用の扇子で自分の顔をあおぎながら奥から出てきて、鍛冶と早苗にソファを勧めた。勧めながら、女性係員に扇子で合図を送った。
「すんません、お色直しに手間取ってました。直すところが多すぎて」
鍛冶は座らず、早苗も座らせず、名刺交換をさせた。係長と女性係員とも名刺を交換させた。早苗に三人と名刺交換をさせた上で、ソファに並んで腰掛けた。女性係員が、冷えた麦茶を出してくれた。室長から合図があったからだろう。
「剣城さんは地元なの」
名刺を見ながら、テーブル上のコロナ感染防御用透明アクリル板越しに室長は尋ねる。
「東京です」
「ああそう、鍛冶ちゃんと同じ移住組だね。どうしてこっちに」
「県内の治安と報道の自由を守るためですよ。な、そうだろ剣城」
ほかのどの新聞社にも採用されなかったから仕方なく来たのだと分かっているくせにどうしてそのようなことを聴かれなければならないのかと、鍛冶はいつも苦々しく思っている。だから、答えにくい問いに早苗がむちゃな回答をひねり出す前に、代わりに答えてやった。
「『タイムス』さんは、われわれ県警とぴったり同じ管轄を持つ唯一の新聞社だからね。われわれも、『タイムス』さんを敵に回さぬよう、悪いことを書かれないよう常に緊張して職務に取り組んでるんだよ。ね、そうでしょ鍛冶ちゃん」
県警は、『県民タイムス』の存在なんて、少なくとも今の『県民タイムス』の存在なんてまったく脅威に感じていない。『県民タイムス』は地元紙を標榜しながら、隣の県に本社がある『中京新聞』に、県内発行部数で大きく水をあけられている。その結果、記者の陣容でも待遇でも、『中京新聞』の後塵を拝する。紙面のページ数も販売店収入に直結するチラシ広告の折り込み数も、『中京新聞』に比べて著しく薄い。『県民タイムス』が『中京新聞』に先んじたのは、全国各地の大手紙や地方紙に追随して夕刊の発行をやめるという、武器を一つかなぐり捨て敵前逃亡したことくらいだ。
事件取材だけは、『中京新聞』にもどの会社にも負けたくない――。鍛冶は意気込んでいるのだが、抜くより抜かれることの方が圧倒的に多く、いつも空回りだ。
室長と早苗との間のどうでもいい話も早苗と係長と女性係員を観客に見立てての室長との皮肉の応酬合戦もネタが尽きたから、鍛冶は席を立ち、早苗を連れて広報室を出ようとしたのだが、係長に呼び止められた。
「鍛冶ちゃん、ファクシミリ入れ替えるんでしょ。後でいいから、見せてね」
「ただの家庭用のおんぼろマシンですよ。そこまで見るんですか」
「庁舎内の回線とつながってるからね。一応、見るだけ」
記者クラブに戻ると、『県民タイムス』ブース脇の床で、見慣れたファクシミリが線を抜かれて死んでいた。
「電気工事夫くん、最新鋭ファクシミリはつながったかい」
「ばっちりですよ。受信、送信も通話も問題なしです。紙も詰まりません」
鍛冶の問いに、栗坂は受信したらしい紙を広げて見せた。つるにはまるまるむしの文字絵が紙いっぱいに描かれている。下の方には、誰か社内にいる人間らしい発信者のサインが入っている。
「へのへのもへじで送信したな」
「そうです。鍛冶さん、よく分かりましたね」
「発想が昭和なんだよ。おまえ、極度のおじいちゃんっ子だったろ。元号が変わったの知ってるか、戦争でアメリカに敗けたことは知らされたか」
「きのう知らされました。このポンコツはどうしますか」
「箱詰めしろ。おまえも入れ」
「分かりました」
栗坂は鍛冶の言う通り、早苗が会社からファクシミリを運んできた箱に、紙詰まりでもはや利用価値のなさそうな古いファクシミリを収め荷造りした。
「鍛冶さん、もしかしてなんですけど」
鍛冶と栗坂のやり取りを見ていた早苗が、眉間にしわを寄せて聴いてきた。
「なんだい、電気屋の看板娘くん」
「あああ、もう聴かなくても分かってきた。わたしがこれ、会社に持って帰るんですね」
「勘の鋭い新聞記者だな」
「分かりました。持って帰るのは持って帰ります。でもこの箱、重いのもそうなんですけど、大きさ的に持ちづらいんです。持って歩くの、みっともないんです。わたしが車をここの玄関に着けますから、そこまで栗坂くんに運んできてもらっても、それくらいのことはいいでしょ」
「そりゃ困ったぞ、栗坂は箱の中に入らにゃならんのだけど。まあいいや。栗坂、玄関まで持ってってやれ」
その日の夕方、広報室の係長が、入れ替えたファクシミリを見にきた。「見るだけ」と言っていたが、本体を傾けて底面をのぞき込んだだけでは足りないようで、受話器を上げて耳に当て、フックを指でかちかちと押したり離したりを念入りに繰り返した。
「今どき事業所でファクシミリが現役稼働してるのって、先進国じゃ日本くらいらしいですよ」
鍛冶は、仕事熱心な係長に声を掛けてみた。
「そうだね。鍛冶ちゃんたちの業界もうちらのカイシャも、旧態依然としてるから」
どことも通話状態になっていない受話器を耳に当てながら係長は、警察組織に勤務する者が自らの職場を指す際の隠語を、身内しかいない県警庁舎内で当然のように使った。
ファクシミリの見分を終え、係長はクラブのソファに腰を下ろした。部屋に残っている鍛冶たち記者とどうでもいい世間話をして、なかなか腰を上げない。どこかの会社の誰かが県警にとってよからぬ動きをしていれば芽の内に摘むための、広報室の中間管理職としての重要な任務だと鍛冶は受け止めている。
(「二 応援」に続く)