4. 黒い人
「それでいいのか」
ハリのある声がした。
顔を上げることもできなくなった体だが、
思考と瞳だけは、しっかりと動くようで。
声のした方へとわずかに視線を送ってみると、
木々の影から、また別の人の姿をした者が現れた。
衣服は黒く、長い髪も黒い。
まるで闇から生まれ出でたような存在だったが、
白い肌の上に乗る微かな笑みが、
どこか不気味で、寂しげだった。
「それでいいのか」
黒い人がまた、私に言う。
意味が判らなかった。
何が『それ』で、何が『いい』のか。
今まで出会った者たちの、どの語りかけよりも曖昧で、
どの語りかけよりも鮮明な声。
まっすぐに見つめてくる瞳も黒く、
私と視線を合わせたまま、それはゆっくりと近づいてきた。
踏みしめる草の音が、やけに耳につく。
これは、なんだ。
「まさか、横取りでもするつもり?
僕の場所にある、すべての生き物は僕の物。
そう言ったのは、貴方でしょう?」
私の頬を撫でているであろう金髪の人が、
楽しそうに笑みを送る。
「我が認めたもの以外は」
緩慢に答えた黒い人は、それでも私から目を離さない。
私も、彼から離せない。
これは、なんだ。
「でも、この子は違うでしょ? 僕が先に見つけたんだから」
「後か先かなど問題ではないのだ、ベル」
黒い瞳が瞬きをする。
一瞬言葉を詰まらせた、ベルと呼ばれた金髪の人は、
私の頬から手を離し、ニヤリと冷たく口の端を上げた。
「だったら証を見せてよ。
この子が貴方の許可を得て、ここにいるっていう証。
それなら諦めてあげてもいい」
大げさに両手を広げてみせたベルは、意地悪そうに微笑んだ。
黒い人がベルを見る。そしてまた私を見る。
その動きはひどく緩やかで、
彼だけが別の時間を生きているようだった。
証など、あるはずがない。
そう思ったが、声にはならなかった。
私の声はもう出ない。
私の言葉は誰にも届かない。
「お前はその翼で何を見た」
黒い人が私に言った。
「何を求めて、空を生きた」
黒い人は続けるが、私に答える術はない。
私の体は、動かない。
私はただじっと、目の前の黒い瞳を見つめた。
底の見えない深い色は、あの雪原の洞窟を思い出させた。
あそこはとても寒かった。
いつまでも溶けない雪。それなのに凍らない川。
空はいつも薄暗い灰色で、吐く息はいつも白かった。
日に何度も訪れる吹雪の間は、
洞窟の中で皆、体を寄せ合って過ごした。
たくさんいた兄弟たちは、まるで一つの大きな岩のように、
仲良く寄りかたまっていた。
私は、彼らとは話が合わなかったので、
博識な母と共にあった。
生まれてからいくつも住処を変えてきたが、
私はあそこが、一番好きだった。
「それでいいのか」
何度も訊くそれに、はっとした。
黒い人が私を見つめる。
胸がざわついた。
冷たくなったはずの体が熱く感じる。
これは、なんだ。
「お前は、裏切り者になりたかったのか」
ドクリと心臓が跳ねた気がした。
・・・違う。
私は裏切り者ではない。
私は何も、裏切ってなどいない。
裏切ったのは竜たちだ。
私を嫌い、私を捨てたのは、竜たちの方だ。
私は知りたかっただけなのに。
怯え暮らす毎日の意味を。
誇りだと言いながら、ごまかし謳う、本当の理由を。
希うように見上げる母の、空へと募るその想いを。
私は知りたかったのだ。
私は、母と同じものを見たかった。
母と同じものを感じたかった。
母と同じように生きたかった。
―――― 母のように、強くなりたかった。
「まだ早い」
ハリのある声がする。
何が、という思考も、次の瞬間には流れて消えた。
何故だか視界が霞み、黒い人もベルの姿もよく見えない。
「諦めるには早すぎる」
頭の中で声が響いた。
胸の奥で何かがざわめく。
瞳が熱く溶けていくようだ。
これは、なんだ。
これは、なんだ!
「我には聞こえる、お前の声が。
我は知っている、お前の心を。
答えよ、アルシオ。
それでいいのか」
パシリと何かが爆ぜ、激しく砕ける音が空を振るわせた。