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その5

バイト代とお土産のカレー、それにたっぷりの充実感を抱いて、アイヴィーはアパートまで帰ってきた。

稼ぎとしては、お小遣いレベル。だけど分かったんだ。

もっともっと、自分にできることがある。

仲間のお店に連絡して、何か困っていないか聞いてみよう。みんな困っているはずだし、どんな形でも手伝えることがある。

自分の稼ぎは後回しでいい。そんなものは、ちゃんと後から巡り巡ってくるんだから。

家に入ると、奥の部屋ではまだ話し声が、そしてギターの音が聞こえた。アイヴィーはできるだけ音を立てないように、キッチンに避難した。

今のアパートは、家賃の割には広くて部屋数もあって、とっても気に入っている。愛着もあるし、できたら退去したくはない…けど、あいにく更新期限が近づいている。いま1ヶ月分の更新料が出て行くのは、かなりの死活問題だ。

ま、でも、そんなことも後回しでいいんだ。

ヘッドホンで、もらったばかりの仲間のバンドのアルバムを聴きながら部屋の整理をしていると、シンが顔を見せた。

「終わったぞ。」

彼はこわばった肩をゴリゴリと回した。

「お疲れ様。今日は、もう終わり?」

「ああ。8時からもう1本入ってたけど、キャンセルになった。でも3日後にずれただけだからな。」

「それでも、今日は朝からずっとだったね。」

「メシ食うかトイレ以外は、ずっとパソコンの前だ。何だか会社員みてえだな。」

「すごいね、シン。がんばってるよね。」

「好きなことで稼いでるんだ、文句はねえよ。」

シンが「オンラインでギター・クリニック(ギター教室)をやりたい」と言ってきた時、アイヴィーはかなりビックリした。

彼から「オンライン」なんて単語が出てくるなんて予想もしていなかった。スマホで色々やっていたのは、それだったの?

一匹狼のシンが、ネットでギターのクリニック。

できっこない?

ううん、そんなことない。

アイヴィーは知ってる。ギターをまともに触ったこともなかった自分が、何とか作曲のマネごとまでできるようになったのは、紛れもなくシンの力だと。

彼はアイヴィーに教えている間、ただの一度も声を荒げたり不機嫌になることもなかった。弾けるようになるまで、辛抱強く、一歩ずつ指導してくれたっけ。

シンとギターを練習している時、いつも楽しかった。

“シンなら、間違いなくできるよ”

アイヴィーの予想通り、ギタリストの間でシンのギター・クリニックはすぐに評判になり始めた。

最初は対バンしたことがある仲間から、お試しでぽつぽつと依頼が来るだけだった。自粛中の暇つぶしの意味合いもあったかもしれない。

そのうちに、紹介が始まった。

クリニックを受けた誰もが、口をそろえて言った。「絶対、受けた方がいい」と。

徐々に受講者が増えていった。2回目、3回目とリピートするのも珍しくなくなり、初対面の者も現れ始めた。

中には「ギター専門学校出身」という若い子までいた。クリニックの終わりごろになって、彼の方から「次、いつ予約すればいいですか」と聞いてきた。

人気の理由は、2時間1コマで2,000円という格安値段にもあるかもしれない。まだお世辞にも商売になっているとは言えないけど、現時点ではこれで十分なのだという。

「儲けなんて、今はいいんだよ。そんなの後からちゃんとついてくるんだからよ。“困った時はお互い様”でやってんだ、今はな。」

アイヴィーとおんなじようなことを言ってる。

そんなシンに何かしてあげたくて、アイヴィーのウェブショップで使ってるオンライン決済を、ギター・クリニックの決済でも使えるようにした。

ホームページを手直しするためにページを開いたら、アイヴィーブランドの洋服の購入依頼と共に、メッセージが届いていた。

「アイヴィーさんの歌を聴いてると、疲れていても笑顔になれます。いつも元気をもらってます。いま大変な時ですけど、負けずに頑張ってくださいね。ワタシもがんばります。ありがとう。」

カレー屋さんで言ってたこと。

この子にまで、届いたのかもね。

「ありがとうは、こっちのセリフだよ。」


「ねえ、シン。いつか、ギター教室だけで食べていけるようになったら…左官の仕事は辞める?」

床に体育座りをして、缶ビールをもてあそびながらアイヴィーが質問した。

「うーん、分からねえなあ…左官も好きなんだよ。イチから作り上げていくって部分は同じだからな。」

あぐらのままギターを抱えて、シンが答える。

今日も一日が終わった。

外に出て働くアイヴィー。

家にいて働くシン。

生活は一変したけど、心持ちは普段と変わらない。

夜になれば、お互いがいる。それで十分に幸せ。

「まあ、でも、ギターが無きゃ死ぬ。左官は無くても生きてるからな。その違いは、確かにあるな。」

そう言って、シンはビールを飲み干すと、またギターをかき鳴らした。

人に教えるためにさんざん弾いた後は、自分のために弾く。

結局は、一日中弾いていたいんだ。

夢中なんだよね、ずーっと。

「今日は、アタシ歌うね。シン、弾いてくれる?」

「おう。」

ギター・セッションもいいけど、歌わないと錆びついちゃう。

SNSで歌つなぎとか流行ってるけど、本当は「みんなのため」「不安な世の中だから」とかじゃない。

ただ、歌いたいだけなんだ。

今夜は声がよく出ている。つい大きな声で歌いたくなっちゃう。気を付けないとね。

「今の、何か良くなかった?」

「録っておくか?」

「うん、そうしよう。」

ずっとライヴがない日々。二人で曲を作って過ごす、こんな夜が続いても、それはそれで悪くない。

それでも、ね。

「今夜はもう、終わりにしようよ。」

「疲れたか?」

「ううん、そうじゃないけど。」

アイヴィーはそう言って、シンのギターをそっと取り上げた。

「抱いて欲しいな、って。」

シンはアイヴィーをまじまじと見つめた。

「…アイヴィー、最近すごいな。何かあったのか?」

「こないだのは“抱いてあげる”でしょ。今日のは“抱いて欲しい”だからね。ぜんぜん違うよ。」

「結果に大きな違いがあるとは思えねえけどな。」

「じゃあ、どうなるか試してみようよ。」

そう言いながら、アイヴィーは身をくねらせ、着ているものをみんな脱ぎ捨てた。


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