エクス4
そこからは激動の日々であった。アトリスとエクスは人間界、イオタは魔界中にこの重大な事実を伝えて回った。もちろん、猛烈な反対に遭ったが、武力にて滅ぼそうとする者はいなかった。
なぜなら、人間界も魔界も疲弊しきっており、大規模に兵を挙げるような力はほとんど残されていなかった。立て続けに起きた四度の侵攻、大戦は、戦というものに対するアレルギーを起こすのに十分な材料だった。
とはいえ、反発は並大抵のものではなかった。ニュクニル、そして魔王という立場からの物言いでなければ、到底承服できないほどの反発だった。
しかし、アトリスとエクス、イオタは尽力し、あらゆる反対勢力を根気よく説得し、たった三ヶ月で結婚式を開くよう手はずを整えた。
その中には大賢者ナタディルの尽力も甚だしい。彼は魔界にも名が通っていたため、魔界でも人間界でも、大いに彼の知恵と名は役に立った。
そして、当日、結婚式は執り行われた。
揉めに揉めながらも、結婚式は人間界で執り行われた。もっとも、その場所は境界都市だった。人間界と魔界の境目の都市だ。最大の妥協案だと言えた。
警備も尋常なものではなかった。魔界側、人間界側の精鋭という精鋭がその場を守り、各国の権力者の周囲には雲霞の如く護衛がついた。
それはさながら戦そのものであった。だが同時に、互いの戦力の探り合いの場でもあった。最大最強のカードを相手に見せる訳にもいかず、かといって戦力がどの程度か、舐められない程度に見せておく必要があった。
それが、膨大な数の護衛の質と量に繋がっていた。
もちろん、そうなることは想定済みであり、数万人が入るほどの建築物の中で、物々しい空気の最中、異常なほどに武人が犇めく中で結婚式は開始された。
和やかな雰囲気など微塵もなかった。人間界、魔界双方における権力者の頭にあったのは、面子と外交だった。
今後、友好関係を結ぶべきなのか、それによる利得はどの程度なのか。長年の禍根を濯いで余りあるほどのものなのか。そもそも信用に値するのか。
食うか食われるかの生存競争を勝ち抜いてきた権力者にしても、その最大の強敵が目前に控えるという経験は、未知だ。
ここで関係を結んでおき、後のカードとするか、もしくは相手の出方を窺うだけに留めるか。そんな思いが知らず知らずに均衡となり、衝突には至っていなかった。
そんな権力者の思いはよそに、結婚式は滞りなく進む。
ただ一つ、エクスの様子がおかしいことを除いては。
エクスは脂汗を流し、歯を食いしばり、拳を固く握りしめていた。
最初は結婚に伴う緊張や、そんな戦場のような場の雰囲気に飲まれてのものかと皆微笑ましく感じていた。
しかし、そうではない。
第一、エクスの胆力は並のものではない。三回魔王を退け、剰えその魔王をその伴侶とし、明らかな敵対状態の魔界との和平交渉に丸腰で臨んだ男である。
それがプレッシャーに負け、周囲に焦りや緊張を悟らせるような真似をするものだろうか。
いくら結婚や社交の場には不慣れとは言え、これからの外交において重要な局面であるこの場で、剛胆さを見せつけなければいけないこの場で、失態とも思えるような振る舞いをするものだろうか。
否。エクスはプレッシャーに負けたのではない。
では、何に耐えていたのか。
式が終わりに差し掛かり、異変が既に押さえきれない状態になった時、アトリスははたと気づいた。
エクスは何かの力を押さえていたのだ。それも並の力ではない。彼の全力を以て何かに耐えていた。
それにアトリスが気づいたのは、エクスから軽く黄緑がかった光が漏れていることに気づいたためだった。
星靈気。彼を守護する星靈の力を借り、エクスは体の内部の何かを押さえ込んでいた。
中でも黄緑色ということは星靈ル・メキアの力を借りていることになる。それは、星靈の中でも最高位に位置し、物理攻撃のほとんどと、魔法攻撃の七割程度は無効化できるほどに強力だ。さらに身体能力の増幅や回復能力の倍加など、甚大な力を持っている。
それを使わねば耐えられないというのは、どういう状態に置かれているというのだろう。
アトリスは不穏なものを感じた。
そして、それは現実のものとなる。エクスは口づけを交わすという段になり、掌から黄緑色に光る剣を出した。
星靈斬魔剣ラ・ヴァトス。目映いばかりの光でできたその剣は、神々しいほどに光り輝き、そして、斬魔の名を冠する通りにイオタを斬ろうとしていた。
イオタはあっけにとられた。なぜ自分が斬られようとしているのか、まるで理解できなかったからである。
しかし、そこからアトリスの判断は迅速だった。
「ナタディル殿!」
「……承知!」
高速詠唱の後、剣が振り下ろされる前にエクスの姿は消えた。
侵食魔法により魔法防御のすべてを食らいつくし、さらに転移させたのである。
それをほんの刹那にナタディルはやってのけた。だが、それは膨大な魔力を強いる行為だった。ナタディルは崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。
しかし、問題は結婚式の最中であったということだ。場は何が起きたかわからず、しん、と静まりかえった。
何かが起きた。それも、信じられないほどの重大な何かが。だが幸運なことに、それを理解していたのはほんの一握りだった。
「お色直しです。しばらくお待ちください」
汗をかきながら、笑みを浮かべてアトリスは言った。
なんだ、少し変わった演出か。
もし、すっとぼけた観客ならばごまかせたかもしれない。しかし、その場にいたのは人間界、魔界を束ねるお歴々と、百戦錬磨の戦人のみ。恐らく、誰一人とてその言葉にはだまされてはいないだろう。
しかし、少しのざわめきのみでその場は落ち着いた。最悪の事態が起こる寸前にアトリスとナタディルが止めたために、事を起こすような状況でもないと判断されたのだろう。
しかし、事態は思ったよりもよほど深刻だった。
ナタディルが咄嗟にエクスを転送させた先。それは城の中にある牢獄であった。
それもただの牢獄ではない。凶悪な魔物や囚人を幽閉するための特殊な牢獄、封幽獄であった。
その中であれば筋力も低下し、さらに魔力も完全に封じられるため、どれだけ高位の魔族であろうともその中では赤子同然となる。
だが、エクスはその中において、ラ・ヴァトスで結界を切り裂いて回っていた。
強力な魔力結界のすべては、図抜けた力の星靈気によって焼き切られており、辛うじて残った結界も薄布のように引き裂かれている。
慌てて駆けつけたイオタとナタディルは、この惨事に何が起こっているか未だ判断がつかなかった。
「……どうしてこんなことに!」
イオタは嘆いた。同時に何が起こっているかもわからず、途方に暮れていた。
「なぜか、知りたいか?」
と、その時背後から声がした。
途端、エクスが切り裂いていた空間に、漆黒の板が取り巻き始める。黒曜石のようになめらかな板状のそれは、何重にもエクスを取り巻き、さらにそこに鎖が絡まり、立方体の黒い塊ができあがった。
「帝封縛……! ということは、あなたは!」
「久しぶりだなナタディル。しかし、何かが起こりそうだと思えばこれか。やはりな」
赤い衣に、漆黒の鎧を身につけた男がそこにいた。美丈夫ながら髭を蓄えており、周囲にふわふわと拳大の黒球が漂っている。その顔には笑みが浮かんでいるが、眼光は鋭い。
「……ナタディル、あの方は?」
イオタが尋ねる。すると、ナタディルは焦りを浮かべてイオタを見た。
「あの方は魔帝神ノトン。お前達の主神だろう!」
そう言われ、弾かれたようにイオタはその場にひれ伏した。
「知らなかったとはいえ、無礼を! 私はイオタ、魔王であります」
「面を上げろ。そういうのは好かん。というか、俺の方から出向いていなかったから、知らんのも当たり前だよな。ちと放置しすぎた。で、魔王イオタよ、エクスがああなった理由、知りたくないか?」
「……はい」
イオタは未だ受け止めきれずにいた。なぜエクスが結婚式を投げ出し、剰え自分を斬ろうとしているのか。自分を斬ろうとしていたエクスは鬼の形相であり、自分の知っているエクスではなかった。
何かに取り憑かれたのだろうか。それとも、あれこそが四体の魔王を葬ったエクスの本当の姿だと言うのだろうか。
イオタは戸惑いを隠せなかった。
「まず、忠告しなかったことを謝ろう。悪かった。俺はこうなることを知ってたんだ。でもまあ、止めたって無駄だったろう? それくらいお前達二人が真面目だったのはわかっていたから、俺は水を差す真似はしたくなかったんだ。だからここに忍び込んで、何か起こった時に対処できるようにしておいた」
「……いえ」
「で、エクスがああなっちまった理由は、別にエクスが悪いわけじゃない。イオタ、お前が悪いってわけでもない。ただ、ルール違反だったからああなったって話だ」
イオタは眉をしかめた。
「ルール違反、ですか? 人間界と魔界とで協力体制を取ってはならないという不文律ということでしょうか」
「いや。そういう事じゃない。もっと単純だ。それは、勇者と魔王は殺し合わなければならないというルールだ」
イオタは眼を見開いた。
「なぜです! 勇者と魔王が争う理由は取り除かれた今、そんなルールは……」
「違うんだイオタ。ルールが先だ。理由があるからじゃない、ルールが全てなんだ」
「そんなルール、誰が決めたんです!」
ノトンは上を指さした。
「神だよ。神が決めたんだ。勇者と魔王は殺し合わなければなりません、ってね」
イオタは絶句した。
「じゃあなんで神はそんなルールを決めたんだって話になるよな。答えは簡単。神は勇者と魔王の闘争における勝敗で、出世や進退が決まるからだ」
「……どういうことです?」
「俺たち神は世界を創造する。その上でその世界を上手くコントロールしなきゃならない。さてここで問題だ。神が世界を作って、その出来の善し悪しを測るには何がふさわしい?」
イオタは考える。
「どれだけ繁栄しているかだとか、人口の多さだとか?」
「んー、それも良いが、物差しとして適当かそれは。どれだけ繁栄しているかなんてすぐには判断できない。人口なんてはっきり言えばやる気になればどんだけでも増やせるんだ。ま、環境とのバランスもあるがな。だから、すぐに神の采配が上手か下手かとしての判断材料としてわかりづらい。そんな訳で、神は手っ取り早い手段を求めた。ゲームの勝敗で決めればいいじゃないか。勝敗ほどわかりやすいものはない、とね」
イオタは気づいた。
「それが、勇者と魔王の闘争というゲーム、ということですか……」
「ご名答。勇者側と魔王側に分かれて勝敗を競えば、実に判断として簡単だ。神もおそろしく数が多いし、世界もそれ以上に多いわけだ。そんな膨大な処理すべき仕事がある中で、神の能力査定として処理しやすい方が断然楽ちんだ。上の方の連中の仕事が減る。ってな訳で、勇者と魔王は殺し合わなければならないんだ」
イオタは激高した。
「そんなのは、私たちの権利を踏みにじっている」
「権利ねえ。まあそうかもしれない。でも、たいていの場合、文句は出ない。なぜって? 憎しみ合う組織の長同士が、その環境を超えて隔てなく相手を判断し、剰え恋愛感情を抱くなんて、殆どあり得ないからだ。大体の場合は周囲の環境に流される」
ノトンの言葉にイオタは何も言えなかった。
「だから、この闘争というゲームについてのルールは、言わずとも誰もルール違反をすることは大抵無いんだ。他にも幾つかルールはあるが、引っかかることなんてほとんどないものばかり。だから俺は静観してた。もしかしたら、ルールが無視されるかもしれないって俺もどこか思ったのさ」
「でも、あなたの出世や進退は」
「魔王側が三連敗で、上の連中が黒涙のゼダーっつー調停者を寄越すような状態だぞ。俺の評価なんざガタ落ちさ。だから逆にどうなったっていいやと思ってた。しかし蓋を開ければこれだ。俺自らが介入するのもルール違反だが、むざむざお前を殺されるのも忍びなくてな」
そう言っている間にも、ノトンの作った帝封縛は、内部から恐ろしい破壊の音が聞こえている。
「参ったな。上位闘神でも止められる代物だぞあれは。エクスは本当に化け物だな」
「あなたが魔王側なら、勇者側の神に止めてもらえば!」
「残念ながら、対戦相手の神が誰かとか、俺にはわからないんだ。それで闇討ちとかされたら困るだろう? だから、相手が何を考えているかもわからん」
「……そんな」
「ああなったエクスを力で封じ込める他に手はない。後はお前が殺されてやるか。二つに一つだな」
それは絶望的な言葉だった。つまり、共に歩むことは未来永劫かなわない。そういうことである。
つい先ほどまで幸せの絶頂にあったというのに、そこからどん底に滑り落ちたのだ。
「ノトンよ。何か、何か一つでも手はありませんか。こんな結末はあまりにも哀れです」
ナタディルの言葉にノトンはうーん、と考え込んだ。
「あるにはある。だが、それは危険極まりない。それに、お前が望むものかどうか」
「お答えください! 私が死ぬか、エクスが死ぬか。そのどちらでもない選択肢があるならば、私はどんなことでもします!」
「では、『ゼウル・クァトロ』を行えばどうにかなるかもしれん」
「それは……、どういう……」
「『ゼウル・クァトロ』は、世界同士の戦いだ。勇者も魔王もなく、その世界そのものの生存を賭けて戦う。言ってしまえば世界同士の全面戦争だ」
「全面、戦争……」
ノトンはイオタのつぶやきに、指を振った。
「でも、そこがキモではない。キモは『ゼウル・クァトロ』で得られるものと、その代償にある」
「教えてください」
「この戦いに五戦勝利すれば、何でも一つ願い事が叶う。何でもだ。どんなスケールの大きなことでも神の力で叶えられる。さらに、副賞としてあることが行えるが、これはお前達にはさほど関係のない話だ。問題は代償の方だ。敗北の代償は、世界の滅亡だ」
世界の滅亡。つまり、エクスと共に歩むには、世界を賭けて五回も全面戦争に勝たねばならないということだ。
そしてそれはすなわち、エクスと世界を天秤にかけることを意味した。
「さあ問うぞイオタよ。お前はエクスと引き替えに、世界を滅ぼす覚悟があるか?」
あまりにも非情な問いだった。
イエス、と答えるのは簡単だ。しかし、その咎を負えるのか? エクス、あるいは自分がルール違反の代償を背負えば事は収まるのではないか?
世界にその重荷を背負わせるのは、あまりにも人道に悖るのではないだろうか。
「ああ、一つ言っておくがな、調停者まで出てきた以上、上はエクスの強さに目を付けている。遅かれ早かれ、エクス自身も調停者にされちまう日は遠くない。そして、調停者を出した世界は、遠からず滅ぶ。バランスを取れなかった神に対する罰としてな」
「なぜです……?」
「強すぎて主神の座を脅かすと大変だろ? だから、そうならないよう、駒に必要以上の力を入れないようにするためだ。強すぎるとそいつは潰される。反旗を翻さないよう、俺たち神も力を抑えられているという寸法だ」
つまり、遅かれ早かれこのエル・ダ・ラバーナは滅ぶ。自分たちの思いとは裏腹に、滅ぶのだ。
ならば、選択肢はない。
「受けます。私は『ゼウル・クァトロ』を、受けます!」
「わかった。俺も覚悟を決めよう。勇者側の奴にはちょっと恨みもあるがな。だが、『ゼウル・クァトロ』に挑むってのは栄誉でもある。さて、俺も影ながらサポートを惜しまない。楽しくなってきたな」
そう言って、ノトンは笑った。
しかし、イオタにとって、何一つ笑えることなどなかった。
そもそも、ああなってしまったエクスをどうするのか。どうやって他世界との全面戦争を勝ち抜くのか。考えることは山積みだった。
しかし、ナタディルがその胸中を察してか、言った。
「イオタ殿、私に秘策があります。必ずや他世界の敵を倒せるように致しましょう」
ナタディルは自信に満ちた笑みを浮かべた。