エクス1
勇者エクスは偉大なる勇者であった。
彼は、エル・ダ・ラバーナの危機を三度救った。三度、魔界から人間界を侵攻せんと企む魔王を討ち滅ぼしたのだ。
魔界には三王家と呼ばれる三つの王家がある。セラン、レーザ、ゾルヴァック。どの王家が魔界を統治するか、そして人間界を統治するかで魔界は揺れ動いていた。
最初に動いたのはセランだった。彼らは白銀のハルリートと呼ばれる、ありとあらゆる攻撃を通さない無敵の装甲を持つ者を王とし、他二家の承認を受けずに独断専行で人間界へと侵攻した。
エクスの戦いは困難を極めた。セランの猛攻は、人間界と魔界とを隔てる絶対不可侵の壁、ガレトゥナの次元隔壁を易々と破壊し、白銀のハルリートは一人で城郭都市イドゥムを壊滅に追いやった。
しかし、イドゥム兵が決死で掴んだ、ハルリートの装甲唯一の継ぎ目を、三万の魔法兵と五万の弓兵を用いて狙い、辛くも侵攻を妨げた。
続くレーザ家頭首、煉劫のツェンはエクスに一騎打ちを申し出た。
エクスはその申し出を受け、一人魔界に赴く。そしてだまし討ちに遭いながらも、ハノンの絶縛鎖にて彼の動きを封じ、討ち取った。
そして最後、ゾルヴァック家は朽蝕のキアを頭首とし、魔界は三度侵攻を行った。キアの吐き出す腐食を伴う毒性のガスにより、多くの人命、国家が失われた。子々孫々に至るまでの毒が各地にばらまかれ、世界はこれ以上ないほどの危機に見舞われる。
しかし、エクスはキアをアルギルの活火山に誘き寄せ、火山に突き落とすことで勝利を得た。
しかし、それでも魔界は諦めず、黒涙のゼダーを王とし、四度目の侵攻を行おうとしていた。
エクスは、疲れていた。
魔界による三度の侵攻。そのいずれもが想像を絶する強敵との戦いであり、人命も多く失われた。帰らぬ友も多くいる。しかし、エクスに対する有力王族からの評価は、極めて低いものだった。
それは優秀すぎる彼の戦闘能力により、王族は魔界による侵攻を軽く見ていたからである。
本来ならば、魔王の侵攻を一度防ぐだけでも奇跡である。それを三度繰り返せば、もはやエクスの存在は伝説と化し、皮肉なことに世界は逆に彼に失敗を許さなかった。
彼は世界を守って当然の存在となっていた。だから逆に感謝もされず、仲間や助けの手も次第に減っていった。
そればかりか、甚大な被害を責められた。もっと被害を最小限に留められたはずだと叱責され、遺族に石を投げられた。
功績に対し、彼に与えられたのはヴァールトンという小国の剣技指南役という職のみ。
四度目の侵攻があったと告げられ、エクスの中には純粋に人を救いたいという思いと共に、忸怩たる思いが滲んでいたのもまた事実だった。
ナタディルとの通信魔法に告げる声に、それが漏れていても、無理からぬことだった。
「エクス、声が疲れているな」
「……嫌だな、そんなことはないですよナタディルさん」
「お前はよくやっているよ、エクス。黒涙のゼダーの侵攻も、今のところほとんど奇跡のように止められている」
「……しかし、ウルカカ村は全滅しました。モルトバもそのほとんどが焼け落ちました」
「お前は最善策を取っていたよ。それは保証する。ウルカカ村への襲撃は読めなかった」
しかし、エクスは首を横に振った。
「ナタディルさん、ウルカカ村は陽動に使われた。それはわかっていました。本隊を叩くにはそちらに兵は回せなかった」
「そうだな」
「でももし、ハピアやガイリオスの説得に成功していれば、兵力は回せました。もっと被害を食い止められていた!」
エクスは叫んでいた。
「……エクス、それはお前の仕事ではない」
「所詮一軍人である僕の本分じゃないことは十分承知です。でも、それでも僕にはその機会がありました。もっとあの晩餐会で僕が腹芸ができていたら、そうしたら……」
エクスは唇を噛み締めた。
「今回の戦いは特に助けが少ないな。お前には本当に辛い思いをさせている」
「ナタディルさん、僕がこれまで戦ってきた意味は、あるんでしょうか……」
ナタディルが彼にどんな励ましの言葉を贈ろうか迷った、その時であった。
エクスは白馬に乗り、草原でナタディルと会話していたが、その青々と茂る草原が一瞬にして枯れ落ちた。
そして、周囲は瘴気に満ち、魔素が非常に色濃くなる。
「ゼダー……!」
エクスは叫んだ。とたん、空間がゆがみ、常に片目から濁った黒い血を流す黒衣を纏った大男が現われた。
「エクス、息災か?」
そして、あざ笑うかのように笑みを浮かべた。
「何の用だ。正面から現われるとは、舐められたものだな」
「エクス、私はお前の実力を人間界のクズ共より評価している。何の策も弄さずに正面から叩こうなどと馬鹿なことは考えんよ。エクス、提案があって私自ら出向いたのだ」
「お前と交渉の余地があると思うのか?」
「そう鯱張るな。急いては事をし損じるぞ。エクス、お前はなぜ私が今回侵攻をしたか、わかるか?」
「わからないな。三度も侵攻を阻止したというのに、なぜ間髪入れずに来るのか理解に苦しんでいるところだ」
ゼダーは嗤った。
「エクス、魔界三王家はお前に残らず敗走させられた。私は三王家に属さぬ、完全に外からの侵略者なんだよ」
「……どういうことだ?」
「お前が強すぎた、ということだ。私はお前を粛正するために外から遣わされたのさ」
「何を言っているかわからん」
「だからな、私は魔界とも戦っているのだ」
「な……」
エクスは唖然とした。
その時、緑色の風が巻き起こった。つむじ風と言うよりは竜巻に近い、すさまじい風だ。
そして、その中心から多くの兵と共に、緑色の髪をした女性が現われた。
「ゼダー、ついに追い詰めたぞ。もはや貴様は逃れられん」
「颶風のイオタか。今は貴様が魔王か?」
「ああ、継承式も何もかも、貴様がかき回してくれたおかげでな。私に継承権が移ったのだ」
イオタはゼダーをきっと睨み付けた。
「よかったではないか。お前もそのおかげで魔王になれたのだ。感謝するがいい」
「ふざけるな。貴様のせいで統治は千々に乱れている。それに、継承権のあった者を貴様に殺された屈辱、魔界を代表して礼をせねばならん」
「私に勝てると思っているのか? お前も見ていたはずだ。継承権を有した魔界貴族たちが束となってかかっても、私に手も足も出なかった状況をな」
イオタは歯噛みした。
「エクス、そんなわけだ。今ここで共にイオタを討てば、魔界は完全にその秩序を失う。侵攻など二度と行えんよ。内紛の処理だけで数千年は要するだろうからな」
「お前に利は?」
「私は見てみたくなったのだ。お前の強さがどこまで通用するかをな。お前はそれだけ、類い稀に優秀なのだよ」
「……ふざけるな。おい、イオタとか言ったな」
「なんだ貴様! 無礼だぞ!」
エクスの言葉に、イオタの周囲にいた部下が気色ばんだ。
「よい。勇者エクスか。何用だ?」
「お前が思い描く魔界の統治とは、なんだ?」
珍妙な問いである。イオタは困惑した。
「聞いてどうするのだ。人間界に関係あるまい」
「いいや、関係がある。僕は、魔界を侵攻する気はない。一切だ。君はどうだ?」
「人間界は基本的に侵攻を考えてはいないだろうな。魔界も三回の侵攻と、ゼダーによって統治は乱れている。人間界への侵攻は、少なくとも私の代ではあり得ん。魔界の綱紀粛正が最優先だ」
「ならば、この場においての僕の敵は、イオタ、君ではない」
イオタは笑った。
「いいのか? 勇者なのだろう、お前は」
「僕は、相手が話のわかる奴か、信用できる奴かはすぐにわかる。君は、その両方だと判断した」
これにはゼダーが笑い転げた。
「馬鹿な。仮にもイオタは魔王だぞ。その魔王を相手取り、話がわかる? 信用できる相手だと? 馬鹿も休み休みに言え」
「少なくとも、お前と与するよりは遙かに信用はできそうに感じたがな」
「それは間違いないだろう。しかし驚いたな。勇者と魔王が手を組むなど、私にとってこれ以上ないほどの楽しみだ。せいぜい、心して来い!」
「いざ!」
「勝負!」
戦いは酸鼻を極めた。
その場には、イオタの部下が百余名、エクスの率いる部隊が二十名程度いた。しかし、その悉くは皆殺しにされ、エクスやイオタ自身も一瞬でも気を抜けば彼らと同じ道を辿るほどにゼダーは強かった。
当初こそ回復魔法をお互いにかけなかったが、既にそんなことは言っていられなかった。唯一無二の仲間として、お互いは戦い、どうにか生きているという状態であった。
「無様だな。そうまでして生に縋り付くか」
「そうしなければ、お前を倒せないからな……!」
エクスは剣を杖とし、辛うじてその場に立っていた。息は絶え絶えであり、何層にも渡ってかけられていた守護魔法のほぼ全ては破壊され、魔法の鎧もただの鉄屑と変わらなかった。
イオタも同様だった。青い血を流し、全身から立ち上る魔力オーラも、当初のように棚引くほどに膨大ではなく、弱々しくなっており、身につけた防具も破壊され、肌が一部は顕になっていた。
「しかし、その場限りとはいえ、見事なコンビネーションだ。お互いの生命力が尽きるその一端まで戦い抜き、灯火が消える寸前で生命力を補い合う。斬撃や魔法も、連続となるよう組まれている。申し合わせもしていないというのにな」
「僕もイオタも一廉の武人だからな。流派や技は違えど、その根底は一緒だ」
「ハハハ! 魔王を武人と宣うか。討つべき敵ではないのか?」
「今は背中を預けられる戦友だ。この戦場において唯一無二のな」
「馬鹿げたことを。予言してやろう。お前のその、隔てなく相手を見る心根が取り返しのつかぬ災禍を産むぞ」
「まずはお前を討ってから考えよう!」
そこで、イオタからエクスに口を使わない、思念のみの通信魔法がなされた。
『もはやお互いに疲弊し、このまま続ければ負けは必至。エクス、お前の最大最高の一撃を撃て』
『僕の最大の一撃は仲間との合体魔法だ。しかし、神聖魔法の側面がある。君が行えば……』
『元より覚悟の上だ。逆にだからこそゼダーは撃つとは思っていまい。さらに魔法力底上げのため、我が配下の兵の魂を捧げる』
『正気か!? そんなことをすれば……』
『ゼダーの一撃で魂滅に至っている部下も多い。それにこれだけの瘴気だ。魂衰は激しい。蘇生魔法が効くかどうかは難しいところだ』
『二度と蘇れなくなってしまうんだぞ!』
『覚悟の上だ。お前たちは違うのか? 魔界軍掃討のため、数多くの人間が犠牲になったはずだ。それしか方法がないとき、命を、魂を賭さないのか、人間は』
『賭すさ。その犠牲のおかげで勝利がある』
『ならば魔族も、人間も一緒だ。ゼダーを倒さねばこの世界に未来はないのだ。一撃に賭けるしかあるまい』
『わかった。次に全てを賭けよう』
エクスは覚悟を決めた。
ぐっとゼダーを睨み付け、掌を天高く掲げる。
同時に、イオタは首元に付けていた宝石を毟り取り、力を入れると、まばゆい光が周囲を照らす。
「……守護結界!? 何をするつもりだ!」
そして、倒れた配下の亡骸から青い光が立ち上り、エクスの手に全てが吸い込まれていく。
「そんな見え見えの手で……!」
ゼダーは魔剣アシュタナの魔法力の籠もった一撃を振るった。しかし、その漆黒の大太刀の一撃は、イオタの守護結界に阻まれる。
「なんという強度だ……」
「千年に渡って魔導大公がその魔力を注ぎ込んだ逸品だ。五百三十の対魔力守護、九百に渡る物理守護の合わせ技だ、そう簡単に破壊できるものではない!」
「覚悟しろ!」
そして、エクスの手に莫大な魔力が吸い込まれていく。
「くっ!」
同時に、イオタはその場に跪く。全身を耐えがたい痛みが走る。あらゆる箇所に焼いた針を突き立てられ、赤く溶けそうな温度に熱された鋸で全身を隅無く切り刻まれるような信じられないほどの激痛が全身を走る。
エクスの最大魔法が神聖魔法である以上、魔族であるイオタにとっては毒でしかない。しかし、それしかゼダーを打ち破る術はない。
「撃て! エクス!」
耐えがたい苦痛。それでも声を振り絞り、イオタは叫んだ。
「終わりだ!」
そして、最大最高の一撃がゼダーを襲う。
半径三百メートル、高さたるや三百キロはあろうかという雷の柱が、絶え間なくゼダーを撃つ。
大陸のあらゆる箇所からその一撃は見え、劈くような音は戦いの終焉を声高に大陸全土に告げた。